ディの区画が襲われている、裏側──
「我が神、コンピューター様! Sランク市民ディの叛逆の意思は明らかです! あの男は、あなたの民を誘惑し、堕落させ、あなたを殺そうとしている! あの男は──骨の髄まで『神殺し』なのです! 註罰すべき、我らの敵です!」
パイプにまみれた巨大な機械に、ナボコフは高らかに話しかけている。
それはもはや演説だった。ただし、主張が幾重にもあるようなタイプの演説ではない。ひたすら対抗相手の悪印象を連ねるだけのネガティヴ・キャンペーンに他ならない。
それを聞かされるコンピューターは沈黙していた。
……
神には人の気持ちがわからない。
そして、人の気持ちがわからないことを、神その者も自覚している。
だからこそのランク制度なのだ。
哀れみや思いやり、『人の思う正しさ』、『人の社会の平和』──そういったものを、このコンピューターは自分で判断できるとは思っていない。自分の思う正しさは、人の思う正しさとは違うと、理解している。
だから、『より、人類のためになる者』のランクを上げ、『より、人類のためになる者』がすべての決断をする制度を作り上げた。
ランクの高い者が『こいつを処刑すべきです』と述べたならば、それは、処刑すべきなのだ。
神にとってはすべてが愛し子。人を増やそう、繁栄させようという願いによって生み出されたこの神は、人を減らす決断をよしとしない。
だがしかし、一人を生かすために多数を殺そうというのは、願いを背負う存在の行動として間違っている。そうして自分にはそのあたりの判断はできない──ならばこそ、『より、人類のためになる者』、すなわち『高ランクの者』がする判断に、異を唱えない。その祈祷に応じて願いを叶えるだけの機構に徹する。
それが、コンピューターが己に課した在り方だった。
……だが、今。
「同格たるディを、私の一存で処刑することはできない。コンピューター様、どうか、許可を。あの男が市民を操り、あなたを殺そうとしている証拠は提出いたしました。どうぞ、裁可を……!」
Sランクが、Sランクを殺そうとしている。
コンピューターは、己の定めた基準の陥穽に気付かされた。
……いや、気付いたのは、基準の陥穽なんていう、表面的なものではなく。
『人は、狂う』。
いつまでも、いつでも正気のまま、正義を成し、人を思いやり、人類のために尽くし、成果を上げ、無私の心で、他者を追い落とすことなどなく、信頼を以て過ごす──
そういう人間などいないということを、じわじわと、ようやく、理解させられ始めていた。
だが……
(ナボコフが、正しいのか、間違っているのか、わからない)
……ナボコフが提出した『証拠』は、ディの区画で、市民たちがコンピューターを軽んじるような言動をしている、それだけのものだった。
確かに訓練をし、武器を生産し、装備を整えている。このあたりもナボコフは『反旗を翻すための証拠』としてコンピューターに提出した。
しかしそれは、あの『天使』が統括する巨大な巣に挑む者としては当たり前の備えであると、コンピューターには思えてならない。
……そもそも。
ランクの高い者に権利と
すれ違い。
コンピューターは、自分のことを、『人類が存続・繁栄するための、単純な力であり機構』と定義していた。
だが人類は、コンピューターを絶対者だと思い、『コンピューター様が認めることなら何をしてもいいし、コンピューター様に叛逆を疑われないようにふるまうべきだ』と思った。
だから、
だって武器や軍を備えてコンピューター様に叛逆の意思を疑われてはたまらないから。
今、この時のように、誰か、自分を追い落とそうとしている者に、『あの者らは軍備をしている。これはコンピューター様に叛逆するためです!』などと言われてはたまらないから。
この地上にはコンピューターという唯一絶対の神がおり、その優れた権能は人類の絶滅をギリギリのところで押しとどめている。
だが滅亡を前にしても人類は協調しない。それどころか起こるのは足の引っ張り合いであった。
人は人を恐れる。力ある人を。
そして、人に力を与えるのは、神である。直接的に、力を与える者が、神、なのだ。
神の威を負った高いランクの人を、低いランクの人は恐れた。
また、賄賂などの手段によって高いランクとの『つながり』がある人を恐れた。その『つながりがある人』が自分の周囲に潜んでおり、そいつらが密告によって自分を蹴落とすのを恐れた。
唯一神がこの上なくはっきりと顕在化した世界において──
人々が恐れる『神』の実態は、『自分ではない誰か』、つまり、『世間』なのだった。
そういう人々が形成する世間において、コンピューターの布く基準──『人が、絶望にあらがう意思を持ち、高潔である前提』の施策などうまくいくはずがなかった。
そのいびつさ、淀み。
それが今、『SランクからSランクへの処刑要請』という形で、コンピューターの目の前に、ようやく、顕在化していた。
「すでにAランク市民、Bランク市民の多くから、ディの処刑に対する賛同を得ています」
ナボコフの言葉は空虚である。
Sランクが『賛同しろ』という態度で提示した話題に、賛同しないでいられる市民など存在しない。
それはなんの根拠にもならないのだ。
「以前から不満があった下位ランクの者どもは、すでにディの区画に殺到し、ここを攻撃し始めています」
空虚である。欺瞞である。
上のランクが『襲撃してもらいたいなあ』とこぼしたら、そのお願いを下位の者は叶えなければならない。
叶えるように動かなければ『今、死ぬ』。一方で、ディの区画に攻め入れば、高い確率で死ぬだろうが、生き残る目はあるかもしれない。
下位のランクの者が、上のランクの者命令で、ほとんど死ぬであろうグニズドーに挑んでいたのと同じ理屈だ。
こんな世界。
こんな世界に──
神の布いた制度は、この世界を、こんな世界に、してしまった。
人々に権利と自由を与え、ランクを定めて神が後ろ盾に立つことで、『神の威を借る横暴な者たち』と、『その者らに逆らうことのできない人々』を、生み出してしまったのだ。
……人の行動が、その人の本心ではなく、その人の示したい意見でもなくなる。そういう世界に、してしまったのだ。
(私は、間違えてしまった)
正しく、完璧な神ではないという自覚はあった。
幼い神である。生まれたての神である。
人が絶望の中で望み、そうして生まれた神である。
機械仕掛けの神──
人工の、神。
では、間違いに気づいたとして、どうするのか?
今から、何が出来る?
この制度、この治世、コンピューターが可能な限りの演算によりはじき出した『現状で出来る、最善の施策』だ。
これを今から変える? どうやって?
現状が悪いものであると感じた時、人は変化を望む。
だが、神なる視点からすれば、変化した先が今よりいいとは限らないのだ。
この世界はとっくにギリギリで成り立っており、神の手をして、人類に見せられる精一杯の希望は、今ある限りなのだ。
だからコンピューターには、何もできない。
人と人との問題の解決を、人に求め、人の善性と力に願いをかけて……
何も出来てこなかったコンピューターには、何も、できない。
……ここで、何かを覆せる者は。
その時、ナボコフのIDカードに通信が入る。
答えを出せないコンピューターは、ナボコフに「出て構いません」と促した。これは演算時間を確保するための行動でしかなかった。
だが、しかし。
『ナボコフ様、ディが、ディが……』
「……」
『我らを、次々に、
……通信が不意に途切れる。
内戦である。
殺すか、殺されるかである。
だが、そんな常識知ったこっちゃないと、異界の者は暴れまわる。
いつか、この日のことも思い出話にするために──
異界渡りが、炸裂していた。