賀兄弟が振り向くと、それは独孤雨水だった。彼女はぐいぐいと二人を押しやり、路地の裏に入る。
「待て待て、胸が当たってるぜ」
彼女の豊満な胸に驚いて、思わず鋼先は苦笑する。
「おい鋼先、あんたたち、指名手配になってるぞ。事情は分からないが、うろうろしてちゃまずい」
「俺たちは人殺しなんかしていない。何かの間違いだ」
「雷先、そんなことは分かってる。とにかく顔を隠して、うちへ戻るんだ」
三人が急いで帰ると、李秀たちが青くなっていた。
「何よ、あの告示。どうしてあたしたちがお尋ね者になってるの? これじゃこの州を出られないわ」
「このままでは、雨水さんにも迷惑がかかるわね」
萍鶴が言うと、独孤雨水は首を振る。
「そんなことより、胡湖ちゃんはどうした。なぜ一緒じゃない」
そこで賀兄弟が、胡湖が月光楼に残った話をした。女将にも太守にも魔星はいなかったので、とりあえず安心して預けたことも。
一部始終を聞いて、しかし萍鶴が思案顔で言った。
「ちょっと待って。縻剛という人は、自分が鉄車輪だと認めたの?」
雷先がそのときのやりとりを思い出し、
「いや、確か『妙な探りを入れるな』と怒り出した。こっちはてっきり、図星を突かれて逆上したのかと思ったんだ」
というと、魯乗が
「鋼先、縻剛たちには魔星がいたろうが、月光楼が鉄車輪だ、というのは早合点だったかもしれんぞ」
鋼先は、はっとして自分の膝を叩く。
「くそ、手の込んだ罠を。つまり、月光楼も太守も、鉄車輪の手の内か。そこまで大きい組織だとは。……まずい、胡湖を人質に取られた」
◇
妓館・光彩楼で、南宮車が巨体を屈めて礼をする。
「上首尾ですな、唐楼主」
「では魔星を戻そうか、南宮太守」
唐流嶬は冷ややかに笑い、うつろな目で立っている二人の神将を手招きした。そして自分と南宮車を指さし、入れ、と指示する。天罡星は唐流嶬に、天立星は南宮車に、それぞれ吸い込まれて同化した。
「魔星を自由に出し入れできるとは、賀鋼先たちも思い至らぬだろうな」
唐流嶬はほくそ笑む。
南宮車が訊いた。
「どうですか総輪、胡湖の魔星は」
「ああ、やはり取り出せぬ。本人が魔星そのものだからな。まあ良い、面倒な段取りを踏んだが、とりあえず手元に置けただけでも充分だ。うまく賀鋼先を欺けた」
「縻剛があまりにもだらしないのは、計算外でしたが」
「あの男は魔星が無くとも、上に飾られていれば満足するから放っておけ。月光楼の規模は、隠れ蓑にちょうど良い。――それより、仇凱」
「はい、総輪」
仇凱が、進み出て返事をする。
「賀鋼先の居場所は?」
「鍛冶屋の作業所に潜伏していると、市民からの通報がありました。賞金首にしたのは正解でしたね、副総」
南宮車が、声を殺して笑った。唐流嶬も笑って続ける。
「よし。賀鋼先とその他を切り離し、それぞれを片付ける段に入ろう。策はできている」
◇
翌日。
独孤雨水が外に出ると、にこやかな顔をした男が立っていた。
「なんだい。うちは鍛冶屋だ。農具でも包丁でも打つよ」
すると男は首を振る。
「賀鋼先に、伝言してください。仇凱があなたを連れに来たと。そして、他の方たちは、ここを出ないでいただきたい」
独孤雨水は頷いて
「仇凱さんね。お友達かい」
「ええ」
独孤雨水は振り向いて、金槌を取った。
「よくもしゃあしゃあと。胡湖ちゃんを返せ、この野郎!」
そして勢いよく金槌を振り回した。仇凱は、軽く上体を反らして躱す。
「よく聞きなさい。胡湖は、我々が預かっています。こちらの言うとおりにしないと、彼女の命はありませんよ」
「あんたを殴ったくらいで殺せるような、安い人質じゃないだろ。あまりつけ上がるなよ」
独孤雨水は吐き捨てるように言うと、奥へ入る。
鋼先がひとりで出てきたので、仇凱はきちんと礼をした。
「剣と鏡は、置いていってください」
「そうしたよ」
仇凱は鋼先の身体をさわり、武器をもっていないか確認する。
「俺が行けば、胡湖を返してくれるんだろうな」
「はい。借金も帳消しにする、と楼主から聞いています」
「縻剛が?」
「いえ。光彩楼楼主、唐流嶬がです」
鋼先は、呆れて笑った。
「なるほどな。鉄車輪の首領は、あの女か」
「あなたをお呼びになったのも、唐楼主です。馬車が用意してありますので、どうぞ」
そう言って仇凱が指笛を吹くと、二頭立ての幌付き馬車がガラガラと現れた。
鋼先は思案顔をして、
「せっかくだがな、俺は馬車だと酔うんだ。お前の着物に胃液を吐いてもいいなら、乗せてもらうが」
