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第二十四回 太平の空に暗雲は広がる




 けいにとって計算外だったのは、しん甲斐無かいなく、自分自身がはやにしてしまったことだった。結局こうたいぼうではなく、彼より年長のこうに決定していた。


 げんそうは武恵妃に代わるあいを求めて血眼ちまなこになった。


 ばいという女性に熱心になったこともあったが、いまいち本気にはなれず、こうりき督励とくれいして美女を探し続けさせた。


 そして高力士がとうとう楊玉環ようぎょくかんを連れてくると、予想通りに一目でとりこになってしまった。


 だが、彼女は玄宗にとって息子の嫁に当たる。ものにはしたいが、世間にできるだけ陰口かげぐちを叩かれぬよう、慎重にやらねばならなかった。


「二人の間に子はおらぬな、りき


「……」


「いるのか?」


「今年に入って娘が生まれた、と聞き及んでおります」


「それはまずい。……どうにか、できるな?」


「陛下がお望みであれば、手は打てます」


「分かった。どんなことでも目をつぶる。うまくやってくれ」


「……ぎょ


 そう答えて、高力士は音もなく立ち去った。


 十日もしないうちに、李瑁のやしき幼子おさなごが死んだという話が持ち上がった。そして李瑁一家はその直後にものみという理由で引っ越しをし、邸に仕えていた人も総入れ替えされた。更に、邸の周りに生活していた人々も、なぜか一斉に引っ越していなくなり、娘の話を知る人も消えた。




 ◇




 范陽はんようへと走る馬車から、あんろくざんとうの人々の暮らしを見た。もう何度も往復しているが、民衆たちの荒れ果てようは、いつ見ても嫌なものだった。


「栄えているのはみやこだけだ。開元かいげんの頃の平穏など、一夜の花だな。――国家というものはこんなにも早くむしばままれるものか」


 自分は辺境で戦功を立て、この国を守っている。都の連中が安全で贅沢ぜいたくな暮らしをしていられるのは、俺のお陰ではないか。


 その俺がなぜ、いつまでも北で暮らさなければならないのだ。安禄山は、忌忌いまいましそうにくちびるんだ。


楊国忠ようこくちゅうめ。お前だけは、すぐには殺さん。ひっ捕らえて生きたまま臓物ぞうもつを引きずり出してやる」


 ふと目をやると、街道の向こうで、どこかの親子がこそこそした様子で畑の作物を抜いていた。


「ずいぶん警戒している。あれは、盗んでいるのだな」


 安禄山はつぶやいた。しかし、浮かんできた気持ちは、あわれみやいきどおりではない。


「国が貧しいのではない。貧富の差が激しすぎるのだ。食わせてくれるなら群盗ぐんとうにでもなる連中が、今はあちこちにいる。挙兵きょへいした後にこういう奴らを吸収すれば、またたくまに兵力は増えるぞ。飢えた兵にりゃくだつを許可すれば、すさまじい勢いで唐の兵を蹴散らすかもしれん。どうせ俺も略奪をしに行くのだ。難しい事は考えず、やりたいだけやるか」




 范陽に帰り着いた安禄山は、すぐに自分の邸にこもり、人を遠ざけた。


 安禄山は、自分の部屋にある大きな鏡に身を映した。彼の母が使っていた、巫女みこの鏡である。


 鏡の中には、安禄山ではなく、ぎらぎらと光る目をした堅太かたぶとりの武将ぶしょうが映っていた。安禄山は、その武将に向かって話しかける。


「お前の力を、俺にくれ。今までのようにたまに借りるのではなく、永久に俺の力にしたい」


 鏡の武将が、あざ笑うように言った。


「お前が暴れたいのなら、望むところだ。だが、条件があるぞ。他人にびるのはもうやめろ。お前はべんねいの達人だが、俺は好きじゃない」


「もちろんだ。俺も、思い出すと恥ずかしい。もう誰にも媚びぬ。今はただ、心行くまで暴れたくなったのだ」


 安禄山は、邪悪な笑みを浮かべた。


「ならばよかろう。――しかし、お前の母親は優れた巫女だったな。生まれたばかりのお前の体内に、俺を導いて封印してしまったのだから」


「……怒っているのか?」


「いいや。お前の人生、なかなか面白かった。ただいつまでも出番がないのも退屈なので、そろそろ動きたいと思っていたところだ。前に、道士どもがたばになって来た時のような、身体が震えるような戦いがしてみたい」


張果ちょうかこうえん葉法善ようほうぜん。あの三人は、さすがに強かった。だがお前の力で、逆に皆殺しにできた。もう怖いものはない」


「俺が本気を出せば、お前は無敵だ」


「わかった。存分に暴れようぜ、てんさつせい


 鏡の二人は、真っ赤な口を開いて笑った。




 それからしばらく経ち、天宝てんぽう十四さい(七五五年)、すなわちこうせんたちが旅をしている年。


 正月になっても安禄山はちょうあん参内さんだいせず、宮廷の人々を怪しませた。さらに七月には


『名馬三千匹をけんじょう致す。馬一匹につき馬夫ばふ二名を付けて、総勢六千人。それを将軍二十二人に護送させましょう』


 と言ってきた。馬だけ寄越すなら普通の献上品であるが、わざわざ馬一匹に人が二人も付くのはおかしい。これは軍隊の意味ではないだろうか? と疑問が持たれた。


 八月、玄宗は、安禄山の元に使者を送った。


 普通であれば、皇帝の勅使ちょくしに対しては礼を尽くして迎えるべきなのに、安禄山は寝台の中で横になったままこれを迎えた。


「さて、何の用だ?」


「例の馬の献上の事だが、陛下からのでんごんだ。『馬はありがたく頂くが、わざわざ馬夫まで用意せずともよい。人足にんそくはこちらで手配する』、とな。そのほうの手をわずらわしてはいかんとのおこころづかいであらせられる」


「ほう」


 安禄山は、くくくとわらっていた。


「まぁ馬はどうするか分からぬが、秋になったらそちらへ行くつもりだ。必ずな。――もういい、下がれ」


 使者は安禄山の不敬な態度に怒ったが、その場から引きずり出されてしまった。


 玄宗は、『安禄山には明確な叛意はんいがある』と聞いても、驚く様子はなかった。


「それは取り越し苦労じゃ。禄山ろくざんは、朕の心の内をよく知っている。きっとまたぞろ、面白い趣向を考えているのじゃろう。のう、貴妃きひ?」


 玄宗はそう言って楊貴妃を振り向いた。楊貴妃は、うれしそうに微笑んでいた。


「そうですわね、きっと陛下やわたくしをびっくりさせるような、素晴らしい趣向しゅこうをしてくれると思いますわ」


 楊貴妃はそう言って、声を上げて笑う。いつもよりきょうそうとした笑い声が、長い時間響き渡った。




(第二部 完)

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