その存在は、『お前も俺と同じになれ』という願いから生まれた。
憎悪だ。同胞への憎悪。自分より恵まれているすべての者への憎悪。『たまたま、不運だったせいで自分だけこうなったのに、同じようなあいつらが無事なのは許せない』という憎悪。
そもそも人には『属していたい』欲望がある。社会というものを形成する動物は、合理性・必要性からのみ社会を形成しているわけではない。多くの者にとって『社会を形成すること』が気持ちよくて楽しいから、その方向で合理性を突き詰め、必要性を後付けしているにすぎない。
人は多くの者が属するコミュニティに属したがる。
同時に、基本的には『より、上のコミュニティ』に属したがるものだ。
だが、そういったことはなかなか、敵わない。
だからどこかで妥協する。それでも『より、上のコミュニティ』とのつながりを持っておきたくて、『上のお方』の目に留まり、目をかけられたくて、賄賂を渡す。忖度する。信仰を捧げる。『あなたに尽くします。その行為を以て、あなたたちの末席にいるような顔をすることをお許しください』とする。
だが……
もしも、自分の居場所が底辺よりも下の底辺で、ここにいる限り『普通のこと』さえ出来ないと思い知らされてしまい……
そこより上へはどうやっても行くことが出来ず、自分は永遠にそこで生きるしかないのだということがわかってしまったら。
妥協は出来ない。何せ、最底辺にさえ届いていないのだから。
だが、『上』に行くことも、すり寄って末席に加わることも出来ない。
そういう時、『お前も俺と同じになれ』と、誰でもいいからこの泥沼に引きずりおろそうという心情になる。
それは憎悪だった。嫉妬だった。生きている限り心穏やかになれないのに、死ぬことも出来ないから、仲間を増やして安心したい。
そういう気持ちが『
そういう気持ちが、
この世界に飛来した
その中で立ち上る光の柱が三つ。
「おおおおおおお!」
まず雄叫びを挙げながら天使に斬りかかるのは、この絶望的な世界で人にとっての太陽であり続けた英雄。『
少年期と青年期を激しい戦いの中に置いて来てしまった生存年数十年のこの英雄は、手の中に生み出した光の剣で天使の脳天を狙った。
天使は「くすくす」と笑い、ナボコフの光剣をつかみ取ろうとする。
この天使は神である。肉の繭から、そして
この神の掌に触れたモノは掌握される。どんな願いをかけられて生まれたのか、どのような希望を背負って輝き続けるのか、そんなことなど完全に無視して、この天使のモノにされるのだ。
しかもその『掌握』能力によって、天使はナノマシンを掌握し、己の『掌』とすることに成功している。
ゆえにこそ、光剣は天使に触れる前に止められ、奪いとられる──
「
──直前、天使に掌握されていたナノマシンのコントロール権が剥奪される。
この世界を守護する最も古き神にして、旧人類の生み出した幼神。
『決定を下すもの』リュボーフィが白い瞳を輝かせ、掌を突き出す。
憎悪から生まれた天使の権能と渡り合うのは、『生きたい。すべての人が、生きていける世界を取り戻したい』というヒトの根源的欲求から生じた人造の神。
天使とリュボーフィとの間でナノマシンの権利の奪い合いが起こり、その奇跡の
ナボコフの光剣が技術によって天使の掌の直前で軌道を変え、脳天に迫る。
……だがしかし、天使は人の似姿であれど、怪物である。
彼女の背に生えた翼がばらばらと崩れると、それはいくつもの腕に変化した。
少女の腕だ。細く、骨ばっていて、病的に白い腕。翼が無数の腕に変化し、ナボコフの光剣を奪おうと伸ばされる。
天使の注意が『上』へと集中している。
……その間隙に滑り込むように静かに、そして──
「はぁ!」
踏み込み一発、気合一声、拳を突き出す異邦人。
ディの体がナボコフの横から滑るように進んだかと思えば、その拳が天使の腹部へと突き刺さっていた。
気の光をまとった一撃に、天使の体が『く』の字に折れる。
奇跡をぶつけ合い、『存在する確率』を引き寄せ、己の有利な事象を確定させようとする神同士の戦い。
ナボコフ、ディ、リュボーフィの三柱の奇跡を以て、ついに天使に有効打を与えることに成功する。
──怪物が降り注ぐ。
この状況で遠く、巨大な肉の繭を見ている者あらば、気付いただろう。
肉の繭がばらばらとほどけ、どんどん縮んでいる。
怪物たちの女王、憎悪の化身として生み出された『天使』は、生まれた途端にまずは肉の繭を掌握した。
もともと怪物を生み出す異能を持った転移者を発端としたこの肉の繭と怪物たち。術者が自身の
それゆえに肉の繭がほどけるほど怪物を過剰生産することはなかった。
