奇跡の定義。
確率の収束。
領域の形成。
『かくあれかし』
女神イリスの『手』が伸びて、
ここはインゲニムウス教総本山。白亜の建物の中。
だが天井はとうに存在しない。床もとっくになく、壁も消え失せていた。上下もない。左右もない。ただ、神が望んだ瞬間にのみ、神の都合のいい位置に床や天井は出現し、上下左右が定義される。
イリスは『上』から『下』へ手を伸ばして名無しの神を潰した。
床の硬度は神の玉体を受け止め、さらにイリスの攻撃も受け止め、傷一つつかないものとなっていた。何せ女神イリスが『叩き潰す』と望まれたのだ。床という概念はその望まれるままにある。
『かくあれかし』
奇跡への不法な介入を確認。
上が下に書き換えられる。
イリスは舌打ちをしそうになった。気持ちの悪い感覚。神の力で真っ向からぶつかってくるのではない。奇跡の強度、神の格ではないところで何かをされている。頭の中に侵入したモノに認識を書き換えられる感覚。
人間風に言えば『酔う』と言うべき状態だろうか。無理矢理に認識を侵すモノ。頭に侵入する敵対者の痕跡。そう認識すれば気持ちが悪いという言葉では済まなかった。飲み物にこっそり唾液でも混ぜられたような生理的嫌悪感。おぞましい。はっきり言えば、
「──万死に値する」
イリスの怒りが炸裂した。
奇跡の再定義。
頭の中に入ったノイズを力によって押し流し、巨大な両手の平を合わせるようにして『左右』から名無しの神を叩き潰す。ちょうど、人がハエにでも行うような動きだった。
だがまだ頭の中にノイズが残っている。
潰したはずの名無しの神はイリスが『上』と定義した場所に直立し、逆さまのまま微笑んでいる。
ならば『上の地面』からイリスは手を生やし、名無しの神を握りつぶす。
……また認識にノイズが走る。
視界の中に一瞬の砂嵐。ざりざりと歪められる。何かがどんどん侵入している。締め出しきれない。システムが違う──
名無しの神が何かをささやく。
それは、イリスが『自分にも伝わるように』と望み、認識すれば、このような言葉に聞こえた。
「【沁み込む】」
イリスの形成した花と光の領域が、黒い水で侵されていく。
きらびやかだった領域が黒い水で色合いを変えられていく。ピンクは黒へ。白も黒へ。光さえも黒ずんだ霧へと変化していった。
泥土、いや、泥水のように、塞いでも塞いでも細かな隙間から侵入し
真っ向から力と力でぶつかれば自分が勝つとイリスは確信している。だが、システムが違う。通常『穴』になりえない場所が、向こうのシステムからすれば『穴』になる。どれほど概念を強固にしても、土で築いたものに水が沁み込むことを避け得ないように、相手の力がこちらの認識を侵す。
眷属化。
あの名無しの神にはそれ以外の権能はない。
だがその深さが『小さき神々』とは比にならない。人間が想像した『神』の姿。偉大なる者には
このようにして沁み込み、気付かれないうちに『その者』を構成する物質の一つとなり、次第に置き換わって、最後には『その者』そのものに成り代わってしまう泥の権能──
「『
「そういう名で呼ばれたこともあります」
イリスの声に、すぐ目の前で名無しの神が応じる。
名無しの神の手がイリスに向かって伸ばされる。
イリスの『手』が名無しの神の体を押し、吹き飛ばす。
吹き飛ばされた名無しの神はしかし、イリスに近付いていた。
すさまじい速度でイリスが吹き飛ばした名無しの神の背後に回り込んだ──のではない。
世界が『後ろ』と『前』を入れ替えた。それゆえに、後ろに飛ばされた名無しの神は、イリスのいる『前』へと吹き飛んだのだ。
巨大な『手』が名無しの神の上半身と下半身をつかみ、引きちぎった。
二つに分かたれた名無しの神は、どろりと黒い汚泥に変わり、再びイリスの領域へと沁み込んだ。
色鮮やかな花々は黒い花弁をつけ、空気の中には
死んでいない。
命を絶ったが、完全には死んでいない。
名無しの神もまた、殺されようが死ぬことのない、不滅の神性であった。
