「
そしてその火で焼いた
食べている最中で、獣のような叫び声を聞く。
「犬かな。ちょうどいい、肉が欲しかったところだ」
呉文榮は立ち上がり、声の方へ歩き出した。
「
黒い馬に乗った人物に呼び止められて、呉文榮は振り返った。
「今は
呼び止めた女性は、馬上で軽く礼をした。
「はい。
呉文榮は、また嫌がる顔になる。
「拙者は一人が合っている。期待には
「い、いや、呉文榮どの。それは仕方ありませんが、どちらへお向かいで? そっちは、その……」
祝月下が、言葉を
「
「い、犬ではありません。とにかく、行かぬ方が」
そのとき、さっきの叫び声がすぐ近くで聞こえた。
「あの声は! そうか、お
呉文榮は、事態に察しが付いた。祝月下は馬を下り、気まずそうに礼をする。
「一度は止めたのですが。……どうかわかっていただきたい。総輪も、手段を選んでいられないのです」
「手段を選ばないのは拙者も同じだ。今は
そう言っていきなり、呉文榮は祝月下の
しかし、祝月下は体を捻って
「失敬、お元気で!」
と発して
「ぬう。力不足かもしれぬが、今を逃すわけにはいかぬ」
呉文榮は舌打ちし、祝月下を追うことはせず、僵尸の声がした方向へ歩き始めた。
◇
二体の
「
鋼先の
「だめか。
しかし萍鶴は首を振る。
「魯乗はまだ動けないわ。他に弱点はないの?」
「朝日に弱いが、うまく押さえておかないと、地面を掘って逃げる。難しいぜ」
「夜明けまでは、まだ長いわね」
「しかし鋼先、今はそれしかない。なるべく人が少なくて、
「じゃあ、あの丘の上に」
三人は、萍鶴が指し示した方向へ進み始めた。
蔡鉄越と
「ふう、こいつはきついぜ」
鋼先は
「見て。誰か来るわ」
それは呉文榮であった。呉文榮は三人の前でぴたりと止まると、
「その僵尸は、拙者が引き受ける。お前たちは行け」
三人は顔を見合わせたが、事情を思い出して頷く。鋼先が言った。
「そうか、お前の師匠だったな」
「知っていたか。こんな姿になってしまって、
「そういえばお前は僧侶の格好だものな。道士と何かあったのか?」
「わけは後で話してやる。行け、邪魔だ!」
呉文榮がもう一度押す。その怪力で三人は大きく後退し、そのまま丘を転げ落ちてしまった。
「キエエエッ!」
そのとき、南宮輪が大きく跳躍し、呉文榮に襲いかかる。呉文榮は彼女の爪をぎりぎりで躱し、腕をつかんだ。そのまま
そして、鎖帷子の
「
呉文榮は腰の袋から灯油の入った
そして火打ち石を取り出そうとしたとき、蔡鉄越が飛び込んできて遮った。南宮輪は、その隙に丘を駆け下りて行く。
◇
「おい、僵尸が一体来た。女のほうだ」
丘を転がっていた雷先が、体勢を立て直しながら言った。鋼先たちも、慌てて立ち上がる。
「片方だけなら、何とか倒せるかな」
鋼先が言った。萍鶴が頷く。
「そうね。いつの間にか鎖帷子が外れているし、うまく燃やせれば勝てるわ」
そう言って
「しまった」
萍鶴は退こうとしたが、僵尸はもう彼女の真後ろに着地していた。
「キョエアアア!」
高い叫びとともに、僵尸が萍鶴の首筋に囓りつく。白く長い頚部から、鮮やかな血が噴き出した。
「ああっ!」
萍鶴はもがいたが、僵尸は力強く彼女の両肩を押さえ、血を啜り続ける。
「やめろっ!」
雷先が走り寄り、棒を打ち下ろす。しかし僵尸はパッと跳びすさり、これを躱した。
「今ね」
萍鶴はふらつく足を踏ん張って、輝影を振った。「燃焼」の飛墨が顕れる。南宮輪の身体に火が
「ウギャアアアア!」
南宮輪は
「よし、萍鶴、よくやった!」
急速に灰となっていく僵尸を見ながら、雷先が
「うう、うギイいいイイ!」
耳を
「まずい。兄貴、萍鶴が僵尸になるぞ」
鋼先は彼女を押さえようと駆け寄ったが、萍鶴は長い腕を伸ばして鋼先の両肩をつかむ。
「萍鶴、落ち着け。俺がなんとかする」
鋼先は必死な目で言ったが、雷先が後ろで首を振っていた。
