ひどい状況だ。
ディが戻った時、すでにディの区画の者たちは
ビルは崩れ、折れ、ディのもののはずの区画は土足で踏み荒らされて、各所にナボコフの直属の兵や、ナボコフが扇動したと思しき市民たちがいた。
この状況で、
『ディ様、区画内に戻られたんですね!? 遠距離通信が封鎖されていて──』
自分の区画に入った途端、ディはサシャからの通信を受けた。
最初のころは『ディが戦場に行くなら自分も行かなければ処刑される』と言っていた彼女だ。
……だが、自分の役割を見つけた。『そばにいる』以外の役立ち方を見つけた。成長していたその彼女が──
生きている。これは、とても嬉しい。
だが一方で……
ここに来るまで通信が不通であった。
遠距離通信の封鎖。
『権利』だ。
Sランクが購入できる、『情報封鎖』の権利。
白い集団といい、間違いなく、この件はSランク、英雄、『光剣のナボコフ』の差配である。
(信じたくなかったな)
というのはディが、彼に対し憧れにも近い感情を抱いていたからだろう。
気付かされてみて、意外に感じることではあった。自分は、あの男の何に憧れたのだろうか。自分の中に憧れなんていう感情があったとして、何に刺激されて起こったのか──
考えてみて、わかった。
……わかってしまった。
(あの人は、何もない──俺のように『外の世界』の知識もないまま、Fランクという生まれで、血反吐を吐きながら戦って、Sランクの英雄になったんだ。その苦境、その努力の密度、その暗闇のような世界にいても決して折れない心の強さ。……俺は、それを感じて、憧れていたんだろう)
だからこそ、遅れて衝撃を受ける。
それほどの人が、なぜ──
……なぜかは、わからないが。
誰のせいかは、わかる。
(俺の何かが、あの人を狂わせたのか)
時期と、『行動』の対象から考えて、それしかなかった。
ならば、やることは一つだ。
……一つであってほしいと思いながら、ディは、通信の先のサシャに問いかける。
「サシャ。……誰か、死んでしまったか?」
返事が来るまでのわずかな時間、ディにとって、恐らく人生で初めて、『祈る』時間だった。
神楽舞を奉納したこともある。故郷世界では、食事のたびに慣例として祈るような所作をしたこともある。
だが、ここまで本気で祈る──祈るしか出来ない状況に陥ったのは、初めてだった。
どうか、誰も死んでいないでくれ。
それはもちろん、自分を信じてついてきてくれた人たちの無事を願う祈りであった。
でも、それと同じぐらい……
英雄を『許す』理由が欲しくて、祈った。
行きつくところまで行かない理由が一つでも欲しくて、祈っていた。
その祈りは、
『全員、無事です!』
届く。
だからディは静かに拳を握りしめ、指示を飛ばす。
前方を見れば──
襲い掛かって来た、ナボコフの軍団。
破壊された街の中で、ディらに殺到してきたそいつらが蹴散らされ、うめいて、倒れ伏す姿。
後方を見れば──
仲間たち。
怒りはあるだろう。今すぐ暴れたい気持ちもあるだろう。
せっかく獲得した『ホーム』をこんなにめちゃくちゃにされたのだ。相手を酷い目に遭わせてやりたいだろう。
でも、ディの言葉を待ってくれている。
それは『Sランクの言葉』を待っているのではなく、自分の言葉を待ってくれているのだと、ディは信じた。
「聞いたように、全員無事だ。それに……」
ディは理由を語ろうとした。
『今は天使に相対している最中だ。これは人類の危機だから、この時に争って人類の力を削ぐのはよろしくない。だから、なるべく被害なく済ませたい』とか。
そういう『みんなが納得できる理屈』を語ろうとして、
やめた。
「……俺は、ナボコフや、そのために働く人たちを殺したくない。……いつか、この時のことも『思い出話』にしたい。そうして話し合う時、『かつて、敵対した人たち』が対面で一緒に酒を飲んでいたら、最高だと思う。だから……」
わがままであり、傲慢なのは理解している。
世界に影響したくない、と述べたことがあった。
でも、そんなのは不可能だから、影響したぶん、いいものを残すべきだと言われた。
