タカシは逃げていた。
教会総本山の『本城』の中。どこか安心できる場所──馴染んだ場所。自分がこれまで『ここにいてください』と言われていた場所。ハイネのいるであろう部屋へ逃げていた。
だが実際のところ、タカシは何か考えがあってその部屋を目指しているわけではなかった。
彼は何も考えていない。──考える余裕なんか、あるわけがない。
だって、
「死ぬ……! 死ぬ! 死ぬ……! 死んじゃうよ……!」
この世界に来て初めて、『死』が脳裏をチラついているから。
彼は命懸けで戦ってきた。幾度倒れても決して諦めずに強敵に立ち向かい、ついには『魔王』と呼ばれる、この世界で最も恐れられた自然災害さえも倒した。
……だが、彼は命懸けで戦ったことは、一度もなかった。
彼の戦いの前提には【
この世界でタカシは死なない。何かをすれば達成するまで死のうが負けようが何度でも挑戦できる権利があり、戦いというのは命を懸けないもの──まさしく『ゲーム』だった。
だが、今、『死』を感じた。
だから、逃げている。
戦いも、もちろん殺し合いも経験したことのない、平和な世界で生きた人間が、唐突に戦地に立たされ、こちらを殺そうとする敵の目の前に放り込まれた。……そういう体験をさせられている者として当然の逃避行動をしているのだ。
白い廊下を抜ける。
一時期は人でごった返していたこの廊下も、今ではずいぶんがらんとしている。
もともと減っていた教会勢力。『
そして最後にこの総本山に残った者はもう、ほとんどが戦いに出て──あるいは自主的に投降して──いなくなってしまっている。
タカシを出陣へ駆り立てた者たちも、見当たらない。……見えない場所にいるのかそれともタカシを焚きつけておいて自分たちは貴族に降伏したのか。そんなこと、今のタカシには考える余裕もない。
「なんで、なんでだ!? 俺は『死なない』んじゃなかったのか!?」
神との約束だった。
だが、タカシは、メカニズムはわからないが、『死』の予感を感じ、逃げている。
「俺は、『すべてに愛される』んじゃなかったのか!?」
貴族の軍が攻め寄せている。
亡き神インゲニムウスを冒涜する現人神を殺せと噴き上がり、これに騙された者たちを救うべく戦っている。
「俺は──『報われる』んじゃなかったのか!? どうなんだ!? どうなんだよ、ジョン・ドゥ!!」
逃げながら叫ぶ。
……そこでタカシは、ようやく気付いた。
彼の身体能力はいささかも損なわれていない。
だというのに、まったく目的地にたどり着くことが出来ない。あの日──ディらが王子たちを取り戻しに来た日、領主邸から街の教会までほんの数分で駆けて来た彼が、すぐそこにあるはずの『ハイネの待つ部屋』に、いくら走ってもたどり着けていないのだ。
そして、
「タカシ様」
声がする。
……よくよく見れば微妙に色彩を暗くした世界。
その中で、走り続けるタカシの真横に、ただ立っている、黒い男がいる。
神だ。
タカシに特典を与え、転生させた、神。
タカシは止まることも意識出来ず、走りながら問いかける。
「ジョン! どういうことだ!? なんで俺は、俺は……なあ、この世界は、『剣と魔法の世界』じゃなかったのか!? 俺は──『主人公』じゃ、なかったのかよ!」
「ええ、間違いありません。あなたは主人公です」
「なら──」
「そして、あなたに敵対する彼も」
「──は?」
「さらに、あなたが名を覚えていない者一人一人も。この世に残せる影響がどれほど少ない者も。生まれて数年で死んでしまうような者でさえも、すべてが自分の人生という物語の主人公なのですよ」
それは、耳の上を滑るような、『素晴らしい言葉』だった。
一人一人が主人公──なるほど、いい言葉だ。素晴らしい考え方だ。何か、学生を起用したCMのキャッチコピーにでもしたらいいと思うぐらい、とてもとても綺麗な言葉だ。
綺麗すぎて、あまりにも軽くて、空虚な言葉だった。
タカシは思わず、足を止める。
ジョン・ドゥはそこにいる。……あるいはずっと、こうして、横から自分のことを眺め続けていたのではないかとさえ思えるほど、その場所に自然と立っている。
