白い部屋──
この世界、この都市において、『白』というのは『最上級の色』である。
あらゆる市民には『権利』があり、この『権利』はランクの上昇とともに増えていく。
その中には『身につけることのできる色』『侵入していいエリアの色』というものもあり、『白』というのは、Aランクさえもが入ることのできない、
この『白』の空間は、たとえAランクであろうとも、許可なく侵入すれば処刑を免れない。
……また、この都市の常識として、上のランクの者は下のランクの者に何をしても許される。なので、招いておいて『やっぱりお前を招いたことを取り消す』と言えば、即座の処刑も可能である。
もちろん、呼び出されておいて無視するということも許されない。
(上の者が善性の者であること前提の、即時・現場判断で兵を動員し、すぐに戦いを始められるための制度)
このいびつで、上の者がどこまでも横柄かつ狂暴になれるシステムについて、ディはすでに看破していた。
このシステムは、『誰もが人類のために戦い、そのために生きる。私欲ではなく人類のために即時に戦える』という思想で設計された市民徴用を含む戦時特例制度である。
……そして、人は善ではない。
だからいびつになっている。
神の願いに反して、人は、あまりにも利己的で醜い。
だが、神の願うように高潔であれと人に望むのは、あんまりだろう。それは、いくらなんでも、現実を見ていなさすぎる。
……しかし。
「ようこそおいでくださった、ディ。私がSランクのナボコフだ」
ディは、白い部屋で、白い服を着て座るその男を見て、思い知らされた。
(『これ』が、『人類』なんだ。神の創造する『模範的かつ平均的な人類』は、『これ』なんだ)
目の前の男──
モニターで見るよりずっと大きく、ずっとたくましく……
ずっとずっと、完璧で高潔に見えた。
人生で一度たりとも自分に甘えを許したことのない者が発する、特有の圧力。
それをただ笑っているだけで常に放っている。己を律し続け、追い詰め続け、人類のために戦い続ける。そういう『神の理想』を体現した男が、目の前にいた。
「座りなさい」
ナボコフがテーブルを挟んだ正面に、ディの椅子を出す。
色は藍色。Aランクの色である。
これが気遣いであることはすぐにわかった。
白い空間に招かれたディにとって唯一の安全違い。その椅子にある限り、たとえナボコフが気まぐれでディの『侵入許可』を奪ったとして、その椅子にある限りは処刑されない。
……この椅子そのものがナボコフの出したものであるのを思えば安心材料とは言えないが、それでも、気遣いであることだけは伝わる。
ディは、椅子に腰かけた。
テーブルを挟んで向き合うと、遠目に見るよりも分厚い。
歴戦の勇士という雰囲気が、座っているだけでにじんでいる。
「このたびのグニズドー攻略、実に見事だった。私も君に負けじと、違った方向でグニズドー攻略をしていたのだが……戦果で君に負けなかったかどうかは、怪しいところだ」
「恐縮です」
「コンピューター様も、君に注目していらっしゃる」
その時に、かすかにだが、ナボコフの目の色が変わったように思えた。
ディはまだその色合いの変化の意味を言語化できない。……だが、よくないものが潜んでいるな、というようには感じ取れた。
その色は一瞬だけですぐに引っ込んでしまい、ナボコフの顔に残るのは、先ほどまでの笑みである。
彼の笑顔はビジネスマンや立場の低い者のような愛想のある笑顔ではない。ただ、この人に笑顔を向けられるだけで誇らしく、思わず嬉しくなる、英雄の笑顔だった。
「ディ、君とともに人類のために戦えるのであれば、これほど喜ばしいことはない。コンピューター様のため、これからも地上の脅威を共に払っていこう」
「はい」
「……ただ。一つだけ、君に言わねばならないことがある」
(本題に入るんだな)
これまではアイスブレイク、ということなのだろう。
ここからの話が、ここにディを呼び出した理由。つまり──
英雄ナボコフの、本音。
「君はコンピューター様に格別の注目をされ、私をはるかに超えるペースでランクを上げた。恐らく、私と並ぶSランクになる日も近いのだろう。……けれど、我らはあくまでも、コンピューター様に仕える信徒にしかすぎない。そこを、自覚してもらいたい」
「どういう意味でしょうか」
「Bランクの時、君は、大規模グニズドー攻略を仰せつかったな。君が、というより、A、Bランクの者どもが、だ」
