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第100話 哀悼

「タカシ様……」


 インゲニムウス教総本山。

 廊下に広がる戦いのあと。

 そして、転がる『結果』。


 ハイネはよろよろと歩み寄り、倒れたタカシのそばでしゃがみこむ。

 美しい白い法衣が血に染まり、長い金髪が血をまとう。


 ハイネは倒れて動かないタカシの頭を抱きしめ、目を閉じた。


 長い、長い時間、そうしていた。


 タカシとともに冷たくなったのではないかと、もしもこの場を見る者がいれば、思ったことだろう。


「タカシ様」


 ……だが、ハイネは生きている。

 生きているのだ。


「くだらない話をさせてください。……私は、貧乏な村で生まれました。そうして……教会に『召し上げられ』ました」


 悲しいかな王の権威も教会の慈悲もすべての都鄙とひ貴賎きせんにあまねく行き渡っているとは言い難い。

 誰もかれも豊かになりたい。誰もかれも金が欲しい。誰もかれもいい生活をしたい。

 そして人の欲望には『ここまで』というものが存在しない。特に、『もう少しでもう一段上に手が届く』と思える時ほど欲望はすさまじくなり、多くの資源をその懐に集めようとする。

 そしてこの世の資源は有限だ。誰かが富めば、誰かが割を食う。


 ハイネの故郷はそういった、『割を食わされる場所』だった。


「見目が、良かったのです。そう気付いてからは、ことさら磨く努力もしました。そうして、成人前には、聖王陛下の『孫娘』となることが出来ました。村で生まれた娘にとって、これ以上ない位置に、私は上り詰めたのです」


 ハイネはタカシの頭を抱き、髪を手で梳いた。


「ねぇ、タカシ様。あなたは『娼婦』を断らなかった。けれど、私には手を出さなかった。私が『聖王陛下の孫娘』と紹介されたから、なのでしょうね。……なんて面倒な人だ、と思っていましたよ」


 美貌と性欲で縛り付け、タカシという『力』を操る。

 それがハイネに課せられた役目だった。若くして『聖王の孫娘』にまで上り詰めたハイネにとって、いかにも純情そうな男一人転がすのは他愛ないことだった──そう思っていた。


「だっていうのに、あなたは全然、思う通りにならなくて。……家具を蹴飛ばして壊すほど苛立ちました。なんて厄介な男なんだろうと、鬱憤に任せて鏡を壊した日もありました。ねぇ、タカシ様。私ね、人生で初めてだったんです。誰かにあんなに苛立ったの。苛立って、でも、どうにかしなくちゃいけなくて、ずっとあなたを見てました。ずっと、あなたがどういう人なのか、知ろうとしました」


 ハイネにとって初めて、『意のままにならない男』だった。

 聖王さえも手玉にとっていると思っていたハイネにとって、初めての……


「善良で、小心で、驚くほど『自分』というものがなかった。村にいる、うだつの上がらない中年男みたいだった。力に振り回されて、調子に乗りやすい人だった。何かから必死に目を逸らして、逸らすために別の何かに一生懸命になる──いつも、逃げている人だった」


 ハイネは口元をゆるませた。


「情けない人でした。尊敬すべきところなどない人でした。十人並みの優しさしかない人でした。……でも、私は……私は、もしも、村に残って、ただの村娘として生きていたら、きっと、あなたみたいな人と一緒になったと思うんです。……聖王陛下の『孫娘』とならなかった、『普通の人生』を、たまらなく想起させる人でした」


 どうして、


「どうして私は、あなたを神にしようとなんか、してしまったんだろう」


 どうして、


「ただ、一緒に、どこかの田舎にでも逃げようと願えば、あなたはきっと、それを叶えてくれたのに。……そこで過ごす普通の人生の方が、今の、こんな人生より、ずっとずっと、価値があるものだと、思っていたのに」


 どうして、


「あなたが『何か』をしていたのは、わかっています。今は、その『何か』が消え去って……頭がはっきりしています」


 だからこそ、


「思うのです。私は……あなたのことが、好きだった。……この世界で、普通のあなたと、二人で生きていきたかったな」


 ハイネは立ち上がる。

 それから、タカシに祈りを捧げた。


 それは両掌を合わせるという祈りの所作。

 インゲニムウス教式ではなく、タカシの故郷で行われていたという様式らしい。


「きっといつか、普通の村娘と、普通の男の子として、出会いましょう。その時は……つまらない人生を、普通に過ごせたらいいな」


 ハイネはタカシの死体に背を向けた。

 何も持って行かない。髪も、持ち物も。

 ただ、彼女の服と髪についた血の重さだけが、彼女の持ち去ったものだった。



 聖王──教皇は乱の責任をとって処刑された。


 神を名乗るタカシは『神殺し』によって成敗された。


『神殺し』は行方をくらます。……あるいは『神殺し』という人物は実在せず、王宮が秘密裏に操る『対教会用特殊部隊』の名であるのかもしれない、と人々はささやき合う。


 かくしてこの世界から神は完全に消え去り、しかし、神の恩寵は残った。

 人々は死した女神インゲニムウスを崇め、これに祈りを捧げる習慣を残したのだ。


 そして……


 王侯貴族は教会が力を失い、もはや神の威を借ることはないと広く示すために、式典を行った。

 神の死んだ日を祝う式典──


 それはこのような名をつけて呼ばれ、毎年同じ日に行われることになる。


『生誕祭』。


 実在した神と、その影を振り払って、人々が人々として歩み始めた日。

 神の時代が終わり、人の時代が生まれた日。


 ……その日に、死した『神』のために祈りを捧げる乙女が数百年後、一部の地方で土着の伝承となるのだが。

 戦勝に湧く人々には想像しえない遠い未来のことである。

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