「無理だ。鋼先、分かってるだろう。僵尸に咬まれたら僵尸になる。避ける方法は無い」
だが鋼先は、それよりも激しく首を振る。
「無くてもやるんだ。見捨てられるかよ」
鋼先は萍鶴の両肩をつかみ返す。そこで更に驚いた。彼女の体温が、死人のように生ぬるい。
「やめて」
萍鶴の声がして、鋼先は彼女を見る。両目とも白目を剥いていたが、大粒の涙を流していた。
「鋼先、私は、もウ、ダめ。意識ガ、保テ、なイ。コのマま、デハ、あなタタチ、の、血ヲ吸って、しまウ。……人デ、アル、ウチニ、飛墨デ、私、ヲ、燃ヤシ、テ……」
そう言うと、震える手で輝影を渡そうとする。爪ももう、長く鋭く伸びていた。
鋼先は、反射的に手を引っ込める。
「だめだ、他人が触れたら輝影の力は落ちるんだろう? それに、お前を燃やせだなんて、簡単に言ってくれるなよ!」
鋼先の瞳からも、涙がこぼれている。後ろの雷先も、肩を震わせていた。
◇
「師父、そんな化け物になってまで、この世に残らないでくれ」
呉文榮は、喜べない再会を
「ぬうっ」
呉文榮が、苦痛に顔を
「堅さは互角か。しかし速さはどうだ」
呉文榮は蔡鉄越の周囲を駆け出し、前後左右に素早く回り込む。そして大きく跳躍し、真上から
しかし、蔡鉄越は前へ跳び、これを躱す。そして振り向きざまに後ろ蹴りを放ち、呉文榮を吹っ飛ばした。呉文榮は地面を
「そうか、目ではなく、匂いで感知するのだな」
「この技は、『
密着しながら闘うのが、蔡鉄越の
「ぐぐ、ふぬっ!」
呉文榮の口から、呻きと血がこぼれる。しかし、決して
◇
萍鶴の犬歯が伸び、牙になった。
「おい、しっかりしろ」
そう呼びかけた鋼先の首筋に、牙が迫る。鋼先は身をよじって避けるが、萍鶴は
雷先が叫んだ。
「逃げろ、鋼先。血の味をおぼえさせたら、完全に
「わかってる、けどな」
鋼先が苦しげに応えた。振りほどきたいのだが、彼の実力では、今の萍鶴にはまるで敵わない。
「ううっ、痛え!」
鋼先は、更なる苦痛を感じた。萍鶴の爪が、彼の両腕にしっかり食い込んでいる。
「萍鶴、よすんだ!」
雷先が棒を突き込んで助けに来たが、萍鶴の後ろ回し蹴りに棒ごと吹っ飛ばされる。
そして、萍鶴は悠々と鋼先の首筋を咬んだ。
「ぐうっ、やめろ萍鶴!」
しかし鋼先の
「こ、こうなったら」
鋼先は意を決する。彼女が血に夢中になっている隙に腕を振り払い、輝影を抜き取った。
「鋼先、
手をばたつかせながら、雷先が止める。しかし鋼先は首を振った。
「萍鶴を、元に戻すんだ。やらせてくれ」
鋼先が
「分かった、輝影のことはやむを得ない。だが鋼先、まずお前を癒せ。咬まれたんだぞ」
「そうか」
鋼先がはっとして、自分に筆を振ろうとした。しかし、急に手が震え、筆を取り落とす。穂先の墨が飛び散り、闇夜の地面に消えた。
「は、早くもか。マずイ。い、意識ガ、消エソう、ダ」
鋼先の震えは、全身に及んで更に激しくなる。雷先が、頭をかきむしった。
「さ、最悪だ。鋼先まで僵尸になるのか!」
そう言ったとき、地面から強い光が発し、雷先に向かってきた。
「な、何だ?」
雷先は、その正体には気付いた。
だが、理由が解らない。
「あれは輝影だ。だが、なぜ俺を襲う?」
不可解さに立ち尽くす雷先。その顔面を、輝影が高速で
「うわっ」
雷先は避けられず、傷を負う。額が割れ、真っ赤な血が噴き出す。
輝影は、素早く雷先の血を穂先で
「ウウッ!」
頬に「浄化」と顕された彼女は、顔色が戻り、牙も収まった。
「なるほど、そうか!」
雷先が得心する。輝影はもう一回転し、鋼先にも文字を飛ばした。二人は強い光に包まれた後、晴れやかな顔に戻る。
輝影が、萍鶴の腰元にある筆入れに戻った。そして挨拶のように点滅すると、動かなくなった。
萍鶴が、柄にそっと触れる。そして頷いた。
「助けてくれてありがとう、地文星。――飛墨の力も落ちてはいないわ。鋼先が天魁星だから、親和できたのね」
