「ようこそいらっしゃいました。高潔なる魂を持つ者よ」
黒い部屋──
壁も天井も床も真っ黒だ。その深すぎる黒は宇宙空間を思わせた。
ただし床の感触はしっかりと足裏にあって、それから、この宇宙には一つたりとも星が存在しなかった。
深淵の暗闇。
その中でたたずむ、色黒で、黒い服をまとった、美しい男がいる。
その男は混乱するタカシに魅惑的に微笑みかける。
……同性だというのについついドキリとしてしまう。それほどまでに艶のある微笑みだった。
「ご説明しましょう。カナド・タカシ様。あなたは同級生を助けようとし、代わりに電車に轢かれました。そうですね?」
その言葉に、タカシは心臓が大きく脈打つのを感じる。
「いや……その……」
否定しようとし、
「……そうなんだ」
弱弱しく肯定する。
黒い男は微笑みを深めた。
「素晴らしい! ……高潔なる魂を持つお方。あなたは寿命を前にして、その善行ゆえに亡くなられた──」
褒め称えられるそのたび、タカシの顔には苦々しい色合いが広がっていく。
黒い男は気にした様子もなく、演説のように、あるいは演者のように、言葉を続けた。
「──そのような魂を持つ者を、輪廻の輪に放り込んでしまうのは、あまりにももったいない。……あなたは、もっと善いことが出来ます。『異世界』でね」
「…………異世界?」
「ええ。異なる世界。異なる常識。異なる場所。あなたのこれまでとはまったく違った──『剣と魔法の世界』」
「……」
「そこであなたは、『善』を成すことが出来るでしょう」
「……
「もちろん!
「でも、俺……」
「ご安心ください! 私が力を与えましょう。何も恐れずに済む力です。……ゲームは、たしなまれますね?」
「っあ、あ、あえ、、あ、あ、あ」
その途端、タカシが呼吸困難のようになる。
……ここは魂の世界。肉体はなく、呼吸は必要ない。
だから、苦しんでいるのは、タカシの魂そのものだ。
黒い男は、タカシの背後にいつの間にか立つと、たおやかな手でタカシの背中をゆったりとさすった。
「何かに苦しまれていらっしゃるのですね? おかわいそうに。あなたのような高潔なお方が、一体何を苦しまれるというのでしょう?」
「……」
「あなたの前途には、希望のみがあります。よく、聞いてください」
男が背を曲げるようにして、タカシの耳元でささやく。
「ゲームです。ロールプレイングゲームです。あなたは、『死なない』。すべてが、『あなたを愛する』。世界はあなたのためにある。あなたが『報われる』世界が、そこにある。……あなたが善行を働く限りにおいて、すべてがあなたの味方。そういう世界に、ご招待いたします」
「はひっ、ひっ、ひっ、ひっ……!」
「あなたは幸せになれるのです。あなたを理解してくれない者など一人もいない世界で」
「は、はっ、はっ、はっ……!」
「ああ、おかわいそうなタカシ様。何を苦しまれておいでなのでしょう? ……確かに、あなたのいらした世界はゲームではなかった。しかし、今度は『剣と魔法の世界』。ゲームなのですよ。ですから──すべて、うまくいきます。あなたは、その世界でうまくやるための、すべてを知っている」
「はっ……はっ……はっ……」
「ログアウトのないMMORPG。……ねぇ、タカシ様。ログアウトさえなければ、あなたのすべてはうまくいった。そうでしょう?」
黒い男は、すべてを知っている。
タカシの行ったこと、タカシの失敗。
……タカシが本当は、同級生を助けようとして電車に轢かれたのではなく。
事実は逆──殺そうとして失敗したのだということも、知っている。
ゲーム上のささいなやりとりから発展したケンカによって、衝動的に電車の前に突き落とそうとして失敗したのだと、知っている。
知っているが。
タカシの魂は『特典』を与えられるべき高潔さを持っているのだ。少なくとも、この黒い男──
『邪神』にとっては。
「あなたの『善』は正しい」
「……はっ……はっ……はっ……」
「あなたの行いは、正しい」
「はぁ……はぁ……はぁ……」
「私があなたを肯定しましょう。そして、あなたが行く先の世界の人々も、あなたを肯定するでしょう。何せあなたは高潔にして善なる、正しき者なのですから。……私は見ていましたよ。あなたが『人々』に優しくしてきたことを。同じようにすればいいのです。同じように、優しくしてあげればいいのです。あなたの『優しさ』が裏切られることは、ありません」
「はぁ……はぁ……ふぅ……」
タカシの呼吸が落ち着き始める。
そして、目には決意が宿り始める。
「……善を、成す」
「ええ」
「今度こそ……今度こそ、失敗しない」
「失敗は、しません」
「裏切られも……しない」
「ええ。あなたを裏切る者など、一人もおりません」
「……俺は……報われる」