だがしかし、天使に掌握されているがゆえに、今は、肉の繭を維持できなくなるほど、無理矢理に怪物が生み出されている。
……この世界で過ごしたことがある者であれば、わかる。
兵力の過剰生産は滅びへの一本道だ。乏しい資源を使って『ただ、増やす』ことをしても、維持ができない。だから、どこかで間引くしかない。
だがしかし、兵力の過剰生産をし、維持コストなど考えなくてもいい状況というのは存在する。
すなわち、『こちらが滅びても、相手を滅ぼせばいい』と思っているケース。
天使は憎悪によって生まれた。
すべての者を『肉の繭にまで落ちた自分と同格にしてくれ』という願いを込められて生まれた。
それゆえに、『肉の繭の者たちと同じ状態』を目指す限り、肉の繭という形にはこだわらない。
『すべて殺せば、すべて同じ』
何もかもがなくなった地平でたった一匹立つことを恐怖しない、破滅的な過剰生産によって破滅をもたらす怪物の中の怪物。それこそが天使というフランケンである。
怪物どもが、肉の繭からどんどん生産され、空を埋め、地響きを立てながら迫る。
ナボコフもディも、前線に仲間を置いて来ている身。
それ以前に、そこらにも仲間がおり、彼ら、彼女らもまた、この怪物の大規模侵攻にさらされている。
先ほどは仲間を気遣う隙を突かれた。
……だから。
もう、反省は終わっている。
『信じる』
溢れ出す怪物。迫り来る怪物。地面を呑み込む津波のごときモノども。空を塞ぎ、降り注ぐ雷のごときモノども。
一切気にしない。仲間を信じる。
ただしそれは、思考停止と思考放棄ではない。
仲間たちならば必ず乗り越えられると信じること。
信じて、懸ける。
願いを掛ける。それすなわち、この世界における『神』を生み出す手法。
……いつだって、人は人を神格化できる。
もっとカジュアルな『神』があふれている世界はいくらでもある。『神絵師』『神作家』。人はすさまじいものを神と呼び、それを信仰することが出来る。
ただし何かに『信仰』と呼びたくなるほどの傾倒をするのは難しい。どこかで冷静になってしまうからだ。『まぁ、確かに凄いけど、もっと凄いのはいるよな』とか、『まぁ、凄いけど、勢いがあるだけだな』とか。
何かを熱烈に信じることが怖くてブレーキをかけてしまう機能が人には備わっている。
信じた何かが失われた時、また、信じるに足らなくなった時、酷く心が傷つけられるから。それに備えて防衛機制を働かせる。そういうことをするように、ヒトの心は出来ている。
だからそのブレーキをとっぱらって、フルスロットルで信じる。
怪物の暗雲に閉ざされた空の下、ナボコフが叫んだ。
「光あれ!」
呼応するように、地上のあちこちから太陽が立ち上る。
それは光の剣であり、輝く気だった。
コンピューターの設計では決して量産できなかった『気を扱う人類』。その手の中に希望の光を宿した者は、神のデザインでは出来上がらなかった。
……それもそうだろう。
彼らは製造され、出荷される時にはもう、青年なのだ。
彼らが最初に作る手の形は、生産ラインから『外』に出る時、すでに片膝をつき、片手をついた姿勢──五指をしっかり広げて地面についた手の形なのだ。
だが……
成長促進剤を打たれずに生まれる者は、みな、希望を握りしめて生まれる。
赤ん坊は拳をゆるく握っているものだ。その手の中にあるモノこそ、神のデザインでは再現できなかったもの。生誕という儀式の果てに誰もが手にする光。希望である。
怪物たちがなぎ倒されていく。
「くすくすくすくすくすくすくすくすくすくす!」
天使が笑う。
天使は、言葉を理解する。
何が楽しい? と
言語は掌握が完了している。だから天使は、大きな声ではっきりと答えた。
「ぜんぶ!」
無垢な幼い子供の声だった。
その掌が無邪気にディの拳を触ろうとする。
生まれたての生命はみな、気になるものに触りたがる。この行為はそれだけのもの。天使には生み出された理由たる『願い』があり、『憎悪』という原動力がある。だが、計算もなく、戦略もない。ただ憎悪によって生まれただけの幼神。神の赤子にしか過ぎない。
これだけの被害を楽しむのか! と
「たのしい!」
まだ知性が芽生える前の声で天使は答える。
見るもの全部が新鮮で、見るもの全部に興味がある。
すべての反応が楽しい。もっと触りたい。大好き。もっと、もっと! 天使は無邪気に笑いながら、あちこちに触ろうとする。
だっていうのに──
それは許されない、と
邪魔をしてくる。あいつが邪魔をしてくる。
天使は「むぅー」とうなった。泣きそうになった。なんでか知らないけれど、さっきからずっと、あの白いのが邪魔をしてくる。どうして邪魔をしてくるんだろう。悲しい。なんで? なんで酷いことするの?