仇凱はちょっと臭いを想像して苦笑し、
「では、歩きましょう。しかし、その前に」
仇凱は、後ろの藪を指さした。そこにいた人影を見て、鋼先が言う。
「この間の、叉使いか」
「黒輪頭、閻謬です。他に、十六人の黒輪員、つまり暗殺者が配備されています。お仲間が一歩でも外へ出たら、命はありませんよ」
聞いた鋼先が、顔をしかめる。
「胡湖と兄貴たちと、二重に人質か。本当は臆病なんじゃねえか、お前ら」
「普段大きい仕事しかしていませんのでね、手の抜きどころが分からなくて」
「やかましい、さっさと案内しろ」
と、鋼先は足を蹴り上げた。仇凱は馬車の御者に、歩いて行くからとの旨を告げる。馬車の中にいた者が二人降りて、護衛のように付いた。
やがて四人はすたすたと歩き出した。天気は秋晴れ、心地よい風が吹いている。
鋼先が退屈まぎれに話しかけた。
「どうして俺だけ連れていくんだ」
仇凱は淡淡と答える。
「収星陣は、あなたが要。指揮官を押さえれば後は容易」
「誉められて光栄だ。だから、俺だけ先に死ぬのか」
「さて」
仇凱は薄笑いを浮かべた。
「あなただけ、生き残れるかもしれませんよ」
「どういう意味だ」
「いえ、楼主次第だということです」
それきり、仇凱は口を閉ざした。
◇
「馬車を断ったのか。では一時辰(二時間)はかかるな。食事を下げろ。来たら作り直せ」
光彩楼の一室で、唐流嶬は準備をしていた。
高価な香を焚き、書画や玉細工を飾って、季節の花を生けてある。名士が寄り集まって詩の競い合いをするための、一番良い部屋である。
唐流嶬は鏡台に向き合い、化粧を直した。髷は流れる形に結い、金と翡翠の簪で留める。白い肌が映えるように、唇には桃色の紅をさす。ゆるくつり上がった目に合わせて、柳葉の形に眉を描いた。杏色の着物は細い首と鎖骨がよく見えるように、襟元をかなり緩くしている。
しばらく待っていると、戸を叩く音がした。唐流嶬はゆっくりと戸を開け、ただ一人で立っている若者に礼をした。
「賀鋼先様、ようこそ。どうぞ、中へ」
鋼先は、目を怒らせて言った。
「しらじらしい真似はよせ。胡湖はどうした?」
しかし唐流嶬はにっこりとほほ笑み、席へ誘いながら答える。
「さっそく、唄の稽古に入っています。あの子、とても耳が良くて、すぐに憶えてしまうんです」
鋼先はどかりと腰を下ろすと、さらに訊く。
「俺が来れば胡湖を返す、借金も無しにするというのは、本当か」
「これからのお話次第、ということですが」
唐流嶬の笑みに、鋭い色が加わる。
「あんた、魔星を自由に操ることができるんだな。だから昨日は朔月鏡に名前が映らなかった。話ってのは、俺の天魁星を差し出せってことだろう」
鋼先が核心を突いたが、唐流嶬はゆっくりと首を振った。
「そういう意図ではありません」
「嘘をつくな」
「いえ、誠に。私は今日、あなたを上客の一人としてご招待したのです」
そう言って唐流嶬は手をぽんぽんと叩く。
新しく作られた料理が、何人もの侍女によって運ばれてきた。
「お酒も選び抜いたものを用意しています。どうぞ、お好きなようにお召し上がりください」
鋼先は、ずいと手を伸ばして蒸し鶏を口に放り込む。
「毒を入れるほど無粋じゃないよな。歩きづめで腹が空いた、とりあえずいただくか」
唐流嶬の酌を受けながら、鋼先は手当たり次第に飲み且つ食った。
「どうか、ゆっくり味わってください。自棄な食べ方は、見ていて辛いです」
気遣う唐流嶬に、鋼先は身を乗り出して言う。
「こっちは追い詰められてるんだ、自棄にもなるぜ。本当にもてなしたいのなら、兄貴たちまで人質にする必要があるか?」
「私とあなたが落ち着いて話すには、こうするしかなかったのです」
「分かったよ。じゃあそろそろ訊こうか、あんたの本音を」
すると唐流嶬は、呼吸を整えて話し出した。
「では、お聞きください。――私たち鉄車輪は、確かにあなた方を殺そうとしています。それは、依頼があったからです。仕事として請け負ったのです」
鋼先は、乗り出した身を戻し、瓜を取って囓る。
「ああ、そうだろうな。で?」
「依頼したのは、この国の宰相、楊国忠です」
唐流嶬は、訊かれもしないのにその名を口に出す。さすがに鋼先は驚いて身を乗り出した。
「言っちゃっていいのか? 普通は秘密だろう、そういうの」
その様子を見て、唐流嶬はにこりとほほ笑む。
「名を出して良いと言われています。懼れをなして降伏するだろうから、と」
「するかよ」
鋼先は呆れた苦笑をする。
「ですよね」
