武恵妃にとって計算外だったのは、野心の甲斐無く、自分自身が早死にしてしまったことだった。結局皇太子も李瑁ではなく、彼より年長の李亨に決定していた。
玄宗は武恵妃に代わる愛妃を求めて血眼になった。
梅妃という女性に熱心になったこともあったが、いまいち本気にはなれず、高力士を督励して美女を探し続けさせた。
そして高力士がとうとう楊玉環を連れてくると、予想通りに一目で虜になってしまった。
だが、彼女は玄宗にとって息子の嫁に当たる。ものにはしたいが、世間にできるだけ陰口を叩かれぬよう、慎重にやらねばならなかった。
「二人の間に子はおらぬな、力士」
「……」
「いるのか?」
「今年に入って娘が生まれた、と聞き及んでおります」
「それはまずい。……どうにか、できるな?」
「陛下がお望みであれば、手は打てます」
「分かった。どんなことでも目をつぶる。うまくやってくれ」
「……御意」
そう答えて、高力士は音もなく立ち去った。
十日もしないうちに、李瑁の邸で幼子が死んだという話が持ち上がった。そして李瑁一家はその直後に物忌みという理由で引っ越しをし、邸に仕えていた人も総入れ替えされた。更に、邸の周りに生活していた人々も、なぜか一斉に引っ越していなくなり、娘の話を知る人も消えた。
◇
范陽へと走る馬車から、安禄山は唐の人々の暮らしを見た。もう何度も往復しているが、民衆たちの荒れ果てようは、いつ見ても嫌なものだった。
「栄えているのは都だけだ。開元の頃の平穏など、一夜の花だな。――国家というものはこんなにも早く蝕まれるものか」
自分は辺境で戦功を立て、この国を守っている。都の連中が安全で贅沢な暮らしをしていられるのは、俺のお陰ではないか。
その俺がなぜ、いつまでも北で暮らさなければならないのだ。安禄山は、忌忌しそうに唇を噛んだ。
「楊国忠め。お前だけは、すぐには殺さん。ひっ捕らえて生きたまま臓物を引きずり出してやる」
ふと目をやると、街道の向こうで、どこかの親子がこそこそした様子で畑の作物を抜いていた。
「ずいぶん警戒している。あれは、盗んでいるのだな」
安禄山はつぶやいた。しかし、浮かんできた気持ちは、哀れみや憤りではない。
「国が貧しいのではない。貧富の差が激しすぎるのだ。食わせてくれるなら群盗にでもなる連中が、今はあちこちにいる。挙兵した後にこういう奴らを吸収すれば、またたくまに兵力は増えるぞ。飢えた兵に略奪を許可すれば、すさまじい勢いで唐の兵を蹴散らすかもしれん。どうせ俺も略奪をしに行くのだ。難しい事は考えず、やりたいだけやるか」
范陽に帰り着いた安禄山は、すぐに自分の邸にこもり、人を遠ざけた。
安禄山は、自分の部屋にある大きな鏡に身を映した。彼の母が使っていた、巫女の鏡である。
鏡の中には、安禄山ではなく、ぎらぎらと光る目をした堅太りの武将が映っていた。安禄山は、その武将に向かって話しかける。
「お前の力を、俺にくれ。今までのようにたまに借りるのではなく、永久に俺の力にしたい」
鏡の武将が、あざ笑うように言った。
「お前が暴れたいのなら、望むところだ。だが、条件があるぞ。他人に媚びるのはもうやめろ。お前は阿諛弁佞の達人だが、俺は好きじゃない」
「もちろんだ。俺も、思い出すと恥ずかしい。もう誰にも媚びぬ。今はただ、心行くまで暴れたくなったのだ」
安禄山は、邪悪な笑みを浮かべた。
「ならばよかろう。――しかし、お前の母親は優れた巫女だったな。生まれたばかりのお前の体内に、俺を導いて封印してしまったのだから」
「……怒っているのか?」
「いいや。お前の人生、なかなか面白かった。ただいつまでも出番がないのも退屈なので、そろそろ動きたいと思っていたところだ。前に、道士どもが束になって来た時のような、身体が震えるような戦いがしてみたい」
「張果、羅公遠、葉法善。あの三人は、さすがに強かった。だがお前の力で、逆に皆殺しにできた。もう怖いものはない」
「俺が本気を出せば、お前は無敵だ」
「わかった。存分に暴れようぜ、天殺星」
鏡の二人は、真っ赤な口を開いて笑った。
それからしばらく経ち、天宝十四載(七五五年)、すなわち鋼先たちが旅をしている年。
正月になっても安禄山は長安に参内せず、宮廷の人々を怪しませた。さらに七月には
『名馬三千匹を献上致す。馬一匹につき馬夫二名を付けて、総勢六千人。それを将軍二十二人に護送させましょう』
と言ってきた。馬だけ寄越すなら普通の献上品であるが、わざわざ馬一匹に人が二人も付くのはおかしい。これは軍隊の意味ではないだろうか? と疑問が持たれた。
八月、玄宗は、安禄山の元に使者を送った。
普通であれば、皇帝の勅使に対しては礼を尽くして迎えるべきなのに、安禄山は寝台の中で横になったままこれを迎えた。
「さて、何の用だ?」
「例の馬の献上の事だが、陛下からの御伝言だ。『馬はありがたく頂くが、わざわざ馬夫まで用意せずともよい。人足はこちらで手配する』、とな。その方の手を煩わしてはいかんとのお心遣いであらせられる」
「ほう」
安禄山は、くくくと嗤っていた。
「まぁ馬はどうするか分からぬが、秋になったらそちらへ行くつもりだ。必ずな。――もういい、下がれ」
使者は安禄山の不敬な態度に怒ったが、その場から引きずり出されてしまった。
玄宗は、『安禄山には明確な叛意がある』と聞いても、驚く様子はなかった。
「それは取り越し苦労じゃ。禄山は、朕の心の内をよく知っている。きっとまたぞろ、面白い趣向を考えているのじゃろう。のう、貴妃?」
玄宗はそう言って楊貴妃を振り向いた。楊貴妃は、嬉しそうに微笑んでいた。
「そうですわね、きっと陛下やわたくしをびっくりさせるような、素晴らしい趣向をしてくれると思いますわ」
楊貴妃はそう言って、声を上げて笑う。いつもより狂騒とした笑い声が、長い時間響き渡った。
(第二部 完)