そうしよう。
「……誰も殺さず、収めたい。手伝ってくれ」
願いを告げる。
願いを叶えるのは神だけではない。人の願いを叶えるためには、人の力も、必要だ。
この世界では実のところ、ずっとそうだった。
神はあくまでも『威』であり、それを借る人々の意思が、この世界の形を決めてきた。
……だからこそ、ディはコンピューターに対して、思うところも、あるのだけれど。
今はともかく……
ディの願いは、
「わかりました。やりましょう」
誰かが答え、全員が口々に続く。
「ありがとう」
……かくして、願いは叶う。
いや。
「俺たちの力で、叶えていこう。この、『全員生存』という願いを」
人の手により、これから、叶えられる。
◆
「ふざけるな……」
コンピューターのいます場所で、ナボコフは映像を見ている。
それはSランクであれば得られる『監視権』によるものだ。
ディの区画の様子を俯瞰する映像。それが、ナボコフの前に投射されている。
歴戦の英雄ナボコフは、青灰色の目を血走らせ、投射映像につかみかからん勢いで、凝視している。
「ふざけるな……ふざけるなよ。私を──殺したくない? 『全員生存』? ……出来ると、思うのか。この私を殺したくない──殺したくない? 殺すか、殺さないかを選択する権利が、お前にあると思うのか?」
あまりの怒りゆえに逆に声は静かだった。
ナボコフはここまで激しい感情に経験がない。……いや、コンピューターへの敬愛以外には、経験がない。
誰かのことが頭から離れなくなるほどの憎しみも、全身が燃え上がるかのように熱くなる怒りも、誰かを追い落とす行為すべてが自己正当化されるような嫉妬も、経験がなかった。
十年。
長く、生きた。
成長促進剤を注入されてヒト製造プラントから出て以来、戦い続けてきた。
コンピューターへの愛。この母なる人、このかわいらしい人──この、不器用な人への愛のみが、彼にとっての『真実の感情』であり、これ以外には何もなかったし、何もいらなかった。
だというのに、今。
ディによって、より多くの『真実の感情』が、目覚めさせられている。
……己の大事なものを無遠慮に侵されている感覚。
不快。
「ディ。覚えたぞ。きっと、忘れられない名前になる。ディ。……その名を持つ者が今後生まれたら、私はきっと、そいつをも殺すだろう。ディ。ディ。ディ! ──はっきりわかった。私は、お前のことが、大嫌いなのだな」
嫌悪。
ナボコフは、飛び出したい衝動をこらえて、指示を飛ばす。
その感情は過ぎたる怒りにより冷え切り、その声音は冷静を通り越して諦念さえ感じさせるほどに乾いている。
一定以上の感情に慣れていない心が、壊れるのを避けて急激に温度を下げる。
限界以上に力を入れ続けた筋肉から、ふっと力が抜ける瞬間をナボコフは知っている。これは、その感覚に近いものだった。
「すべての『専属』に告ぐ。ここより私は、『大義』のため単独行動をとる。ゆえに、指示を伝えよう──」
英雄の指揮が、ディを襲う。
◆
(急に『軍』の単位で連携を取り始めた)
敵の動きの変化に、ディは気付いた。
相手は今まで『部隊』単位での行動であり、散発的な襲撃がせいぜいだった。
だが今は、複数の部隊が──『軍』が連携し、取り囲み、攻撃できる瞬間であっても、何らかの目的のために攻撃をやめ、こちらを誘導している。そういう気配がある。
ディが考えるのは、自分の『可能性』についてだ。
気を扱う拳法家。
ディがこの世界に渡り、『
そして……
ディがこの世界で『強くなる方法』として見出したのが、『ランクを上げること』だった。
シシノミハシラでは踊りがうまければ神からより多くの力をもらえた。『ランクを上げる』のは、それに相当する『強くなる方法』だ。
だが……
(シシノミハシラで肉を食って力を手に入れた。あれに相当する『強くなる方法』に、ようやく見当がついた)
神の恩寵ではなく、人が人として強くなる方法。
それは──
(この世界は、平等だ)
ランクが布かれている。