鋼先が、ため息をついて笑った。
「さすがにもう駄目かと思ったぜ。だがまだ終わりじゃない、上に戻ろう」
◇
繰り返される打撃に耐えながら、呉文榮は吼えた。
「いいだろう、拙者も同じ技で返す!」
呉文榮は足を踏ん張り、
「今だ」
呉文榮は転倒した蔡鉄越につかみ掛かり、鎖帷子を
「師父よ、これでさらばだ。
しかしそのとき、蔡鉄越がまた
「ぬうっ」
呉文榮はかろうじて相手の内股に
そのとき、鋼先たち三人が丘の上に戻ってきた。
「呉文榮! 勝ったのか?」
そして灯油を注ごうとしたが、蔡鉄越が急に立ち上がり、竹筒を引ったくる。
「気をつけろ!」
賀兄弟が叫んだが、しかし、意外なことが起きた。蔡鉄越は、自ら
「どういうことだ。意志があるのか」
呉文榮は、目を白黒させる。鋼先たちも首を捻った。
蔡鉄越は竹筒を捨て、両手をだらりと降ろす。全くの無防備だった。
「燃やせ、ということか」
呉文榮はうなった。火打ち石を出したが、しかし、ためらっている。
沈黙が流れた。
突然、萍鶴が動いて飛墨を放つ。
「待て!」
呉文榮が叫んだ。しかし、蔡鉄越は燃えない。付いた墨は、その頬に「告」と顕れていた。
「……呉轟」
僵尸の口から、
「その
呉文榮は、思わず
呉文榮は静かに立ち上がり、僵尸に火を点ける。
「血を吸いに来ず、黒熊體を繰り出したのは、妙だと思っていた。武術家だった記憶が、どこかに残っていたのだな。……師父よ、あの頃は、楽しかったなあ。何で、こんなおかしなことに、な、なっちまったのか……!」
鋼先が、近付いて言う。
「呉文榮、丘を下りたところに小川があった。そこで水でも飲んで来たらどうだ」
すると呉文榮は、軽く頷いて丘を下りて行った。
「おい鋼先、あいつの魔星をまだ収星してない。逃げられるんじゃないか?」
激しい
少し間を置いて、鋼先たちも小川へ下りた。呉文榮は、顔を洗っている。
「さて、聞かせてくれないか。話せることだけでいい」
鋼先が言うと、呉文榮は顔を拭いながら話し始めた。
「……三十年ほど前、拙者は蔡鉄越の武術を見て、弟子になった。その頃、師父は
記憶をたどりながら、呉文榮は話を続ける。
「何年かして、師父は
「なるほどな」と鋼先。
「しかし、数年前に師父は魔星に取り
「本当か? じゃあなぜ今のお前は、魔星を欲しがっていたんだ」
雷先が不思議がる。呉文榮はぎろりとにらんだが、ふぅと溜息をついて続けた。
「師父と奥方が、突然死んだ。魔星との相性が良すぎて自分を見失い、邪気に身体を冒されてしまったのだろう。
それだけなら良かったが、邪気が元で僵尸になって蘇ってしまった。拙者は道士を連れてきて、暴れる二人を
成長していた蔡稜薫は、瀕死だった奥方から
結局、蔡稜薫が魔星を封印に使って事なきを得、二体の僵尸はそのまま鉄車輪が管理することで落ち着いた。拙者は処分を願ったが、危なくて動かせない、と拒否されたのだ。
――拙者はもう、何もかも嫌になって梁山から逃げ、すべて忘れようと
「お前が僧侶なのは、そういう理由か。しかし、お前に魔星の扱いを教えたのは誰なんだ?」
鋼先が聞くと、呉文榮はぶるっと身体を震わせる。
「名は分からぬ。赤い
「そうだったのか」
鋼先がいたわるように言った。
呉文榮は小川の水を飲み、息をつく。
「これで全てだ。今日ようやく、拙者の目的が果たせた」
呉文榮の声は、心なしか明るくなっていた。鋼先たちも、少しほほ笑んで頷く。
呉文榮が突然、思い出したように言った。
「賀鋼先、お前、魔星の憑いた赤ん坊を助けたことがあるだろう」
「そう言えば、あったかもな。あ……!」
「お前、そこで拙者の名を
呉文榮が、おかしそうに笑う。鋼先は決まり悪く頭をかいた。
「いやあ……ま、はずみでね」
「それから、
「いいのよ、そんな」
萍鶴も
呉文榮は、両手を広げて言った。
「
そう言われたので、鋼先は
そして出てきた
鋼先は
「ずいぶん