サシャは戦いの中で、上空から落ちる影を見た。
「……?」
その影は他の者にも見えているらしい。
『コンピューターを守る壁』の前──
ディの軍とナボコフの軍による、壮絶な
互いに互いのボスを信じている。
互いに互いの信じる者のために戦っている。
その最中、誰もが手を止め、上空を見上げていた。
……その『影』の存在感は、異様だった。
見上げれば豆粒のように見える。
だが──そう、誰かが、気付いたのだ。
「
そもそもこの世界はどんよりとした分厚い雲に覆われていて、昼も夜もない。
すなわち──影なんか発生しえない。
影の存在に気付いた。だが、外で落ちる影というものになじみがなかった。
まして──こんなにもハッキリと地面に落ちる影になんか、誰も、BやAのランクにある者でさえも、電灯という贅沢を享受する彼らでさえも、覚えがなかった。
上空にいる者。
それは豆粒のように遠くだった。
けれど、頭上にある雲を引き裂き、陽光を背に受けながら飛んでいるそのシルエットは、はっきりと、どういう形だかわかった。
「……翼の生えた、人?」
そいつらは『動物に人間のパーツがくっついた姿』をしている。
そして人間のパーツが多いほど強い、とも言われている。
翼の生えた人。
直に見たその存在について、最初に自失から立ち直り、共有された映像で見た姿を思い出すことが出来た者は、サシャだった。
「『天使』! 警戒! 警戒!」
周囲に呼びかければ、その必死な叫びに、ディの軍だけではなく、ナボコフの軍も反応した。
目の前の相手と争っている場合ではないのだ。それが存在感だけでわからされる。
雲を引き裂き、陽光を背負って飛ぶ、『翼の生えた人』。
アレは人類すべてにとっての脅威であり──
ここにいる者たちは、『人類すべてにとっての脅威』に、人類総出で立ち向かうことができた。
──天使が急降下する。
途端、天使の背後に怪物どもが出現する。
裂けた雲にでも乗っていたとしか思えないほど唐突に、翼もなく、飛ぶ機能もなさそうな
あの高さから落ちたら死ぬ──とは、思えない。
戦いを経てここまで上り詰めた者たちは、怪物どもの出鱈目な硬さを知っている。
ナボコフの軍が隊列を組み、ディ配下の者たちもまたそれに続いた。
部隊練度はナボコフ軍の方が上だ。緊急の事態に整列し、銃を構え、
「…………どう、したらいいんだ?」
……相手が上空から落ちて来るという、経験もなく、想定もしていなかった異常事態に。
そして何より──その数に。
裂けた雲に代わって空を塞ぐような数に。
どうしたらいいか、わからなくなってしまった。
「『天使』を撃て!」
敏い指揮官が号令し、部下どもが従った。
天使を討てても怪物どもが死ぬわけではない。
だが種類も数も多すぎる、今まさに落下中の怪物どものどこかを狙うより、天使というわかりやすいものを唯一目標にした方が、弾も意識もバラけずに済む。
的確な指示だった。
ただし……
急降下してくる天使に、銃弾が通じないことを除けば。
天使に迫る銃弾は不可視の壁と思われるものに阻まれて、その肉体まで届かない。
「くすくすくすくす!」
急降下する天使の奇妙な笑い声が耳に届く。
それは『く』と『す』をしっかりと発音する笑い声だった。人間の書いた『笑い声』という台本。そこに書いてある『くすくす』をそのまま読み上げている。そういう笑い声だった。
だというのに、その生物の喜色だけはあますところなく伝わってくる──
天使の容姿は美しかった。美しすぎた。
人形のように整っていて、人間のようには思われなかった。
ソレが人間をまねしようとしているかのように笑いながら急降下してくる。
──恐怖しかない。
「くすくすくす!」
天使が片手をかざす。
その掌の先にいるのは、サシャ。
何かまずいことが起こるのはわかった。
だが、何が起こるのかわからない。
ディは情報の共有をした。だから、『天使』の容姿は知っている。
その能力がドローンを落とし、『コンピューター様の監視』をなんらかの手段でかいくぐっているのはわかった。
だが、それを人に向けて何になるのか?
……その答えは。
サシャは己の中に震動を感じた。
それは、天使が何かをしようとしており、その『何か』がわからない状況で、それでも相手を観察し続けたがゆえに気付けた微細なものだった。
その『震動』は──
すべての人に製造過程で組み込まれるチップ。
処刑という『願い』を捧げられ、それを叶えるための受信機。
上のランクの者からの不可逆かつ一方的な死を賜るためだけの器。
それが──ディによって外部からの干渉を禁じられたそれが、震えている。
「ぁ」
サシャは一瞬後の死を確信した。
なんらかの手段で『天使』が自分を処刑しようとしている。ディの加護を貫いて、行おうとしている。
避けられない死を感じたサシャは──
「……っぁぁあああ!!」
向かってくる天使に対して、突撃した。
やぶれかぶれ──ではない。
この状況から『生』を拾うために出来る唯一のこと。
生存のための殺意。サシャは臆病で不器用だが、生存のために突っ込むしかない状況で、突っ込むことをためらわない。
力が及ばないのは明らかだった。だが、奇跡に懸けなければ生き延びることが出来ない。なら、やる。
上空から急降下してくる『天使』と、銃を握ったサシャとが衝突する。
銃弾、通じない。銃を使っての殴打、通じない。
天使の伸ばされた手がサシャの首に触れる──
『『かくあれかし』』と、奇跡が起こる。
「
英雄の一喝が惚けていた人たちを動かす。
そして、
「無事だな」
外なる旅行者──ディが、救い出したサシャをそっと地面に降ろす。
サシャは両足の裏に地面の感触を覚えながら、注意深く己の内側の様子を探る。
……不気味な震動は消えていた。
『天使』がしようとした何かは、ディにより無効化されたのだ。
サシャの無事を確認したディが歩いて……
ナボコフの横に並んだ。
「ナボコフ、疲れてはいないか? 少し休んでいてもいいが」
これに応じるナボコフは、歴戦の英雄ではなく、幼い生意気な少年のようだった。
「言ってろ。……我らの決着は後に回すぞ。忘れて逃げるなよ」
「じゃあ、それまで死ぬなよ」
「いらぬ心配だ」
ナボコフの手の中に、光の剣が現れる。
ディの握りしめた拳が、気の輝きをまとう。
……武器が製造され、科学による兵器が跋扈するこの世界。
だが、世界を救う光は
人の希望はいつでも人の手の中にある。
希望を握りこんだ英雄が立つ。
世界の命運を懸けた、人と『魔』との戦いが始まった。