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第三十八回 海棠は炎に散る




 迷路の部屋に、だいに煙と熱さが満ちてくる。


 南宮車なんぐうしゃはすぐ後ろにあるかくし扉を押したが、開かない。


「すべての扉に鍵をかけました。あなたは絶対に逃がしません」


 胡湖ここの声はやいばのように鋭い。南宮車は、しかし落ち着いていた。


「そうか。だが、お前を倒し、鍵を壊せば済むこと。――それにしても『、別れて三日なれば刮目かつもくしてあいつべし(男子は三日も会わなければ大きく成長する、の意)』というが、あのとき泣いていた小娘が、ずいぶん剛胆ごうたんになったものだな」


 南宮車は、そう言って感心する。太守として胡湖に会ったときは、両親の死にただ泣くばかりのにゅうじゃくさだった。


「三日? 女は一日です」


 胡湖が、短い返事を吐き捨てる。


 南宮車は気圧けおされた顔になったが、すぐに平静に戻ると、彼女の感情に突き刺さることを口にした。


「そうだ思い出したぞ、お前の両親を殺した日のことを」


 胡湖の表情が、一際ひときわけわしくなる。南宮車は逆に、微笑した。


「魔星を持った娘がいるという報告が入った。たださらうこともできたが、資産価値のある良い屋敷に住んでいると分かったので、それも同時に奪おうということにしたのだ。荘北森そうほくしんはかり、ちょっとした資金を貸して、ほうもつそうの仕事と、護送役武芸者の登録所を紹介した。……結果は知っての通り、武芸者は裏切って荷を盗み、その賠償金と人件費で莫大な負債になった。もちろん、宝物は贋物にせもの、武芸者は黒輪員だから、すべて鉄車輪の手の内だったわけだがな」


 南宮車は、してやったりの顔で笑う。胡湖は、うつむいてわなわなと震えていた。


「万一の保証契約も結んでいたから、父は安心していました。でも、それも!」


「そう、その契約も、複雑な免責事項めんせきじこうを混ぜ込んで、保証が成立しないようにしておいた。お前の父親は、絶対に失敗するように仕組まれていたんだよ! そして、資産をすべて奪ったところで、強盗をよそおって家にしゅうげきをかけた。夫妻を殺して、娘を攫うためにな」


「よくそこまでひどいことができますね……!」


 顔を上げた胡湖の頬に、怒りの涙が流れていた。しかし南宮車は、誉められたかのように慇懃いんぎんな礼を返す。


「簡単に殺せるはずだったが、夫人はともかく、たいは意外に腕が立ち、黒輪員は苦戦した」


「もういいです、だまりなさい……!」


 これ以上掘り返させようとしない胡湖だったが、それをちょうはつするように、南宮車は続ける。


「そのとき、私が近隣にいたので、えんびゅうの代わりに呼ばれた。お前たちは狭い家に移り住んでいたから、私が奴を殺るのはぞうもなかったよ。……あのときお前は、隠れながら私の声を聞いていたのだな。たいした耳だ」


