「すまないイリス、仕損じた」
「……やはり、ですか」
地面につく前に、その体によって拾い上げられる。
名無しの神は拾い上げた頭部を首の上に乗せると、片手で首を押さえて、調子を確かめるように左右に首を何度か曲げた。
「いや、素晴らしい。死を感じました」
その顔に浮かぶのはてらいのない賞賛だった。
己を殺しかけた者を相手に拍手でも贈りそうな、それはそれは嬉しそうな驚きが表情に満ちていた。
「『神殺し』。なるほどすさまじい。私と同格の神でさえも、今の一撃は殺せるでしょう。けれど、私を殺すことはやはり、不可能なようです」
「つまり、お前には特有の『死なない仕掛け』があるのか」
ディの顔はいつも通りの無表情で、声はいつものように固い。
つまり生真面目そうな仏頂面で、相手に『死なない仕掛け』を聞くのだ。
「ユーモアがありますね」
その行為を名無しの神はたいそう気に入ったらしい。
彼の浮かべる微笑みには、親友に向けるかのような親しみが込められた。
「私は『完全』になろうとするモノの助けとなりたい。ですから、ディさん、あなたの質問に答えましょう。『死なない仕掛け』、もちろんございます。ですが、あなたがあなたである限り、その仕掛けを突破して私を殺すことは出来ない」
「それは困るな。……努力のしがいがある」
「素晴らしい。あなたはきっと多くの善を成すことでしょう。……ああ、また、生きる目標が一つ増えてしまった。ここまで私も『いろいろ』やってきましたが──やはりね、特典持ち一人ぽっちでは、世界をかき混ぜて、完全たるようには出来ないものなのです。もっともっと、多くの乱数がいる。そしてそれは、私の手の中にも、女神イリスの『手』の中にもない方がいい。つまり、あなたです」
「『つまり』と言われても、どういう話かさっぱりわからない」
「あなたが気に入りました。なので、私が次に向かう世界への招待状を後ほど送ります。どうぞ、私とともに世界をかき混ぜ、『一瞬の完全』を実現しましょう」
「意味がわからない。興味もない」
「ですが、私を殺すつもりではいる」
「そうだな。……『一人の人間』としてタカシを見た。あいつは愚かだったかもしれない。勇気がなかったかもしれない。けれど、力を渡されてそそのかされなければ、善良なまま生きて、善良なまま死ねた。そういう男に見えた」
「人はみな善良なのです。なぜならば、不完全な世界で生きているだけで偉いのですから」
「そういう話は神同士でやってくれ」
ディと名無しの神を挟んで反対側で、イリスが「わたくしも願い下げですが」と小さく抗議した。
ディは特に意味もなくうなずき、
「イリスもお前もやっていることは変わらないのかもしれない。俺もきっと、異世界に行って、タカシのような影響を与えてしまっている。だが、お前とイリスとの違いはわかる」
「興味深い。拝聴しましょう」
「お前──タカシが死ぬ前から憑いてたろう?」
……その時、名無しの神の口角が、こらえきれないというように上がった。
それまで浮かべていた穏やかな笑みは消え去り、口の端が引き裂かれ、目のすぐ下まで到達するような、深い笑みが彼の顔には浮かんでいた。
「ディ様。……『死ぬ前』とはなんでしょう? あなたはタカシ様のことを、さほど知らないものと思いましたが」
「あいつの言動を観察した。あいつは死んでからこの世界に来ている。こことは違う文明の中での人生があって──その中で何かを失敗し、心的外傷を抱き、その傷心のところをそそのかされて、この世界で狂気的振る舞いをしていた」
「素晴らしい! ああ、人は、ただ言葉を交わし、顔を合わせ、刃を交えただけで、これほどまで他者のことを理解出来る! この不完全な世界で! これほどまでに他者を思いやれる! なんという──」
「だからそういう話はいい。……斬り合えば斬り合うほど、タカシの善良さと小心さが理解出来た。ああいう人間は普通に生きていれば死ぬまで心的外傷を負う大きな事件なんかに巡り合わない。だから、『そう』なるように仕向けた者がいたんじゃないか──というか」
「……」
「『きっと、お前が全部悪い』としか思えない。これはただの印象論だ。分析ではなく、証拠ではなく、お前ならそういうことをやりそうだという結論ありきで組み立てた予測だ。外れているか?」
「お見事です」
名無しの神は拍手をした。
そして、指先をさまよわせ、
「『誰にしようかな』と、指先を動かし、指された先にいたのがタカシ様でした。そして、私がタカシ様を指差したのは、死後ではなく生前です。私は泥水ですから。どのような場所にも沁み込むことが出来ます。もちろん、人の心にもね」
「そうか。疑問が解けてすっきりした」
「斬りかかったりはなさらないので?」
「お前、もうここにいないだろう」
「……いやはや、素晴らしいという言葉では、そろそろ足りなくなってきました。あなたは『神』をよくご存じだ」
「殺そうと思い、いつも神のことばかり考えているからな」
そこでイリスが「まあ!」と嬉しそうに頬を染めたのは、イリスもとっくに名無しの神が『ここにいない』ことを理解し、戦闘態勢ではないからだった。
名無しの神──その残滓は、芝居がかった一礼をする。
ディとイリスは名無しの神の前後を挟むように位置している。だというのに、たった一人の名無しの神が、同時に二人の方を向いて礼をしていた。
「ディ様、のちほど招待状をお渡しいたします。よろしければ、再び、私が特典を授けた者と相まみえていただきたい」
「お前の思惑に乗るのは癪だが、ここは『わかった』と言っておく。お前は放置したくない」
「喜ばしい限りです。……ああ、今日はいい日だ。素晴らしいものを見ることが出来た。そして、素晴らしいお方と出会うことも──」
名無しの神は恍惚と発言していたが、イリスがそれを叩き潰したため、発言は途中で終わった。
潰して広がった黒い水は、地面に沁み込むことなくすうっと消えた。……本当にもう、『ここ』にはいないのだ。
……周囲の景色が、インゲニムウス教総本山の廊下へ戻っていく。
ディは、イリスに問いかける。
「俺には招待状が来るそうだが、それでも一応、追わなくていいのか?」
「すでに追っています」
「そうか。余計なお世話だったな」
「いえ、あなたに気遣っていただくのは嬉しいことです。……同時にこの世界も精査していますが、残滓も残さずに消えた様子。少なくとも今、この世界から、あの『名無しの神』の脅威は去ったと判定していいでしょう」
「そうか」
「……わたくしの不手際でご迷惑をおかけしました」
「神が不完全なことはよく知っている」
「……」
「だからこそ、殺す余地がある。……お前も、あいつも」
「……これは本来、わたくしの管轄で起きた、わたくしが対処すべき問題ですが」
「しかし協力を依頼された。そして、協力をした目的はまだ達成されていない」
「……」
「もう少しだけ付き合おう。あの神を殺すまで」
「ディ様……」
「まあ、それはそれとして、また俺を捕まえようとするなら、君を殺そうとは試みるが……」
「ディ様!」
「警告のつもりだったが、君はこういうやつだったな」
イリスが両腕を広げて迫る。
ディは聖剣でこれを斬る。
イリスは肩口から腰にかけて両断され……
ディは、逃走した。
つまりは──まだ、イリスを殺すには、至らなかった。