天使は、不快感に任せて手を振った。
リュボーフィの小さな体が吹き飛ばされる。
天使の『掌』が吹き飛んだリュボーフィをつまみあげ──
「貴様ァ!」
光の剣に、断たれる。
天使は「むうううううううう!」とうなった。
「やだ!」
何が、どう、というところまでは考えつかない。
ただただ不快だった。楽しいことを邪魔する人たち、嫌い。
彼女を生み出した『憎悪』がささやく。
『アレはこねてこねて、肉の繭にしてしまえ』
『あの太陽は俺たちを守ってはくれなかった』
『あいつこそ、俺たちと同じになれ』
それは楽しそうだ。幼い少女は粘土遊びが好きで、ここまでにいくつもの
天使の両手がナボコフに迫る。
……その時、
「
戦いの中で成長し、知性を芽生えさせ、『感情』をようやく獲得するに至った。
今までの、ただ『憎悪』に言われるがままになんとなく活動し、掌握し、来るものに反応し、『願いを叶える』ことだけし続けた状態より強くなった。
神個人の感情をもって、その感情に乗せて力を振るう。
それは強力で、ナボコフやリュボーフィ、ディさえも殺しうる。
だが、同時に、『彼女自身の意図』が生まれてしまった。
どこかに集中し、どこかがおろそかになる状態が生まれてしまった。
「──
──
か細い可能性を手繰り寄せる。
掌の中に希望を握りこむ。
光あれ。
そして──
光のあとには、安息あれ。
自我に目覚めたばかりの幼い神を、ディの拳が貫く。
それはようやく至った可能性。憎悪の化身を殺せる一撃。
「………………あえ?」
天使は己の腹部をつらぬく腕を見た。
その腕をつかむ──
直前、両腕を光の剣に斬り飛ばされる。
周囲のナノマシンを掌握──出来ない。
「…………?」
生まれたばかりの彼女は、死を理解出来ず、首を傾げた。
頭の中で『憎悪』が叫ぶ。
『こんなところで終わるな!』
『もう少し、もう少し頑張れ!』
『お願いだ、あいつらを殺せ!』
『殺すだけじゃねぇ! 死ねない苦しみを! 俺たちと同じ苦しみを!』
『だって、ずるいじゃないか! どうして俺たちばっかり苦しまなきゃいけない!?』
『お前も、こうなれ!!!』
憎悪は天使という名の絶望を見せつけるようにし、神を挑発し、英雄を疲弊させ、今、都市を滅ぼしかけた。
ヒトの持つ感情の中で憎悪というのはほとんど一番と言えるほど強い。
……憎悪でなくても。
死にたいと思う者ぐらい、いるだろう。
疲れ果てて、生きているのがつらくて、死にたい。でも、自分で死ぬ勇気もないし、社会的にも許されない。死んだあとのことまで考えてしまって、死ぬに死ねない。だから、誰か殺してくれ──という願いだって、抱くことがある。
……そういう願いは、平和な都市圏でこそ生まれるものだ。
だからこそ、天使は強かった。死を望むすべての者に支えられて、彼女は生まれたてながら強かった。
しかし──
『まぁ、でも。ここまでのモンを見せられたら──
生きるのも悪くないって、思えて来るよな』
激戦は人に希望を見せる。
枯れていた心に勇気を与える。
天使は、『奇跡』を探す。
憎悪から生まれ、死を望む者たちの願いを受けて神として生じた天使は、自分が生き残る奇跡を探す。
だが……
見つからなかった。
もはや人の心に絶望はなく、死を望む人もいない。
騒ぎ立てる憎悪も、生きていこうという希望には敵わない。
「…………あう」
天使の体が、崩れる。
黒い雪のようになり、溶けて消え……
拳を突き出した状態で残身する、ディの姿が残った。
『憎悪によって生まれ、死を願う心によって立った人造の神』
完全殺害、完了。