「はい」
「……その時に、コンピューター様を呼びつけて、約束をさせたという情報が私のところに入ってきてね。……あれはよくない。コンピューター様は、我らを見つめ、我らはそれに仕える。だが……コンピューター様を利用してほかのA、Bランクを威圧するような……『威を借る』ような真似は、よくない」
ここは、『はい、わかりました。二度としません』と言うのが、すべてを丸く収めるために必要なことだろうとディは考えた。
しかし……
「あの場面では、あれが一番話が早かった」
ディは唯々諾々と従わない。
真っ向から意見を言うことにした。なぜなら、
「以降、同じような場面があれば、きっとまた、同じようなことをするでしょう。なぜならそれが、一番いいと信じているからです」
この世界の者たちは、基本的に責任転嫁の方法ばかり考え、会議を遅々とさせることに懸命だ。
だが、それではダメなのだ。それを許せば、一分一秒が犠牲になる。一分一秒が犠牲になれば……
「この世界ははっきり言って、終わりかけている。我らはどのような手段を用いても、無駄な時間を避けるべきだと、俺は考えています。それがこの世界の人類を存続・繁栄させる──『拙速』こそが、現状の人類を生かし、多くの者に『思い出話をする未来』を与えるために必要なことだと考えています。だから、同じように時間が浪費されそうになれば、俺はまた、『コンピューター様』を利用して、周囲を黙らせる。これを止めようとするのは、受け入れられない。なぜなら、その行為は、人類の命をすり減らすものであるからと考えているからです」
同じようなことをする。
その時に物言いを入れられてはたまらない。
だから、このナボコフの言葉は、唯々諾々と『わかりました』と言うわけにはいかなかった。
だが、それはナボコフに『英雄の笑顔』ではない表情を引き出させる結果を生んだ。
『怒り』である。
「君の言っていることは理解しよう。だが、受け入れられない。コンピューター様は、我らの道具ではない。我らこそ、コンピューター様の道具なのだ」
「違います。俺の記憶にもある。コンピューター様の目的は人類の存続と繁栄のはず。そのために使えるものはすべて使うべきだ。それがコンピューター様であろうとも」
「コンピューター様は人間とは違う! かの神が犠牲になったり、利用されたりするなど、許されるわけがない!」
「なぜ」
「…………なぜ?」
「人の世にかかわる神は、人を助けるべきです。そうしないのであれば、神の国に引っ込んでいればいい」
「貴様、」
「Sランクナボコフ。質問があります」
「…………言ってみろ」
「コンピューター様は、狭い世界で支配者を気取りたいだけの神なのか? それとも、人類の救済のために活動し、目的に一心に向かう神なのか、どちらですか?」
「…………」
「後者であるならば、あなたの意見は間違えている。神のための人ではない。人のための神なんだ」
ナボコフが立ち上がる。
その巨体はますます大きく見え、拳が、腕が、内側から筋肉の膨張により盛り上がる。
巌のような拳が握りしめられ、ぎちぎちと音を発する。
立ち上がった彼の腰には、引き金があった。
『銃』ではなく、『引き金』だ。
銃身のない、グリップとトリガーだけのもの。
それに手をかけるナボコフは明らかに一瞬あとにそれを抜き、なんらかの危害をディに加えようとしていた。
間抜けにも壊れた銃を腰につけてしまっていた──という話には、ならなさそうだ。
ディは、緊張していた。
(強い)
歴戦の勇士、ナボコフ。
ディが知る情報はほとんどデータのみだ。いくつもの戦いを経験し、いくつもの巣を壊し、人類の生存圏を維持しいた英雄。たたき上げのSランク。陣頭指揮を執る英雄。
ディが来てからというもの、並んで戦う機会はなかった。
だが、強いのはわかる。データは嘘ではないし、誇張も脚色もない。この不自由極まりない絶望だらけの世界で、外なる知識もなく、ただただ戦い続け上り詰めた『神の思い描く模範的な人類』にして──
おそらく、バグ。
クローン生産プラントで生み出される人間たち。あらかじめ頭に知識を備え、成長促進剤で適齢にまで成長させられるのが、この世界の人間たち。
この世界にとって人間というのは画一化された統一規格品である。ランクによって多少インストールする知識に差はあれど、どれもこれもさほど変わりはない。
