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第15話 ブラックマーケットの住人たち

「くっそ! 嘘だろ! 逃げられたのか!?」


「完全に見失った……そんな……」


 黒い布越しに鈍色にびいろのブーツが見える。ブーツはしばらく立ち止まっていたが、やがていかにも気落ちしたように金属が擦れる音を立てて過ぎ去っていった。ややあって、頭上からふわっと優しく声が掛けられる。


「行ったよ、エミリアちゃん。もう大丈夫だよ」


 エミリアは顔を上げた。目線の先には頰のコケた老婆の顔がある。争いごとを好まない緑色の肌を持つトレント族の宿屋の店主。


 人間の中には人間植物と馬鹿にする者もいるが、極めて寿命の長い彼女らにとってはにわか雨に降られるくらいの些末なことだった。


「行った? フレヤさん」


 エミリアが慎重にもう一度たずねると、フレヤと呼ばれた老婆はにこりと細い目をさらに細めてゆっくりと大きく頷いた。


「ありがとう!」


 頭に被っていた黒い布から抜け出すと、エミリアも笑顔を返す。間を置かずエミリアは手を大きく振りながら状況を説明しようとした。


「あのね、フレヤさん。今、大変なことになってるの。私が彼──彼と言ってもそういう関係ではなくてまだ知り合ったばかりなんだけど、私を人質にとって、じゃなくてそれは振りなんだけど、ギルド員から逃げるために──」


 一生懸命エミリアが説明しているのをよそに、フレヤはカウンターの後ろの棚台に向き直り何かを取り出すと、エミリアの手に押し付けた。


「その格好じゃ大変でしょう。ひとまずこれに着替えて」


 渡されたのは萌葱色の麻の服だった。頭からすっぽりと被ることで膝までカバーすることができる。


「あ、ありがとう──じゃなくて! 人手が必要なの! ギルド員と戦ってほしいのよ!」


 フレヤの細い目が開き、花のようなピンクの瞳が不思議そうにエミリアを見つめていた。数秒、時が止まったように老婆の動きは静止したままだった。


「あの、フレヤさん?」


「──それは、いくらエミリアちゃんの言うことでも無理じゃないか?」


 トン、とコップを置く音が店の奥から聞こえる。視線を送ると、隅の暗がりに見知った人物が座っていた。


「あなたは確か……元ギルド員の──」


 その人物は立ち上がると、被っていた麦藁帽子を外して軽く会釈した。先端の垂れた小さな耳が揺れるランプの灯りに照らされる。


「そう、ユリウスだ。種族や肌の色じゃなくて肩書きで呼んでくれるところ、好きだが、そのお願いに応えることができる者はブラックマーケットにはいない。知ってるだろう? 俺らは君が闘技場に連れて行かれるときに何も抵抗できなかったんだ」


 ユリウスは少し恰幅のあるお腹を揺らしながら歩いてくる。太陽の光の下に出たときには、桃色と肌色の中間のような肌の色がはっきりとわかった。


 娼館から逃げてきたエミリアが隠れ住んでいたのは、フレヤが経営する宿屋【マンシオネス】だった。匿ってくれていたのはフレヤを始め、酒場の常連客たち。


 着る物も食べ物もこっそりと提供してくれた彼女らも、エミリアが奴隷商人に見つかり、ギルド員らがブラックマーケットから無理矢理連れて行こうとしたときには、エミリアがどんなに声を上げても抵抗しようとも助けてくれることはなかった。見て見ぬふりをしていたのだ。


 エミリアは受け取った服を抱き締めると、力強く頷いた。


「もちろん、知ってる。だけど、来たの。今度こそみんなに力を貸してほしいと思って」


 エミリアはなぜか強気な笑みを浮かべていた。


 お店にいた他の客たちも立ち上がる。 


「話を聞いてたのか? 無理だと言ってるんだ」「そうだ。悪いが、そういう話なら出ていってくれないか?」


 エミリアとお店の客との間に挟まれたフレヤは困ったように腕を上げたり下げたりしながらオロオロと複数の視線の間を行ったり来たりしていた。


「フレヤさん、困惑させてごめんね」


 エミリアはフレヤの肩を抱くと、自身に向けられた視線を一つ一つしっかりと見据えながら話す。心はざわざわと落ち着かなかったが、自分でも驚くほどに口は滑らかに動いていた。