「俺は……俺の魂が高潔だから、チート転移したんじゃ、なかったのか? 俺は、善を成すために選ばれた、特別な……」
「一人一人、すべてが特別で、すべてが、高潔なのですよ、人間というのは」
「……」
「人の定めた罪……ええと、『犯罪』でしたか。これを犯す者もいるでしょう。他者の命を、過失か、あるいは故意か、奪う者もいる。事情があって罪を犯す者もいれば、ただただ快楽、あるいは『なんとなくの思いつき』で他者を害する者も、いるでしょう」
「……」
「それらすべての人が、例外なく高潔なのです」
「………………何を言ってるんだ、お前は?」
タカシはもう、自分がディから逃げていることさえ忘れていた。
あんなに自分を慰め、自分を勇気づけ、いざという時には自分に情報をもたらし、導いてくれた神。
この上もないほどの恩人だと思っていた。相手にとって、自分は、何かをするに迷いを抱くことのない、特別な存在だと思っていた。
だというのに、
「じゃあ、何か? ……お前が俺にチート転移させたのは、俺が特別だったからじゃ、ないのか?」
「いえ、特別ですとも。あなたの高潔さ、あなたの善を成そうという心。もちろん尊い」
「……俺は……俺、
「いいえ? 人はみな特別です」
「……」
「世界というのは不完全なものでしょう? 何せ、その世界を差配する神が不完全ですからね。そのような不完全な世界で、脆弱なるヒトという生命が生きていく──これは高潔で、特別なことです」
「……じゃあ、なんで、俺を選んで、チート転移させた? お、俺が特別だから、こういうことをやってるんじゃ、ないのか? そんな、チート転移なんて……全部の人が、死んだらこういうことになるわけじゃ、ない、だろ?」
「それはもちろんです。……ああ、なるほど、タカシ様のおっしゃりたいことが、ようやく理解出来ました」
黒い男は蠱惑的に微笑む。
そして、穏やかに、語る。
「タカシ様は、こうおっしゃりたいのでしょう? 『自分には他の人間と比較して、何か見るべきところがあり、だからこそ異世界転移などというまれなることを行わされている』と」
「そ、うだ、けど……」
「あなたは、あなたが異世界転移をした本当の理由を知りたいとおっしゃられるわけですね。であるならば、その願いを叶えましょう。あなたは神に問い、その答えを得ることの出来る存在だ」
「……」
「たまたまです」
「…………………………はい?」
「不完全な世界で生きるすべての人は、高潔で尊い。そして、『特典』一つぐらいであれば、どんな強度の魂も、まあ、だいたいは耐えられる。だから私は、ランダムに、こうして──」
黒い男の人差し指が伸ばされ、その指先が泳ぐ。
ぐるぐると何か法則があるとは思えない動きで指先がさまよい……
タカシの胸あたりを指して、止まる。
「──たまたま指先にいた魂を、拾い上げました」
「……」
「あなたが私の手による転移をした、あなただけの理由というものがあるとすれば、そういうものです」
タカシは呼吸も忘れて立ち尽くした。
恐ろしかった。
この黒い神は、一つたりとも嘘をついていないのだ。
本気で人はすべて高潔な魂を持っていると思っている。
そしてタカシには答えられることを可能な限り正直に答えようとしている。
……なおかつ、タカシを馬鹿になどしていないのだ。
たまたま偶然タカシを選んだ、という事実を求められたから明かしているだけで、そこには、タカシの『自分は特別な何かがあった』という思い上がりを嘲笑する意図などみじんもない。
そもそも、人の思い上がり、喜び、怒り、愛や希望にさえ、興味はないのだろう。
神。
紛れもなく神だった。ただし、ギリシャ神話などで語られる、人との距離が近かった時代の神。ちょっとした思いつきや欲望で人の人生を狂わせ、人に抵抗さえも許さない。心のままに振る舞う超越存在。
それが、目の前にいる黒い男神、ジョン・ドゥの正体だった。
「さて、我が『主人公』タカシ・カナド。あなたの人生の意味を教えましょう」
「……じんせいの、いみ?」