だからこそ、その中で頭角を現す者は、バグなのだ。
……神が『かくあれかし』と望むような、人類の見本。
それは皮肉にも、統一規格品ではなく、何かの間違いで生まれてしまっただけの、再現性のない逸品だ。
その逸品が、グリップを掴む。
……だが。
『かの者』は、すべてを見ており……
『かの者』が望むのは、人類の存続と繁栄である。
部屋全体に、声が響いた。
幼い少女の声に、幾重にも音声を重ねた、合成音声。
『我が信徒ナボコフ。落ち着きなさい』
「コンピューター様!」
ナボコフの叫びは、『違うんです』というような響きだった。
まずい場面を親に見つかった子供。あるいは、見せたくない姿を大事な、女の人に見られていると気付いた……男。
その叫びに対するコンピューターの声は、穏やかだった。
『我が右腕ナボコフ。私は言いましたね。人類のために戦う者に向けるのは、『敵意』ではないと』
「しかし、この男は!」
『正しい』
「……」
『私は神です。人のための、神なのです。その犠牲に私自身が含まれない理由はない。そう述べたはずです。そして、その決定に異を唱える権利はあなたにはない、とも』
「しかし……」
『Aランク市民、ディ』
ナボコフのさらに言いつのろうとするのを無視するように、コンピューターはディに声をかける。
ディは肩をすくめた。
(やはり、人の心はわからないのか)
それはどの神にもある陥穽だった。
ディも人の心情に敏い方ではないが、さすがにわかる。
ナボコフの目に、憎悪が宿った。
敬愛するコンピューターに、自分を放置して気に懸けられる者への、憎悪だ。
(面倒なことになりそうだ)
だが、それがコンピューターにはわからない。
『あなたの働きに、今後も期待します。ともすれば、あなたは二人目のSランクとなるやもしれません』
「光栄です──と言いたいところだが」
そこから続けるのは、ディなりのアピールだった。
ナボコフは紛れもなく英雄であり、ディはこれと敵対する意思がない。
神を完全殺害するために強くなるというのがディの目的だが、それは強いやつを見つけ次第戦いを挑んで己を鍛えるという手段を基本的には含まない。
特に相手が人間であるなら争いは避けたい。人として当然のことだ。
「俺はこの世界でのランクにはさほど興味がない。ランクを上げることで力の上限が取り払われていく感覚があるから上げているだけだし、この世界で出会った人たちに、もっと生きて努力することを好きになってほしいから活動しているだけで、この世界での栄達には興味がないんだ。だから、二人目のSランクは辞退する」
『あなたには、左腕になってほしいのです。この世界は、危機に瀕しています。人類のために、あなたにも、ナボコフとともに、私の力になってほしい』
「『天使』は片づけるつもりだ。どうにも、この世界での強くなり方がわかってきた。そのためにも大きな巣を壊す必要がある。だが……それ以降のことは、責任を持てないな。そもそも、いつイリスにこの場所をかぎつけられるとも限らないし」
ナボコフの言い回しから、ディは自分が『神殺し』であり、異界を渡って来たものだとバレていることを理解している。
だからこその『ぶっちゃけ』であった。
神は、語る。
壊れた機械のように。
『あなたには、私の力になってほしい』
「……」
『そのために手段は選びません。どうか、人類に存続と繁栄を』
「そこは同意だ。人類に存続と繁栄を」
通信が切れる。
ディはナボコフを見た。
彼は、愕然としていた。
愕然として……何かにひどく衝撃を受けた様子で、そこで、黙って、口を開けて、たたずんでいる。
ディは、
「……用事も終わったようだし、失礼する」
その場を辞することにした。
なんらかのフォローを入れるべきかなとも思ったが、何にどうフォローを入れていいかもわからないし、自分の言葉が相手の心を慰撫するようにも、思われなかったからだ。
それに、フォローというのなら、『お前と並ぶほど神のそばに侍る気はないよ』という意味で『Sランクは辞退する』と言ったのだ。ディにできる中では精いっぱいのフォローであった。
……もっとも、それがうまく伝わるとも限らないが。
誰もいなくなった部屋で、ナボコフは、つぶやく。
「…………ディ」
その目はまだ空虚だが。
その声には、熱があった。
暗く、ねばつくような──熱が、こもってしまっていた。