 南宮車は、高らかに笑った。


 胡湖は、歯もくだけんばかりに食いしばる。海棠かいどう刺繍ししゅうが入った上着をひるがえし、腰の左右から日月じつげつ双刀そうとうを抜いた。


 南宮車も、もう一本のかいの先端を抜き、毒針をあらわにする。


「この部屋で私に勝てる者はいない。胡湖、お前はこうせんたちを逃がす時間をかせいでいるだけだろう。お前は良い素質がある、殺したくはないんだがな」


 胡湖は、答えなかった。その代わり歩を進めて刀を振る。


 しかし、南宮車はいとも簡単に受け止めた。そして拐を振り払い、鼻で笑う。


「魔星の生まれ変わりが、そんなりきなはずは無い。あくまで時間を稼ぎたいか」


 胡湖は素早く左右の刀を振る。南宮車は、受けずに身をかわした。しかし、今度は彼のほおが切れて、血が流れる。南宮車は驚きながらも、笑った。


「ほう、やはりな。だが、私を倒すには程遠ほどとおい。――そうだ胡湖、私の弟子になれ。父のかたきを師にして学べば、きっと凄い剣士になるぞ」


 南宮車は毒のこもった笑いをした。しかし、胡湖は冷たく言い放つ。


「お断りします。片腕では、指導も難しいでしょうから」


「誰が片腕だ?」


 南宮車は思わず自分の腕を見た。


 左腕の肘から下が、斬られて落ちている。


「こ、これは! きさま!」


 南宮車は、斬られた腕を押さえながら叫ぶ。


「右目は李秀りしゅうさんにやられてかく、そして今、左手を斬られました。部屋もそろそろ火の海です」


 胡湖は南宮車の右側に突きかかった。南宮車は慌てて受け流す。胡湖は左右の連続突きを繰り出し、その速さは次第に増していく。南宮車は片手で必死に受けたが、とうとう火が足下あしもとに迫った。


「胡湖、やめろ! このままでは二人とも焼け死ぬぞ」


 南宮車は悲鳴を上げる。しかし胡湖の刀は止まらなかった。


「ならば早く私を殺しなさい。この部屋では無敵なんでしょう」


「くそ……!」


「でも今は、この部屋も私の武器です」


 胡湖はそう言ってほほ笑み、南宮車の足下を斬りにかかる。しかし、南宮車は軽く跳躍したかと思うと、両脚を空中に踊らせて胡湖の刀をり飛ばす。二本の刀が胡湖の手を離れ、それぞれ壁に突き立った。


「しまった」


 うろたえる胡湖の喉元のどもとを、南宮車は右手でつかみ上げた。


「動きを封じるために、足を狙うと思っていたよ。素質はあっても、経験が少ないのが悲しいところだな」


 胡湖は首をめられたまま宙吊ちゅうづりにされた。二人の衣服に火が付き始める。南宮車が舌打ちした。


「もう限界だな。ここを出なくては」


 そのとき胡湖は、再び腰に手を回し、二本の小刀こがたなを取り出した。そして南宮車の右手首を斬りつけ、その爪を逃れる。


「なにっ」


 そして、床に着くのと同時に、南宮車の両足首を斬り飛ばした。


「ぐっ! きさまぁっ!」


 南宮車はえながらあおけに倒れた。そして、炎に包まれる。


「ぐおっ、ぐああああっ!」


 猛獣のような叫びと共に、血まみれの巨体はのたうち回った。


 そこから離れながら、胡湖は火の回った上着を脱ぎ捨てる。刺繍の海棠が、風に散るように舞った。


 一番近くの扉にたどり着き、施錠せじょうを外す。


 ふと、胡湖の背中に、急激な痛みが走った。


 顔をしかめて振り向くと、何かが刺さっている。


 かい


 火だるまのまま、あっぎょうそうになった南宮車が、その口に拐をくわえて、胡湖の背に突き刺していた。


「まだ、動けたのですか……!」


 南宮車は、膝で歩いていた。血のあとがそのようになっている。


 背部の激痛に少し遅れて、胡湖は嫌なめまいを感じた。毒がられていたのがその瞬間分かった。


 南宮車は拐を放すと、しろいたまま笑う。


「ひとりでは……死なんぞ……!」


 南宮車の笑いが、破鐘われがねのように響いた。胡湖は、遠のく意識の中で、覚束おぼつかなく斬りつける。




 ◇




 らいせんは、弟を背負ったまま光彩楼こうさいろうを脱出した。見上げてみると、本楼ほんろうの周囲は火で囲まれ、たくさんの人が逃げまどっている。雷先は納屋なやのある空き地に移動した。そこには李秀たちが避難している。