汚泥のしみ込んだ地面から名無しの神が生えてくる。
出現と同時にイリスの『手』が叩き潰す。
ぶちゅりと潰れて、泥のしぶきが広がった。
イリスは『手』で飛び散るしぶきを払うが……
『手』が。
真っ白い、輝くような肌を誇る『手』が、黒く染まっていく。
イリスはその『手』を己から切り離した。
「女神イリスに申し上げます。我々が争う必要はないのではありませんか?」
名無しの神は黒い花弁の上に立っていた。
イリスの領域にあったどの花とも違う。あれは蓮に似ていた。黒い蓮──
「優位を確信し、降伏勧告をしているつもりでしょうか?」
イリスの微笑みには平時の通りの穏やかさがあった。
己の領域、どころか『手』までも黒い泥で侵された。これまで生きてきた中で一度たりともなかった汚点たる出来事。愛しい人のすぐ横で別の男に体液をつけられる。おかげで『手』を切り離すことにためらいはなかったが、一瞬でも判断が遅れれば、あの一つだけではなく、もっと多くの『手』を泥に染められていただろう。
イリスの『手』とはつまり、『世界の持つ可能性』である。
ただ単に『手』を黒く染め上げただけにしか見えないあの行為は、世界の一つを一瞬で泥で埋め尽くし滅ぼす神業に他ならない。
名無しの神は「いいえ」と芝居がかった動作で首を振る。
「今ならば私の話に耳を傾けていただけるかと思ったまでです。神というのは基本的に野蛮なものですからね。実力を認めない相手とは口も利いてくださらない。……私はね、『侵略』の前に、『対話』があるべきだと考えているのですよ」
「なるほど、素晴らしい心掛けです。『どの口が』という事実を無視すれば」
「あなたと私の望むところ、目指すところは同じはずだ。あなたも『異物』を混ぜて世界を安定させないようにふるまう。私も、『異物』として世界の完成を目指す。あまりに高い位置にいらっしゃるので無許可でいろいろやらせていただきましたが、本来、私はあなたと対話し、あなたと協力し、世界を完成させたかったのですよ」
「なるほど、その主張には聞いてみる価値もあるのかもしれません」
「ええ、そうしていただけると、嬉しく思います」
「ですが、お前の言葉に聞く価値がない。なぜなら──お前はまだ、わたくしに実力を示せていない」
その時、黒く染められたイリスの領域の上下左右から迫る、あまりにも巨大なものがあった。
領域そのものを押しつぶす──神の領域に広さという概念はない。無限に迫るその広さを押しつぶすような、巨大なものが、領域を潰しながら名無しの神とイリスに迫っている。
その巨大なものとは、
「──お前が黒く染めたこの場所は、わたくしの領域のほんの一部にすぎません。神の『手』の大きさを知りなさい」
女神イリスの『手』であった。
宇宙
黒く染められた領域は潰れて消え去る。
その外にピンク色の花が咲き誇り、明るい光の満ちた空間があった。女神イリスの領域。入れ子構造のその一つ外側である。
完全に潰した──
だが、今まで戦っていた場所より一つ外の領域に、ぽつりと降る一滴の黒い雨。
雨は『地面』に落ちると膨張し、人型となった。
名無しの神は、死んでいない。
「なるほど、強い」
笑みには余裕がある。
だが、その存在は確実に消耗していた。
……イリスの『手』をまともに受けて、消耗程度で済んでいるのだ。
名無しの神は乱れた頭髪を整え、微笑む。
「しかし、我々では決着がつかないと思いませんか? 私は『死なない』。不滅性において、恐らくあなたをもしのぐでしょう」
「そのようですね。しかし……」
「まだ隠し玉がありますか。困ったな」
「隠してなどいません。最初から見せています」
「……?」
「『神殺し』が来ましたよ」
瞬間、名無しの神は背後を振り返る。
そこで、見た。
己の首に刃を振る、ディの姿を。
その手にあるのは『勇者の剣』。
神代と呼ばれる古代。世界の『中』にいた神々を斬り捨て、存在を昇華させた聖剣。
その聖剣は、超越存在特効の武器である。
ざん、と首が斬り落とされる。
名無しの神の首が落ちて──