唐流嶬は冷ややかな笑いに変わって、続けた。
「と言っても、依頼の時点では、楊宰相はあなた方を知りません。魔星を封じている連中がいるらしい、それを葬れ、という内容です」
「ふうん。と言うことは、宰相にも魔星がいるってわけだな。魔星を奪われたら、宰相として政務を牛耳っている力も無くなる。だから俺たちを始末したいんだろう。それより、そんなお偉いさんが依頼主なら、報酬はたくさんくれそうだな」
「いえ、楊宰相は吝嗇(ケチ)で、ずいぶん値切られました。なので私は、お金ではないもので、報酬を頂いたのです」
「土地か何かか?」
「副総の南宮車を、この州の太守に任命させたのです」
「あっ」
「地方官は増税で小銭が稼げるぞ、と宰相も気前良くくださいましたよ。でも、私たちは逆をしました。太守の権限域を利用し、商人に免税する政策で、月光楼とその界隈を観光名所に仕立て上げました。いずれ未逸観も勢力下に加える予定です。――ふふ、道士であるあなたには、不本意かもしれませんけど。
また、兵士とその家族には減税を施し、質の良い兵を集め、諜報活動も強化しました。その結果、鉄車輪は経済にも軍事にも経路が取れ、情報網が発達し、規模を拡大できたのです」
「ただの間者集団じゃないとは思っていたが、そこまでとはな」
鋼先は杯を置き、ため息をついた。
唐流嶬は、杯を取って酒を飲み干す。そして言った。
「今、あなた方を消すのは造作もありません。しかし私は、その前に確かめておきたかった。あなたという男を」
鋼先は、少し考えた顔をした。
「あれこそ好漢じゃよ、と魯乗は言ってたな」
唐流嶬は、おかしそうに笑う。
「謙遜もしないわけね。でも、私もそう思う」
「光栄だね。あんたも、震いつきたくなるような佳人だぜ」
「震いついていいわ」
「なに」
唐流嶬は、襟をさらに緩めて胸当てを少し下げた。寄せられた谷間がはっきりと現れ、鋼先の視界に入る。
「私は娼妓。五年前にここの楼主になって、今は二十四。いろんな男の相手をしたけど、あなたほど若くて粋な人は、いなかった」
「はは。そう来たか」
「あなたを味わいたい。それが、胡湖を返す条件よ。暗殺結社の首領もいいけど、できるなら女として愉しく生きたい。いつもそう思ってたわ」
唐流嶬は、切ない目で鋼先を見る。
鋼先は、しばらく目を閉じて黙っていたが
「そういうことなら、いいぜ」
と立ち上がる。
唐流嶬は声なく笑い、絹の刺繍で飾られた寝台を指さした。
◇
寝台で、唐流嶬は鋼先に跨っている。二人とも、着物はかなり着崩れていた。
鋼先は仰向けになったまま呻いている。唐流嶬は笑った。鋼先が顔をしかめる。
「なんだ、男に飢えてるのかよ」
「まさか。不自由するわけないじゃない」
そう言って、唐流嶬は目付きを冷ややかにした。
「唐流嶬は、源氏名。本名は蔡稜薫っていうの」
「そ、それが?」
「私の父、蔡鉄越は魔星を持っていた。母は南宮輪という娼妓。そして南宮車は母の弟で、父に武術を学ぶ弟子だったのよ」
「三人合わせて鉄車輪か。単純だな」
鋼先の貶しを、唐流嶬は無視する。
「でも、魔星を扱う力は私の方が上だった。父も母も、魔星に生気を蝕まれて死んだわ。二年前よ」
「あんたが、それを受け継いだのか」
「そう。母の天罡星は私に、父の天立星は南宮車に。そして、さらに魔星を集め、仇凱や閻謬たちにあてがった。鉄車輪を今の規模にまで広げたのは、私」
「なぜ、暗殺を請け負う?」
訊かれて、唐流嶬はおもしろそうに笑う。
「世の中が、滞りなく流れるための、掃除になるからよ。私たちは、すべての依頼を聞くわけじゃないわ。勢力争いをしている連中の、役に立たない駒を消していくのが仕事。文官、軍人、貴族がお得意様よ。そうそう、未逸観も支配下になるから、あそこにいる者は皆、あなた方に対する人質よ。憶えておいてね、ふふふふ」
唐流嶬の周到な笑みに、鋼先は唾棄の表情を示した。
「はん、ハッタリは上手いな、褒めてやるよ。
じゃあ何か、あんたらをうまく使える奴が、歴史で生き残れるとでも言いたいのか? 偉そうによ!」
「そうよ。まあ、誰を生き残らせるかを決めるのも、私たちだけど」
「なるほどな。宰相さえも手玉に取るんだから、自信もあるわけか。――だが見てろよ、今にぶっ潰してやるからな!」
息も絶え絶えに言う鋼先を見て、唐流嶬は、からからと大笑いした。
「女に跨られて言うことなの、それが。今頃、賀雷先たちは閻謬に殺されているわ。天魁星を持っているあなただけ助けてあげたのが、まだ分からないの?」