こうせん、大丈夫?」


 李秀が声をかけた。雷先は鋼先を下ろしながら首を振る。


「生きてはいるが、毒にやられた。早く手当てをしないと」


 へいかくが、背中の痛みを堪えながら近付いてきた。そして筆を取り、弱々しく振る。


 鋼先の頬に「どく」の文字が現れた。鋼先は目を覚まし、すぐにき込んでどす黒い血を吐く。李秀が差し出した水筒から水を飲んで、さらに咳き込んだ。


 少しして落ち着いたが、鋼先はまだ起き上がれず、声も出せない。胡湖のことを伝えたかったが、それもままならなかった。


 雷先が、周囲を見て言った。


百威ひゃくいは?」


 李秀がうなずいて答える。


「それが、翼が折れてるのに無理して飛んでいっちゃったのよ」


 すると萍鶴が指さして言った。


「見て、帰ってきたわ」


 百威はよたよたと飛びながら地面に降りてきた。その足には、とう急須きゅうすをぶら下げている。雷先がいぶかしんで訊いた。


「何だ、その急須は。怪我けがしてるのに無理するな」


 すると急須から声が聞こえた。


「おい雷先、触るなよ。わしが入っている」


 雷先たちは驚いて、急須に近寄る。


魯乗ろじょうか? その中って、どういう事だ?」


「前に言ったことがあるじゃろう、わしは本当は実体を持たない、こんぱくだけの存在だと。唐流嶬とうりゅうぎと戦うに当たって、姿をかくす必要があったんじゃよ」


「その唐流嶬はどうなった、魯乗」


 雷先が訊く。すると、急須からため息が吐き出された。


念動力ねんどうりき匕首あいくちを飛ばし、首を斬りつけるところまではやれた。そこで力尽き、わしも動けなくなった。唐流嶬は激しく出血し、気を失ったが」


「じゃあ、やっつけたの?」


 李秀が身を乗り出す。


「いや、それがな」




――魯乗はそのとき、綿ゴミのように床に落ちたまま動けなかった。ふと、床が熱くなってきたのを感じ、同時に煙の臭いに気付いた。


「いかん、火を付けたか。鋼先、そこまでやるとは聞いておらんぞ。わしは動けないんじゃ、早く来てくれ」


 風向きのせいか、火はあっという間に部屋に回ってきた。魯乗がさらにあせっていると、外から窓を破って、何者かが入ってくる。


「あ、あれは……!」


 入ってきたのは、黒輪頭こくりんとうえんびゅうだった。閻謬は倒れている唐流嶬を見つけ、素早く駆け寄る。


総輪そうりん、しっかり。私です」


 唐流嶬は血まみれの顔で目を開き、あんの顔になった。


「おお、閻謬。どうしてここに」


「仕掛けはわかりませんが、賀鋼先に謀られました。急いで戻ってみたら、楼が燃えていたのです」


「く、火まで付けられたか。閻謬、急いで出よう。きゅうがいさがさなければならん」


 すると閻謬は力無く首を振り、


「ここに来る途中で、仇凱の亡骸なきがらを見ました。墨で真っ黒な顔にされて」


 唐流嶬は、それを聞いて短くえつする。


「……そうだったか」


 唐流嶬はそれだけ言って、目を閉じた。


 炎が強くなりつつある。閻謬は唐流嶬を背負うと、入ってきた窓から飛び出して行った。――




「惜しかったな」


 話を聞いて、雷先が拳をてのひらで叩いた。


「それはそうと、お主らは南宮車を倒したんじゃな? 胡湖はどうした?」


 魯乗に言われて、雷先が答える。


「そうだ、胡湖が遅いな。後から逃げると言って、俺たちを逃がしてくれたのに」


「逃げたのか? 南宮車には勝てなんだか」


 雷先は、ため息をついて頷く。


「残念だが、俺たちでは歯が立たなかった。すんでのところで胡湖が現れて、逃がしてくれたんだ」


「でも不思議よね。まるで、あたしたちが戦っているのを知ってるみたいだった」


 首をかしげる李秀に、ようやく動けるようになった鋼先が、ため息をついて言った。


「みたい、じゃないぜ、李秀」


「えっ? 鋼先、どういう意味?」


 鋼先は言葉で答えず、光彩楼を指さした。大きく燃え上がる楼閣ろうかくの屋根を、二人の人影が飛び降りてくるのが見える。


「あれは?」


 萍鶴が筆を構える。しかし鋼先は手で制した。


 その二人が、収星陣しゅうせいじんのところに来た。その顔を見て、雷先が喜ぶ。


「胡湖、無事だったか。心配したぞ」


