うずめちゃん──
そう呼ばれるものがどうやらこの世界の神らしい。
女神イリスによってこの神と引き合わされることになったディは、とある郊外の五階建てマンションに訪れていた。
「………………神に会うんだったな?」
「そう申し上げました」
イリスの言葉が少し固くてきつめなのは、ディのバイクに二人乗りするのを断られたからであり、そのくせ、ディの後ろには
イリスは、奈々子には特別厳しい。
これまでもディに近寄る女にやや威嚇的な態度をとることはないでもなかったが、シシノミハシラのタマにも、あのコンピューターに支配されていた世界で出会ったサシャにも、故郷世界のアンネにも、あからさまに『そこにいるのが不愉快です』という態度はとらなかった。
神が『感情的』になるとどういうことが起こるのか、イリスは充分に心得ていて、『ただの人間』を怯えさせすぎないように配慮はしている。
感覚の鋭敏なタマなどにはわかってしまうようだが、その程度だ。
だが、奈々子に対しては明らかに『威圧』している。
……もちろん、本気ではないとはいえ、神がわずかでも『不愉快』を漏らすことで、奈々子はすっかり大人しくなって、怯えてしまっていた。
ディとしては……
(……まあ、気持ちはわからんでもない)
奈々子は、他の者とは状況も条件も違う。
タマからディへはどこか『かわいい生き物』を見るような視線が向いていた。サシャもだいたい同様で、ディ自身『大きい犬』などと、人に向けるには失礼な表現をしたこともあった。
アンネとは仕事上の仲間ではあったが、そもそもそういった感情の対象ではないが……
今、振り返って、『あの人たちへはこうじゃなかった』とわかるぐらい──
ディは奈々子に惹かれている。
……もちろん、ディが、ではない。
そしてこれまでの少女たちと違う点がもう一つある。
奈々子は、ディの可能性を閉ざそうとする者だ。
『ずっとそばで、離れず、一緒に配信を続ける』というようにディを拘束する者だ。
イリスとしては、自分からディが逃げている理由の一番大きなものが『可能性を閉ざされたくない』だと認識しているはずなので、同じく可能性を閉ざそうとする奈々子になびくのは、何が何でも認められないというのはあるのだろう。
頭ではわかる、のだけれど。
(……奈々子を怯えさせているイリスに対し、悪い印象を抱いている。……まずいな。肉体の影響がかなり大きい)
たとえば同じ条件で転移したコンピューターに支配されていた世界。
そこで入ったディの肉体には、夢も希望もなかった。死してなお遺る想い、というものがなかったのだ。だから、ディがそのままでいられた。
けれど、この肉体に遺った無念はあまりにも大きすぎる。
……祖母の死を受けて、その遺産にまつわるあれこれをやり過ごして、それでこの世に絶望して、死を覚悟し身辺整理までしていた少年が、死に無念を覚えるほどの理由。
それが猫屋敷奈々子という──
──ちょっと前まで、近くにいるけど疎遠だった幼馴染だった。
その想いの強さ、ディには実感は出来るのに、よくわからない。
人がここまで人に執着する感覚は未知のもので、戸惑ってしまう。
「三階です。エレベーターはありません」
「エレベーターなしの五階建てマンション……?」
それはマンションと呼べるものなのだろうか。
たぶん法律上は違う区分に属するその建物の中にある階段を昇って行き、三階へたどり着く。
奈々子はずっとディにしがみつくようにしていて、時折イリスにこわごわと視線を向けてはにらみ返されて委縮し、またびくびくする。
そうしてびくびくした先にはディにより強くしがみつくので、ますますイリスが苛立つという悪循環が出来上がっていた。
(空気が最悪だな……)
客観的なのは、果たして『ディだから』なのか、それとも、この最悪な空気の原因が自分にあるのを理解した上での逃避的思考か。
ディがはっきりと奈々子に自分の正体を告げれば、この空気は終わるし、奈々子と自分の関係も終わるのだ。
そしてイリスはそうすべきと考えている。……ディも同意見だ。今やっているのは引き延ばしにしか過ぎない。とっくに終わったものが、まだ続いているかのように見せる。それだけの行為。思いやりを言い訳にした自己満足だ。
……だが、出来ない。
ディは、何も出来ない。奈々子に真実を──『中尾大は死んでいて、自分はその肉体にたまたま降りて来てしまっただけの者だ』と告白することが、出来ない。
出来ないまま、目的の部屋のチャイムが押される。
「はいッス!」
やけに威勢よく──怖い先輩の来訪をあらかじめ告げられていた体育会系の後輩のようにドアを開けて出てきたのは、ぼさぼさ、というか、モサモサの髪の、だるんだるんのTシャツを着た、二十代半ばから三十代ぐらいの女性だった。
ディは思わず目を細める。
神というのは一目見れば『それ』とわかるものだ。
だというのに、目の前の、たぶん神であるはずの存在からは、そういう気配が発せられていなかった。
たどり着いた場所がただの安そうな集合住宅であることもふまえて、まったく神に見えない。
実際、奈々子も不審そうな顔をしていた。
あるいは『神』というあだ名で呼ばれる、インターネットでなんらかの有名な、ただの人なのではないかと、そういうことさえ思ってしまう。
「ささ、お入りください」
