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第56話 希望あふれる世界

 進撃は続く。


 南方でディがグニズドーを攻略したと発表されれば、呼応するように北方でナボコフが巣を攻略する。


 また、北方で強い怪物フランケンが倒されたと聞けば、ディも奮起し、より多くの怪物を倒した。


 ナボコフは英雄だ。

 だが、その戦果は最近、頭打ちだった。


 Sランクという場所に上り詰めてしまったことで守りに入った──というわけでも、ないのだろう。

 しかしがむしゃらな進撃は止まり、降格されない程度にグニズドーを散らしてはいるものの、Fから上り詰めた時のような大躍進、英雄的活躍と呼んでしまうような戦果はなかった。


 それが今、かつてのナボコフが戻って来た。


 英雄ナボコフが、戻って来たのだ。


 そして、北と南、これまで進歩のなかった『人類の生存圏の拡張』というものが、ここ最近、一気に進歩を見せている。

 これは多くの者に希望を与えた。


 合成ジンが振る舞われ、酒の席で笑い声が聞こえる。

 この世界において酒は薬の一種のような扱いだった。希望も何もない世界を生きるための抗鬱剤であり、怪物との戦いで生き延びはしたものの治らない怪我を負った者にとっての鎮痛剤だった。


 それを戦勝を祝うために飲めるのだ。

 ……ナボコフの胸中はどうあれ、世界にはだんだんと希望が満ちていっている。


 ディにとって、喜ばしいことだった。


「ディ様、拳士隊、揃いました」


 ディの目の前にはまた大きなグニズドーがある。

 それはどうにも『安定期』から『活動期』に入りつつあるらしい。

 特有の気配というか、中で怪物がうごめいて、今にも出てきそうな雰囲気が、戦いを繰り返すうちにわかるようになってきた。


『活動期の巣に突っ込む』というのはかつて──とはいえ、つい最近まで──『絶望』を意味することだった。


 だというのに、ディの背後に控える者、ディからの訓練を受けて気を操る力を得た者も、そうではない兵卒たちも、その表情はまったく暗くない。


 信じているのだ。

 自分たちなら、どうにかできると。


(『希望』とは、『明るい未来を想像できること』なんだな)


 ディは『希望』について深く考えたことはなかった。

 だが、今、不意にわかった。希望とは未来を信じること。どれほどの脅威が立ちふさがっても、進んだ先で自分はきっと笑えている──きっと、目の前の絶望を乗り越えた先の自分が『思い出話』をしていると信じられること。その時に心できらめいている光こそが、『希望』という名前で呼ばれているのだ。


 ディは目を閉じ、笑う。


 それから、拳を握りしめ、振り上げた。


 たったそれだけの動作で、背後からときの声が挙がる。


 腹の底から、みなが声を出している。


「行くぞ」


 ディが駆けだすと、大勢が駆けだす震動が続いた。


 さらに、


「野郎ども、新たなSランクの誕生を支えろ!」


「新しい英雄!」


「二人目の希望!」


 叫び声が続く。

 これを聞いてディは、


(気分が悪いと言えば嘘になるが、少し恥ずかしい気はするな)


