黒い雪が、そこらで舞っている。
脅威は去った。……天使に掌握されていたモノどもは、天使の殺害と同時に消え去ったのだ。
そして……
『ディさん!? ちょっとすげえことが起きてますよ!』
遠距離通信がディのIDへと届いた。
とっくに剥奪されたはずのものは、『処刑用』のチップに、ランク制度だけであったらしい。遠距離通信の封鎖も、もはや解除されているようだった。
通信を入れて来たのは──
前線に置いて来た、イワン。
「どうした?」
ディがIDに問いかけると、イワンが興奮した様子でまくしたてる。
『肉の繭が──クソッタレな肉の繭が、黒い粒になって消えて──ああ、おおい! はっはぁ! すげえや、怪物どもがどんどん出て来た時にゃもうダメかと思ったんですがね! なんだか急に全員が光の──ええと、とにかく、すごいことが起きてます! あんたに見せたいよ、ディさん!』
興奮のせいか言葉はとぎれとぎれだったが、そのあふれんばかりの喜色から、いいことが起きたのは伝わって来た。
そうやって喜ばしい報告を聞くディの横で、ナボコフも同じような報告を受けていたらしい。
彼は、頬を緩ませて、語る。
「どうやら、我らの部隊が対応していた
「こちらも恐らく、そんなところだ。……そうか、『天使』が全部持って行ってくれたか。これも──『奇跡』かな」
「かもしれない。……つまり」
ナボコフが笑いながら、光の剣を構える。
ディも応じるように拳を構え、
「ああ、つまり──俺たちの勝負を邪魔するものは、もう何もないということだ」
「まだやるのですか」
白い、幼い少女の姿をした神──『コンピューター』ナボーフィの声には、あきれのようなイントネーションがあった。
ナボコフは真面目な顔でうなずく。
「当然です。私は、あなたを自由にしたい。そのために──この男を倒して、首根っこをひっつかんで、この場に留め置き、神の代役をさせねばならないのです」
「『それ』をしなければならない理由は今、消え去ったと報告があったのでは?」
「コンピューター様に申し上げます。……残念ながら、まだ、終わってはいません。ここからなのです。ここから、人は増えていかねばならない。その演算はきっと……数年や数十年では終わらないでしょう。あなたは自由になれない」
「私は自由を望んではいません」
「それは自由を知らないからです」
「あなたは知っているのですか、信徒ナボコフ」
「……私も知りません。だから──」
ナボコフの視線が、ディに戻る。
「──一度手にしてみて、感触を確かめたいと思います」
ディは、息を吐く。
「正直、数年ぐらいなら代わってもいいという気持ちもある」
「……」
「だが、ここで勝負から降りて、勝ちを譲る気はない」
「当然だ。私がこうしてお前に剣を向けるのは、大義名分も、望みもある。だがそれ以上に──お前を叩きのめしたいからという理由もあるのだ、ディ!」
ナボコフが斬りかかる。
ディがじり、と足をわずかに地面にこすらせ──
『『かくあれかし』』
──二人の神が、突撃した。
剣と拳が交差し、二人の男がすれ違う。
背中合わせのようになって停止して……
「っぐ……!」
ナボコフが、膝をついた。
ディは吐息して残身する。
……勝負は、一瞬で終わった。
ディの、勝利だった。
「……憎々しいやつめ。最初から本気でやれば、私をすぐにでも叩きのめせたな?」
ナボコフが苦し気に言う。
だが、その顔には笑っていた──笑うしかないものを見せつけられた、という顔だった。
ディはあくまでも仏頂面で、膝をつくナボコフの背中に語る。
「……お前の心を折らねばならなかった。そのためには、最初から一撃で叩きのめすわけにはいかなかった」
「悪趣味な」
「心を折らなければ、きっとお前は、負けを認めず、何度でも何度でも立ち上がっただろうし──そうしたら、互いに傷ついて、あるいは俺が負けたかもしれない。悪趣味ではなく、戦略的な判断による手加減だ」
「……ようするに私は、なかなか負けを認めないクソガキ扱いされていたということか」
「お前に限らず、負けん気の強い子供はだいたいそういうものだ」
「……ふん」
そこから少し沈黙があった。
ディは、ナボコフが言葉の整理をしている雰囲気を感じ取り、待った。
……ナボコフは、よろめきながら立ち上がり、ディを真正面から見た。
「どこへなりとも行け」
「……いいのか?」
