「タカシ様……」
インゲニムウス教総本山。
廊下に広がる戦いのあと。
そして、転がる『結果』。
ハイネはよろよろと歩み寄り、倒れたタカシのそばでしゃがみこむ。
美しい白い法衣が血に染まり、長い金髪が血をまとう。
ハイネは倒れて動かないタカシの頭を抱きしめ、目を閉じた。
長い、長い時間、そうしていた。
タカシとともに冷たくなったのではないかと、もしもこの場を見る者がいれば、思ったことだろう。
「タカシ様」
……だが、ハイネは生きている。
生きているのだ。
「くだらない話をさせてください。……私は、貧乏な村で生まれました。そうして……教会に『召し上げられ』ました」
悲しいかな王の権威も教会の慈悲もすべての
誰もかれも豊かになりたい。誰もかれも金が欲しい。誰もかれもいい生活をしたい。
そして人の欲望には『ここまで』というものが存在しない。特に、『もう少しでもう一段上に手が届く』と思える時ほど欲望はすさまじくなり、多くの資源をその懐に集めようとする。
そしてこの世の資源は有限だ。誰かが富めば、誰かが割を食う。
ハイネの故郷はそういった、『割を食わされる場所』だった。
「見目が、良かったのです。そう気付いてからは、ことさら磨く努力もしました。そうして、成人前には、聖王陛下の『孫娘』となることが出来ました。村で生まれた娘にとって、これ以上ない位置に、私は上り詰めたのです」
ハイネはタカシの頭を抱き、髪を手で梳いた。
「ねぇ、タカシ様。あなたは『娼婦』を断らなかった。けれど、私には手を出さなかった。私が『聖王陛下の孫娘』と紹介されたから、なのでしょうね。……なんて面倒な人だ、と思っていましたよ」
美貌と性欲で縛り付け、タカシという『力』を操る。
それがハイネに課せられた役目だった。若くして『聖王の孫娘』にまで上り詰めたハイネにとって、いかにも純情そうな男一人転がすのは他愛ないことだった──そう思っていた。
「だっていうのに、あなたは全然、思う通りにならなくて。……家具を蹴飛ばして壊すほど苛立ちました。なんて厄介な男なんだろうと、鬱憤に任せて鏡を壊した日もありました。ねぇ、タカシ様。私ね、人生で初めてだったんです。誰かにあんなに苛立ったの。苛立って、でも、どうにかしなくちゃいけなくて、ずっとあなたを見てました。ずっと、あなたがどういう人なのか、知ろうとしました」
ハイネにとって初めて、『意のままにならない男』だった。
聖王さえも手玉にとっていると思っていたハイネにとって、初めての……
「善良で、小心で、驚くほど『自分』というものがなかった。村にいる、うだつの上がらない中年男みたいだった。力に振り回されて、調子に乗りやすい人だった。何かから必死に目を逸らして、逸らすために別の何かに一生懸命になる──いつも、逃げている人だった」
ハイネは口元をゆるませた。
「情けない人でした。尊敬すべきところなどない人でした。十人並みの優しさしかない人でした。……でも、私は……私は、もしも、村に残って、ただの村娘として生きていたら、きっと、あなたみたいな人と一緒になったと思うんです。……聖王陛下の『孫娘』とならなかった、『普通の人生』を、たまらなく想起させる人でした」
どうして、
「どうして私は、あなたを神にしようとなんか、してしまったんだろう」
どうして、
「ただ、一緒に、どこかの田舎にでも逃げようと願えば、あなたはきっと、それを叶えてくれたのに。……そこで過ごす普通の人生の方が、今の、こんな人生より、ずっとずっと、価値があるものだと、思っていたのに」
どうして、
「あなたが『何か』をしていたのは、わかっています。今は、その『何か』が消え去って……頭がはっきりしています」
だからこそ、
「思うのです。私は……あなたのことが、好きだった。……この世界で、普通のあなたと、二人で生きていきたかったな」
ハイネは立ち上がる。
それから、タカシに祈りを捧げた。
それは両掌を合わせるという祈りの所作。
インゲニムウス教式ではなく、タカシの故郷で行われていたという様式らしい。
「きっといつか、普通の村娘と、普通の男の子として、出会いましょう。その時は……つまらない人生を、普通に過ごせたらいいな」
ハイネはタカシの死体に背を向けた。
何も持って行かない。髪も、持ち物も。
ただ、彼女の服と髪についた血の重さだけが、彼女の持ち去ったものだった。
◆
聖王──教皇は乱の責任をとって処刑された。
神を名乗るタカシは『神殺し』によって成敗された。
『神殺し』は行方をくらます。……あるいは『神殺し』という人物は実在せず、王宮が秘密裏に操る『対教会用特殊部隊』の名であるのかもしれない、と人々はささやき合う。
かくしてこの世界から神は完全に消え去り、しかし、神の恩寵は残った。
人々は死した女神インゲニムウスを崇め、これに祈りを捧げる習慣を残したのだ。
そして……
王侯貴族は教会が力を失い、もはや神の威を借ることはないと広く示すために、式典を行った。
神の死んだ日を祝う式典──
それはこのような名をつけて呼ばれ、毎年同じ日に行われることになる。
『生誕祭』。
実在した神と、その影を振り払って、人々が人々として歩み始めた日。
神の時代が終わり、人の時代が生まれた日。
……その日に、死した『神』のために祈りを捧げる乙女が数百年後、一部の地方で土着の伝承となるのだが。
戦勝に湧く人々には想像しえない遠い未来のことである。