「だけど、みんなはまた私を助けてくれた。それは、ギルド員に、いえギルドに対して怒りがあるからじゃないの?」


「それは、そうだ。ここにいる連中の誰一人、聖ギルドに味方するものはいねぇ」


 しわがれた声の男が震える人差し指を上げながら話す。また別の女がぼそぼそと喋った。


「だけど、ギルドには逆らえないんだよ。私らはそうやってここへ流れてきた。これ以上ギルドに目をつけられたら、もうどこにも居場所がなくなってしまう」


「そ、そうだ。生きていけなくなる。あ、あいつらは俺達のことをなんだって思ってない。命だって簡単に奪われちまう!」


 酒瓶を片手に酔っ払ったようにフラフラと左右に揺れたまま、立派なたてがみを持つ獣人の男が語気を強める。


 この店にいるのは全員が全員、アンフィテアトルムにおいて最も立場が弱いとされている獣人だった。


 エミリアの肩がポン、と叩かれる。おそらくは豚と人間のハーフであるユリウスは小さな少女を諭すような声色で「諦めな」と囁いた。


 まるでなだめるような物言いに、エミリアはその手を払い除けると迷うことなくユリウスを睨みつける。ユリウスは窪んだ目を丸くして後退りした。


「諦める? それでどうするの? どうやって生きるっていうの?」


「ど、どうってその──」


 エミリアは抱えたままだった麻の服を店の全員に見せつけるように広げる。


「フレヤさんはすぐに服を貸してくれた。なぜかって、私は服を奪われたの。闘技場で、下品な男たちに囲まれてね。腕を羽交い締めにされて、服を切り裂かれて、下着姿にさせられた。観客はそれを笑ったのよ! 大声で! 嘲るように笑ったのよ!!」


 ユリウスはエミリアの胸の辺りに視線を漂わせた後、後ろを向いた。耳がピクピクと動いている。他の誰もがユリウスと同様に、俯きあるいはそっぽを向いてエミリアの視線から逃れようとしていた。


「……それなのに諦めたらいいですって? 諦めて笑い者にされながら下卑た視線に晒されて犯されたらよかったって言うの? それが、それが生きるために仕方のないことだと言うのなら、私は望んで死を選ぶ。諦めたらもうきっと私の心は死んでしまっていた。……生きるためになら私は、死んだっていい」


 いつの間にか食いしばっていた歯の隙間から細く長く息を吐き出すと、エミリアは一人ひとりの顔を見つめる。


(誰も目を合わせてくれない。自分なりに精一杯演説してみたけど……ごめんアレン作戦失敗よ……)


 エミリアは目を閉じると踵を返して宿屋の外へ出た。麻の服を店のカウンターに置いて。


 変わらず青い空が広がっている。見上げれば羽を持つ小さな鳥たちが自由を謳歌するように気持ちよさそうに塀の上を飛び回っていた。


 エミリアは両手で頰を叩いた。


(ぼーっとしてる場合じゃないわ! 早くアレンのところへ戻らないと! 作戦は失敗したけど他の方法がまだあるはず!)


 いざ、戻ろうとするエミリアを囲うようにそっと花の匂いが香った。


「可愛そう。身体がこんなにも震えている」


「あっ、えっ……?」


 柔らかな淡いブラウンの枝がエミリアの身体を取り囲んでいた。急速に伸びていく枝はエミリアの身体に巻き付ついていくが、痛みは何もなく不思議と心地良かった。


 何重にも絡まった枝が掌のように広がり、目の前に差し出されたのはカウンターに置いてきたはずの麻の服だ。


「フレヤさん!?」


 振り返れば、いつの間にかフレヤの顔が後ろにあった。それだけではない店の中にいた全員の顔がズラッと後ろに並んでいる。


「まずは服を着て。戦いの話はそれから」


「……うん……」


 エミリアの頬に流れた一筋の涙は、フレヤの手が丁寧に拭き取ってくれた。

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