 歓迎するように両手を広げた雷先に、しかし彼女は近づくのをやめた。不思議そうな雷先の目を見て、彼女は顔を伏せる。


「兄貴、違うんだよ」


 鋼先も、目を伏せながら彼女の胸元を指さした。鎧の護心鏡ごしんきょうに、「地急星ちきゅうせい」と刻まれている。申し訳なさそうな顔で、彼女は礼をした。


「どういうことなの、胡湖。あなたでしょう? その顔は」


 李秀が、彼女の肩をつかむ。互いに震えていた。


「李秀さん。……この身をして、南宮車は倒しました。鉄車輪てつしゃりんの力を、少しはげたかと思います」


「胡湖!」


 李秀は涙を流す。


 鋼先は、何も言えずにうなれていた。雷先たちも、ただ見ているしかできない。


 泣いている李秀の肩に、彼女がそっと手を置いた。


「ごめんなさい。もう、胡湖ではないんです。私は、地急星です。……この姿に戻って、思い出したことがあります。


 みんなで天界を抜け出して、私もいろんな生活をした後、子供が生まれなくて悩んでいる夫婦を見たんです。なんとかしてあげたくなって、私は奥さんのお腹に入って行きました。


 そこから記憶は無くなって、私は胡家の娘として産まれました。父も母もとても喜んでくれて、私は大切に、幸せに育てられて来たんです。


……この一家の最後は、とてもつらいことになってはしまったけれど、それでも私は、人間として充実した毎日を送ることができて、本当に良かったです。


 天界の、終わらない命のなかでは、すべてがぞんざいで、何かを大切に感じることなどなかった。


 しかし人間は、限りある命だからこそ、一日一日を大事にして、後悔のないように生きていく。そのために、がんばる。


 いつかは失われていくからこそ、心には刻みつけられて、大切に残る。終わりがあるって、とても素晴らしいことなんだ。


 それを、しっかりと学びました。


 竜虎山に行ったら、兄弟たちにも、このことを伝えたいと思います。


 だから、悲しまないでください。


 ありがとう、


 李秀さん、


 そして、皆さん」


 そう言った。


 しかし、地急星もやはり涙を流し、声を上げた。


 後ろにいたてんりつせいが、ただ黙って礼をしていた。




 ◇




 その日の夜。


 南側のじょうもんで、どくすいは待っていた。顔を隠しながら集まった収星陣に、彼女は言う。


ぶんえいって奴が現れてね。あたしのせいを取られちまった」


 一同は驚いたが、ながばなしできる状況でもない。わずかに開けられている城門をくぐり、りょうざんの街を抜けた。月明かりを頼りに街道を歩き、見張りの役人に見つかっていないと分かって、やっとひと息ついた。鋼先が、独孤雨水に礼を言う。


「ありがとう。だが、鉄車輪はまだ生きている。唐流嶬が回復する前に、また梁山に戻るよ」


 それを聞いた独孤雨水が、ふと足を止めた。


「鋼先。胡湖ちゃんは、まだ捕まってるのかい」


 全員が、思わず立ち止まった。誰も、独孤雨水の顔を見ることができない。


 独孤雨水が、悲しい目で頷いた。


「そうか。胡湖ちゃんは、死んだんだね」


 雷先が首を振る。


「いや、地急星に戻りはしたが、記憶はちゃんとある。収星して竜虎山りゅうこざんに送ったから、向こうに行けば会えるんだ」


 独孤雨水は、力無くほほ笑んだ。


「あたしはね。胡湖ちゃんが一緒なら、このままあんたたちと行こうと思ってた。魔星として死ぬのを待たれる人生なんて、つらいだろうからね。どこで暮らすにしても、あの子のそばにいてあげたくなったんだよ」


「そうか」


 鋼先が、軽く礼をした。


「でも、あたしも地孤星を失って、鍛冶かじの力も消えた。あんたたちの役に立つこともできない。だからやっぱり、一緒には行かない」


「そうか」


 独孤雨水は、こうを開けて包みを取り出し、魯乗に手渡す。


「鳥ちゃんの羽だ。あのとき作った分の余りだけど、補修に使える。大事にしてくれ」


 そう言って、背を向けると、夜の闇の中へ歩いて行く。


 鋼先が声をかけた。


「ありがとう、世話になった。元気でな」


 独孤雨水は、振り返らずに手を振りながら言った。


「あんたたちもね。誰も死ぬんじゃないよ。全部終わったら、また風呂に入りにおいで」

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