「善意には善意が返るでしょう。高潔な者には賞賛が集まるでしょう。大丈夫、あなたはうまくやれる。これまでも、うまくやれてきたはずです。ゲームは、あなたの独壇場だった。そうですね?」
「……そう、だ。俺は、誰より、うまく、やった……人間関係さえ、なければ……」
「
「……」
「あなたの素晴らしい力と意思で、どうか、神を失った世界を救ってください。世界はあなたによる救済を求めているのです」
「…………わか、った。俺は……世界を、救うよ」
「素晴らしい」
心からの賞賛、感動さえも含んだ賞賛を短い声にして発し、邪神は再び、タカシの正面に戻った。
……この空間には一つたりとも『悪意』が存在しなかった。
転生を促す者も、神々の決まりから外れてはいるものの、善意によって異世界転移者を送り込んでいる。
タカシ本人も、悪人とまでは言えなかった。誰にでもある感情の噴き上がりから取り返しのつかないことをしてしまったものの、反省も後悔もあるし、謝罪出来るものなら謝罪したいと思っている。
世界を救う──というのは、酷いことをしてしまった自分がなすべき『善行』だと、そういう、自分を罰しようという気持ちさえあった。
善意に満ちた空間だった。
……ただし。押し付けられる善意ほど邪悪なものはない。
こうして異世界転移者カナド・タカシは剣と魔法の世界──
神を失ったばかりの、セヴァース大陸へと降り立つこととなった。
◆
順風満帆。
あの黒い男の言葉は正しかったと証明される日々が続く。
タカシが得た力は痛みと犠牲を伴うものだった。
それがよかった。その痛みの中で人を助け、傷つくことをいとわず人の前に立って戦う日々は、彼にこの異世界転移が償いの旅であるという実感を与えてくれた。
強かった。恵まれていた。
だが、痛みもあり、苦しみもある力だった。
だからこそ『実感』があった。
傷ついて人を守る時、自分はきちんと善いことが出来ているという感覚が体中に満ちていくようだった。
そしてタカシの善行は、必ず『返礼』をもらうことが出来た。
真心で助けた者たちはタカシをぞんざいに扱わない。命懸けで守った──と第三者視点で言えるかどうかはさておき、主観的には苦しみに耐えた善行である。これに感謝し、報われる日々は、彼に己の『善』を信じさせる。
セヴァース王国でしばらく暮らした彼が『魔王』の報を聞きつけた時、これを倒すのは『当然のこと』だった。
何せこの異世界転移は、神を失った世界を救う旅路なのだ。『魔王』といういかにもな脅威に自分が立ち向かうのは当然である。……当然であるし、その後には当然、感謝もされるだろう。世界中から。
タカシの旅は始め、自罰と償いの旅だった。
だが、褒められ、感謝されるのが普通になるにつれ、彼は行動の最初に『このぐらい感謝されるんだろうな』というのを思い浮かべるようになってしまっていた。
当然の流れで『魔王』を倒す。
犠牲は出た。及ばないところがあった。その心の痛みもまた、タカシに『この旅路は恵まれているばかりではない』という実感を与え、彼を
教会とのかかわりは『魔王』討伐以前からだった。
彼の大きな動機の一つには、この世界に転移したばかりで右も左もわからない自分を支えてくれた地域教会への恩返しというものがあった。
恩返しをするうちに助ける対象がどんどん偉い人になっていき、魔王を退治したその時、タカシに感謝を述べたのは、教会の教皇──本人は『聖王』と名乗った──と、その美しく可憐な孫娘だった。
「神を失われた我らの前に、あなたが現れた──これは、一つの啓示なのでしょう。あなたこそ、崇めるべき神なのでしょう」
神。
その扱いにタカシは少しばかり照れた。
けれど受け入れた。神のいない世界を救えとあの黒い男は言っていた。その方法はわからなかったけれど、新たな神に収まることが『神のいない世界を救う方法』だと言われれば、納得出来るものがあったからだ。
「俺はうまく神をやれるかどうか、わかりません。でも……きっと、多くを救ってみせます。これからも」
聖王はタカシを称え、彼に『現人神』の称号を与えた。
タカシは『現人神』に任じられてからも、その活動を変えない。
モンスターを狩り、人を助け、ダンジョンを攻略する。
感謝を捧げられる。時には『形』の伴った感謝を。
その『形』は金銭であったり、女であったり、称号であったりした。
タカシは『返礼』を拒まない。なぜなら、受け取るのが当然だからだ。
タカシの旅路は『巡礼』と呼ばれた。
大陸各地を回って、人々を救う聖なる旅。
そしてその巡礼は、『その街』へとやってくる。
神の殺された街。
神殺しのいた街。
……タカシは──
「『神殺し』がやっぱり、ラスボスなのかな」
そんなことを考えながら、きっと、