上の者と下の者に、すさまじい格差がある。
下の者の命はゴミのように扱われる。どのようにひどいことをしても、上の者が咎められることはない。
だが、それでも、平等だ。
……少なくとも、コンピューターは、人に均等な機会を与えている。
ディが歩んでいくと、折れたビルが並ぶ場所にたどり着く。
そこには多数の兵がおり、ナボコフ直下と思しき、『光剣兵』が複数、折れたビルを背後にして立ちふさがっていた。
手を焼く実力者揃いだ。
だが、
(そもそもこの世界の神は──俺が今までかかわってきた神と、成り立ちが違う)
そのことに気付くと同時、未来から知識が渡ってくる。
『神。
決定を下す者リュボーフィ。
またの名を
人の願いにより生み出された人造の幼神』
最初から神として在ったインゲニムウスのような者ではなく。
獣が変じて神になったアメノクリミコトのようでもない。
人が人のために造り出した神。
……そこから、わかること。
この世界で『強くなる方法』。それは……
(この世界の人は、
ディさえ知らない事実を語らば、それは、多くの神々が、ヒトから切除する権能だった。
神の乱立はよろしくない結果を生む。いわゆる『神代』と呼ばれる時代に世界が滅びかけることは多々あった。その悲劇を繰り返さないため、神が多く生まれる可能性を神は削るのだ。
だが、この世界の神はどうにも、その機能をヒトから削っていない。
クローンプラントによる生産という方法で人を増やしながらも、人から『神にとって不都合な機能』も、『人が生きるのに一見不要と思われる機能』も、切除していないのだ。
それはここの神が、『己には人のことがわからない』と自覚しているからだった。だからこそ、人は、クローンであろうが、生まれつき知識をインストールされ、成長促進剤によって適齢まで育てられてから『出荷』されていようが、恐怖を覚えている。欲望を覚えている。『願い』さえ、覚えている。
その中途半端さはいくつもの悲劇を生んだのだろう。
だが、その中途半端さの裏にあるのは──
「神は人を信じている。信じすぎるぐらいに」
『光剣兵』たちに、ディは一人きりで歩み寄る。
それを止める者はいなかった。
なぜなら、信頼があるから。
「だから、人に決断をゆだねる。人の意思と善性を信じている。……信じて、裏切られ続けてきた。それでも願いを叶え続けてきた」
光剣兵たちが、銃身のない銃から剣を発する。
気による剣だ。ディ一人であの部隊を相手にするには、手に余るだろう。
……これまでのディであれば、手に余った、はずなのだ。
だが。
「大変だったろうと思う。だから──少し、代わってやりたい」
踏み込む。
ゆったり歩むような踏み込みだというのに、その歩きは重々しい。
……ディの歩んだ足跡に、花が咲く。
ディの進んだ空の雲が裂け、光が差し込む。
まぎれもなく、神の起こす奇跡。
なぜ、人のはずのディが、このようなことを出来るかと言えば──
「コンピューターに代わり、俺が願いを叶えよう。だから、俺に
ここにいない副官に、笑いかける。
「俺はやっぱり、最前線に立つ方が気楽だよ」
ディは軽く手を伸ばした。
それと同時、空間から生じた『手』が、光剣兵を薙ぎ払う。
すさまじい攻撃だった。
だが、死者はいない。
『そうあれかし』と望んだ。ゆえに、『そうある』。
この世界の人々は、神を生み出す権能を切除されていない。
それゆえに、この世界で『強くなる方法』は──
──人の願いを背負うことである。
多くの人の、切なる願いを捧げられる者。
それこそが、強き者。
……それこそが、本来、コンピューターが生み出そうとしていた『高位ランクの者』なのだ。
いびつに歪んでしまったけれど、まっすぐに人を信じ、人を信じ返せば、人はこれほど強い。
無垢にして夢想家のコンピューターが望んだ、『人』の姿、だった。
「さて、制圧しよう」
願いをかけられる者が望む。
そうあれかし、ゆえに、そうある。
……かくしてディは己の区画を取り戻すに至った。
もちろん──
死者は、一人もいない。
敵にも、味方にも。