「ええ。人のすべてに生きる意味がある、とは申し上げません。けれど、人という『乱数』が存在する理由というのは、ある。その中で、あなたは特別な理由を付与された乱数です。偶然にも、私の指が止まりましたからね」
「……」
「世界は不完全です。それは、神が不完全だから。このような世界で生きていかねばならない生命は、本当に力強く、気高く、素晴らしい。……だからこそ、私は、神は神の責務を果たすべきと思うのですよ」
「神の、責務?」
「ええ。神は不完全で、世界は不完全だ。だからこそ、乱数があり──瞬間的に、世界が完全になることがある」
「……」
「あなたは『大きな乱数』として、世界を完全にする使命を負っていました。……しかし、もう一つ、大きな乱数がこの世界に戻ってきてしまった。これは──興味深いことです」
「何を、言って……」
「勇者タカシ。あなたの人生の意味を教えましょう。あなたの人生は、私の愛する世界のうち一つ、この世界を、瞬間的に完全にすることだった。しかし、今は……あなた以外の、もう一つの『乱数』と、とりあえずぶつかってみることにしました」
ぶつかってみることにしました。
……タカシを『もう一つの乱数』に当てようとするのであれば、『ぶつけてみることにしました』と述べるべきだ。
だが、黒い男神は『ぶつかってみる』ことにした。
つまり、
「……俺の人生は、あんたの所有物だった、ってこと、なのか?」
タカシは震える声で問いかける。
黒い男神は首をかしげた。
「所有? 違和感のある表現ですね。所有などしておりませんよ。……ああ、なるほど。あなたの疑問は察しました。あなたに通じるように言葉を尽くすなら、そうですね……」
「……」
「ゲームをしている時、プレイヤーキャラクターを『所有物』とは表現しないでしょう?」
「…………」
「私はあなたを使って、この世界をかき混ぜたい。破壊を伴う混沌をぶつけた時、世界はたまに完全になる。私はね、あなたたちという乱数を用いて、世界を完全にしたいのですよ」
言われていることが何もわからないのに、言っていることの意味だけは伝わってくる。
……あるいはそれは、『人間用』にミニマライズした理解にしか過ぎないのかもしれない。
その『人間用』の理解を言葉にすると、こうなる。
「……俺は、利用されたのか」
黒い男神はやはり首をかしげる。
彼の認識において、『利用された』という表現もまた、何か違和感のあるものらしい。
黒い男神は言葉を探すように沈黙し……
しかし、『利用』のより詳細な解説がなされることは、なかった。
「タカシ様、『もう一つの乱数』が来ましたよ。さあ、『たたかう』です」
黒い男神が微笑む。
タカシはその視線の先へと振り返って──
「勇者タカシ」
──そこでたたずむ、二本のナイフを持った男……ディを発見する。
「お前の人生はここまでだ」
ディがナイフを構える。
そして。
「そちらの見知らぬ神の狼藉も同様にここまでです」
ピンク髪の女が語る。
黒い男神は笑みを深めた。
「これはこれは、女神イリス。大物の登場だ。いやはや──あなたがいらしているとは。てっきりどこぞの小間使いの小神かと思っておりましたよ」
「わたくしを欺き、長らく察知させぬまま、『特典』を与え、人を勝手に転移させる者に、小神などあてられません。下手をすれば取り込まれる。というより──すでに何柱か取り込んでいるでしょう?」
「ええ。彼ら、彼女らは、私の糧として、私の理想の体現を手伝ってくださっています。尊敬すべき方々でした。ただ……不完全で、弱かった。嘆かわしいですよ。末端とはいえあの程度で神とは。やはり、そのような神が差配する世界もまた不完全だ」
「……『完全世界実現』とはまた、古臭い思想を」
「まあ、我々のいる場所に神々の思想が届くまでには、何億光年かの距離がありますので」
「『外なる者』ですか、やはり。……侵略者はひねりつぶしましょう」
「では抵抗しましょう。私にはまだやらねばならぬことがあるので」
神と神が攻撃的に微笑み合う。
勇者タカシとディ。
女神イリスと黒い男神。
教会総本山で、人と人、神と神がぶつかり合う。