招かれて入れば、何か妙なニオイがする部屋に、それまで床に雑多に散らばっていたであろうものがゴミ袋にまとめられて空けられたスペースが確保されていた。
そのスペースは四人掛けのちゃぶ台、というか『こたつ』である。
言うまでもなく現在は夏なのでこたつの季節ではないのだが、寒いぐらいにクーラーの効いた部屋には季節感がない。
仕方なく、というより、こわごわとこたつに入る。
神らしき、神っぽくない女性が、冷蔵庫から飲み物を出してきた。
缶入りのエナジードリンク、一人一つ。
「ねぇ、本当に神様なの?」
奈々子の声はささやくようで、発せられた先はディだった。
だが耳ざとく聞いた『うずめちゃん』が、「まあ、はい」と頭を掻きながら答えた。
「いわゆる『ダンジョン神』っていうのはたぶん、わたくしのことで間違いない……ないです? ないでやんす? やべぇ、神様として人と接するの久々すぎてわからん……チャットで会話していい?」
「まぁ、そちらがそれで話を早く進められるというのなら」
ディが提案を受ければ、うずめちゃんは「助かるぅー」と声を発して、さっそくモニターの前に移動した。
そして、ディの端末にチャットが送られてくる。
『ダンジョンデータベースからアドレスは失礼させてもらったよ。どうも、おじさんです』
「……こちらは発声で応じてもいいか?」
『そこはご自由に。パッと見一人でチャットに書き込んでるやべーやつだけど、このログは残らないんで寂しくないぜ! あ、グループ作るね。どうにも君たちコンビでしょ。配信見たよ』
「……それは、どうも? ……ああ、あんた、『UZUME』さんか?」
『もしかしてスパチャ贈った人のID全部覚えてる!?』
「まあ、奈々子がそういうのに無関心なので、俺は動画概要欄にお礼を書かないといけない……」
『それ概要欄クソ長くなってるから今すぐやめな! っていうか動画中に軽くお礼言えばいいんだよ!』
「そうなのか、参考になる」
「待って! なんの話!? ここには動画運営に口出されるために呼び出されたの!?」
奈々子は自分のやり方に口を出されるのが大嫌いなので、反射的に大声を出した。
出した直後にイリスがこの場にいるのを思い出し、すごすごとディの背中に隠れて、また空気を悪くした。
『空気が冷えててさいこー』
「茶化すな」
『ネット文化は茶化しの文化だぜ。おじさんはこれでも君たちが生まれる前からネットやって』
「本題に入った方がいい。イリスの怒りの対象は奈々子だけではなさそうだ」
『アッハイ……いやね、おじさんはダンジョンを作って、アマノイワトを開ける人間を求めてるわけなんだよ。チャットが実際に力になるのは体験したよね? そのあたりのシステムを整備して、アマノイワト……なんていうのかな。世界の原動力みたいなものにアクセスする王を探すためのデスゲームを開催してるゲームマスター的なもんになった?』
「それで、俺たちを呼び出した理由は、
『そうそう。君たち人間はね、この世界の原動力にアクセス出来る唯一の存在なんだけど、この人間にチートを与えて攻略を早めさせようとする不正な侵入者が名無しの神ってわけ。こいつは非常に困る。世界の原動力に接続するのが悪人でも善人でもおじさんは構わないんだよ。それは人間が世界の命運を選んだっていうことだからね。でも、それが侵略者にそそのかされた結果だとまずいんだわ』
「話は要するに、『名無しの神を倒せ』ということだな」
『そ』
「ちなみに、あんたはそれにどういう協力をしてくれる?」
『今ねー、おじさんは力のほとんどをダンジョン創造に使っちゃってるから、もう観察しか権能が残ってないんだよ。なもんで、無力ッス★』
「……」
『その変わり、ダンジョンの恩恵を受けられる人間なら……ダンジョン内限定で、神を超えられる可能性がある。ま、一番てっとり早いのは──』
「『アマノイワト』とかいうところにたどり着くこと、か」
『そ。神が世界を次々作って運営する理由ってのがこの『世界の原動力』で、そこに知的生命体を育んでアクセスさせることで、よりよいエネルギーが噴出するように──』
「今、話している内容が、神の秘儀・秘密にかかわることだという自覚はありますか?」
イリスが口を挟む。
うずめちゃんは振り返って奇妙な笑顔を浮かべたあと、
『(削除済)』
「いや、見てしまったので覚えているが」
「忘れてください」
肉声で言われたのでそうすることにした。
重要なのは、仕組みではなく、神々の思惑でもなく……
「ようするに『アマノイワト』にたどり着くことが出来れば、名無しの神を殺せる──」
『可能性がある、だね』
「で、その『アマノイワト』はどこだ?」
『ダンジョンの最奥。すべてのダンジョンの最下層。この世界の中心にあるよ』
「わかった。つまりやることはシンプルだ。──ダンジョンを攻略すればいい」
その途中で奈々子の父親も──どういう形であれ──見つかるかも、と思ったのは、明らかに『中尾大』の思考だった。
ディは目を閉じて、『自分の思っていること』を言葉にする。
「だが、その間に名無しの神の……眷属に接触されるのは迷惑だな。……知らないと対策も出来ない。名無しの神がそそのかしている人間は、どういうヤツなんだ?」
それに対して、チャットスペースにURLが貼られた。
リンク先は──
「『ピカり』?」
──アイドル系探索者。
チャンネル登録者数450万人の、超大物だった。