「そういう約束だった。……コンピューター様が自由を望んでおられるのならば、もっと食い下がるがな。自由を望み、コンピューター様とともにどこかへ行きたいというのは、私だけの願いだ。さすがにもう、奇跡は起こせない」
「そうか」
「どのみち、私の居場所はコンピューター様のお傍だ。……考えてみれば、敬愛する女性のもと、親愛なる仲間たちとともに平和な世界で生きていけるというのは、なかなかいいことだとも思う。だから、行け。もちろん、追い出すようなことはしない。……お前も『親愛なる仲間』だからな」
「……」
「……なんだその顔は」
「少し解説に時間がいるな。……うん、嬉しいのは、間違いない。だが、同じぐらい……お前の成長を喜んでいる」
「道理でムカつく顔だと思った」
「殴り掛かるか」
「しない。ムカつくたびに殴り掛かっていたら、時間がいくらあっても足りない」
「そうか」
「……そんなことより」
ナボコフはあっさりディから視線を外すと、そばにいる白い少女──コンピューターへと跪いた。
「……暴走の責任をとらねばなりません。私は人類の存続の可能性を摘みかねない行動をとった。これはあなたの存在意義から見て、許されることではなく──多くの者に対して償いをせねばならぬ行為です」
コンピューターは白い瞳でナボコフを見ている。
彼女の小さな体は、膝をついたナボコフとさほど身長が変わらない。
「もはやランクはないと言う。けれど、裁きは必要です。そして、ランクがなくなってすぐのこの時、Sランクであった私を裁けるのはやはり、あなたのみなのです。……どうぞ、なんなりとお申し付けください」
「我が右腕ナボコフ、恐らくあなたは、『処刑』を望んでいるのですね」
「……コンピューター様の御心のままに」
「御心のまま──というのは慣れません。しかし、そう言うのであれば、そのようにしましょう」
「……」
「ナボコフ。あなたを殺すのは嫌なので、しないこととします」
「……………………は?」
「御心のままにですが」
「いえ、その……あの……もう少し、こう……口ぶりというか、そういう……」
「御心のままに振る舞う私に、一体何を期待しているのですか」
「……」
「あなたの光は私の企図したものではなかった。あなたをここまで生かしたのは、あなた自身であった。しかしあなたは、その光に私の意思を感じた──そうですね」
「……はい」
「そうして、あなたが私の意思を感じ、私に尽くす中で、私はだいぶ、あなたのことを気に入っています」
「……えーっと」
「我が右腕。この地平で生きると決めた私に、右腕を切り落とせと言うのですか?」
「……」
「私の手足は細い。私の力も──弱まっているでしょう。であれば、これから過ごすためには強い右腕が必要です。ねぇナボコフ、あなたはずいぶんいろいろと、調子のいいことを言いましたね」
「なんだったでしょうか」
「私を支えるとか、私に仕えるのが喜びだとか」
「それらすべての言葉に嘘はありません」
「であれば、そうなさい。罰が必要だというのはわかりますが──この世界にはまだ、法もなく罪もなく罰もないのです」
「……」
「罪と罰を作っていきましょう。ともに」
ナボコフはただ黙って頭を下げた。
……小さな少女と、大きな男。
だというのに、その二人はこの瞬間──
「──まるでプロポーズのような、素敵な言葉ですね」
「………………」
ディはまったく唐突に横から聞こえた、恍惚とした声に振り向いた。
そこにはピンク色の髪を美しくなびかせ、熱っぽい視線を向けて来る美女──女神イリスがいた。
「こんにちは。あなたのイリスが参りました」
「君はいつもいいタイミングで来るな」
「いいタイミングにならないと、あなたが気配を発さない、という方が正しいのですけれど」
「……ふむ?」
「まぁ、今は少し、仕事があります。──幼神リュボーフィ」
イリスが呼びかけた瞬間、リュボーフィの表情が乏しい顔に緊張が走り、身がわかりやすく硬くなった。
それを見てナボコフが光剣を構えるが──
「やめておきなさい」
イリスが微笑んでそちらに視線を向ける。
と、ナボコフの手から光剣が消え去り、へなへなと体から力が抜け、地面に膝をついた。
ディは肩をすくめ、ため息をつく。
そして視線でナボコフに『気持ちはわかるが、落ち着け』とメッセージを送る。
イリスは、リュボーフィに近付き、声をかけた。