 わずかばかり照れながら、進んでいく。



 アグロームヌイ・グニズドーの攻略は、半ばに差し掛かりつつあった。


『我が演算よりはるかに早く、攻略が進んでいます。我が右腕ナボコフ。あなたの躍進を、大変嬉しく思いますよ』


 その男──


 ナボコフは、野営地でコンピューターの声を聴く。


 彼の目の前には野営用の椅子があり、その上にIDカードが乗せられている。

 そこから発せられるコンピューターの声を聴くナボコフは、片膝をつき、頭を垂れ、平伏の姿勢だった。


 彼は敬虔な信徒であり、コンピューターを慕う子であり、コンピューターのために勝利を捧げる、そのために己が傷つくことなど厭わない戦士である。


 腰に差した『銃身のない銃』は、彼の武装。

 もともと、Fランクの時にグニズドー攻略で武器を怪物に壊され、やぶれかぶれでトリガーとグリップだけになった銃を振り回して抵抗したことがあった。

 その時に至った『銃身のない銃の使い方』──


 ディと同じく、気を扱う方法を発見し、編み出し、修得した。

 ……多くのクローンが持ちえない才能を持つ、特殊な生産品。『光剣のナボコフ』とあだ名される彼特有の戦い方に必要な武装。それこそが、『銃身のない銃』なのだ。


 ……そして、この世界でAランク以上に『上り詰めるため』には、個人の強さだけでは限界がある。

『光剣のナボコフ』というのは彼の名前であり、彼が率いる精鋭部隊の名前でもあった。


 ……ディと同じく。

 いや、ディがむしろ、ナボコフと同じなのだ。


 たたき上げられた彼は、多くの者に希望を見せ、信頼できる部下を得た。

 そうして上り詰めて、ここにいる。


 ……苦労を経た上で、コンピューターのそばに侍ることを許された、からこそ。


「やはり、ディをSランクにするのは危険です」


 彼の中に、初めての感情が浮かび上がっていた。

 十年もの長生き・・・をした彼はしかし、この感情を知らなかった。


 上の者に不満を抱いたこともある。下の者が出来ないことに怒りを覚えたこともある。

 だが、この感情は──『自分と同格かそれ以上の者が、自分のいる場所に立ち、自分の敬愛するコンピューター様に、自分と同じかそれ以上の寵愛を向けられつつある』という状況で初めて抱いたこの感情は……


 嫉妬は。


 彼にとって、初めて心を焦がす炎だった。


『我が信徒ナボコフ、』

「何か、陰謀を感じるのです。あの男は、あなたの命を狙っている。そうに違いない……」


 論理的ではないと自分でもわかる。

 行動分析により導き出した結論ではない。その結論に至るために文句の付け所を探してしまう。

 理知的で冷静で分け隔てない英雄ナボコフは、己の心の中に浮かんだその不思議な動きを、どこか冷静に俯瞰していた。


 自分が二人いるようだ。


『お前は間違っている。冷静ではない。だから、きちんと考え、コンピューター様と人類のために最善の行動をしろ』と指摘する、どこか客観的な自分と──


『あいつは危険だ。あいつにコンピューター様をとられてなるものか。あいつを追い落とせ』と激しく叫ぶ、自分。


 ナボコフは、後者の声を支持する。

 その衝動は身を任せるごとに、『間違っていない』という誤認をふくらませる、怪しい魅力を持っていた。


「そもそも、あいつは『神殺し』ではありませんか。……話してみて、感じました。あいつは、情熱がない。情熱がない人間が、神を殺すなどという異常なことを成し遂げられるのは、おかしい。あいつは何か……日々の食事をとるように、神を殺すことを、日課としている、異常者なのでしょう。ですから」

『ナボコフ、冷静になりなさい』

「私は……」

『ナボコフ。……私は、迷っていました。しかし、あなたの頑なな態度を見て、決めました』

「何を、ですか」

『ディをSランクへと昇格させます』

「コンピューター様!」

『あなたは何かに囚われている。それが何かはわかりませんが』

「………………」

『何かに囚われることがあると、知れました。だからこそ、あなた一人が一番上に一人で立つ状態は、人類にとって望ましくない。そう結論付けたのです』

「神よ。神よ……神よ! なぜ、わかってくださらないのです! 私は、私は……!」

『ナボコフ。私の決定に異を唱える権利は、あなたにはありません』

「……そうではないのです。異を唱えたいわけではない。私は、ただ、私は、あなたに、私を見て欲しくて……」

『見ています。ずっと。生まれた時から。……死ぬその時まできっと、私はあなたを見続けるでしょう』

「……神よ」

『だからこそ、あなた一人が人類のすべてを背負う状況に、問題を感じていた。あなたの負担を減らせる者が来てくれたのです。これは、喜ぶべきことなのですよ』


 人と神とは、分かり合えない。


 ナボコフは、己の中に初めて沸き上がった感情を、うまく捉え切れていない。


 ……もしもここで、ナボコフか、神が、ナボコフの中にあるのは嫉妬であり、神がナボコフをもっと特別扱いし、ナボコフをディより上におくと表明すれば、この後に起こる問題はもう少し小さなもので収まったかもしれない。


 だが、神は人の心がわからず、男は己の心がわからなかった。


 神は良くも悪くも人の心を乱す。


 そうして乱された心は、もっとも大変な時に問題を引き起こすのだが……


「……神よ、私は」


 ナボコフは、そこから先の言葉が出てこない。

 古参も古参の英雄。

 だが、成長促進剤により生まれた時には若者の肉体を手に入れ、息せき切って十年生きただけのクローン。

 彼にはまだまだ、時間が足りなかった。

 己の精神を御すための経験が足りず……


 この世界は、精神の成熟を待つほど人が生きられないし、絶望まみれのこの世界で、成熟した精神が必要になるほど、人の心が揺れ動くこともない。


 希望がじわじわと男の心を毒し始めている。


 こんなことになるだなんて、誰も、想像できるはずがなかった。

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