「この世界は不安定で不完全ではありますが──この世界がこうなった原因には、『異世界転移者』がいます」
「……」
「それも、わたくしという窓口を通さぬモノです。なので、この世界の状況の責任の一端は、わたくしにもあると考えます。ゆえにわたくしは、この『不法転移者』の問題に取り組むとともに、この世界にいくつかの恩寵を授けることとしました」
「……おん、ちょう……?」
「一つ、定期的に転移・転生者を──わたくしという窓口を通した正式な転移者、転生者をこの世界にもたらします。仮に不法な転移者が訪れた場合には、カウンターとして呼び出すといいでしょう」
「そういった存在は、俺のように、世界の文明をゆがめそうな気がするが」
ディが疑問を呈すると、イリスは肩越しにディを振り返る。
その顔は、いつもの蕩けたようなものではなく、仕事中の、女神として荘厳なものだった。
「そもそも、わたくしは世界に『刺激』を与えることも仕事のうち一つ。留まるモノは淀み腐る──というのは田舎の川の神が言うようなことではありますけれど。そういうことが起こらないようにするのも、わたくしの役目なのです。そもそも……」
「……」
「文明は『ゆがむ』ものではありません。文明に『正しい形』などないのですから」
「物は言いようという感じがする」
「文明も習慣も、『強いものが残り、弱いものが淘汰される』のです。それはあらゆる神が望む在り方でもありますし……人間も、そうでしょう。便利であれば残る。愛されれば残る。人の一人一人全員が大事なものを留め置けるわけではない。自分しか望まないものを抱き続けるには強さが必要ですから」
……人は柔らかい。
意思というのは知らずにゆがむ。大事なものを、大事なままではいさせられない。それは難しい。
だから、『人の総意』や『神の意図』にも負けないほどの強さなくば、『個人の願い』は維持できない。
……ただし、それだけ強ければ維持できるという意味でもある。
結局のところ、すべての物事は、原始的な強さの比べ合いに帰結するのだ。
イリスはリュボーフィに向き直る。
「そしてもう一つ──この世界の空を覆う雲を、持ち去りましょう」
この世界の空を、誰もが見た。
この雲は工場から立ち上る煙が固まったものだ。怪物が出て、その対応に追われ、どんどんあらゆる生産プラントを動かし続けたがゆえのもの──つまり、『決定を下す者』リュボーフィの失態のうち一つである。
それを、持ち去る。
「……なぜ、でしょうか」
リュボーフィの言葉には怯えがあった。
「こういう雲でも必要とする世界がありますので。加えて言うのであれば、そもそもこの世界の危機的状況の責任の一端はわたくしにもある。なので、一つ二つ、そのぐらいはこの世界に有利な特典をあげなければなりません」
「……」
「それに何より、あなたは幼い神です」
「……?」
「誕生したばかり──と人間の尺度では言わないのでしょうけれど、生まれた者には贈り物があってしかるべきでしょう?」
「……」
「ただし、今、ここにある雲を持ち去るだけです。またこの世界が雲に覆われるかどうかは、あなたたち次第ということになります。よろしいですか?」
リュボーフィは、ナボコフを見た。
ナボコフは──
「……この世界には、光が必要です。本物の光が」
リュボーフィは、イリスに向けて、うなずいた。
イリスは微笑み、さっと手を上げる。
瞬間、空が晴れた。
先ほどまで空を覆っていたどんよりと重苦しい雲が綺麗さっぱり消え去り、あたりにはまばゆいほどの昼の光が降り注ぐ。
あまりのまぶしさに、人は空を見上げられなかった。
ただ自分の影に視線を落とし、地面に濃く映し出される己自身の姿に、笑顔を浮かべた。
「光には『慣れ』が必要でしょうね」イリスが言う。「まばゆすぎるならば、また雲で隠すのもいいでしょう」
「……慣れさせてみせます」リュボーフィが答える。「人には光が必要です。今はまばゆいばかりでも、きっといつか、このまばゆさが『普通』になる」
「期待していますよ。……まあ、『神を生み出す権能』は切除した方がいいとは思いますが。そういう世界が一つぐらいあっても面白いかもしれませんね」
イリスは美しく微笑み、
「お待たせしましたディ様──」
振り返る。
……だが、もう、そこには、誰もいない。
イリスが仕事をしている間に、ディはとっくに、『渡って』いた。
彼が次に向かった世界は──