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第四十二回 会稽から来た男




 こうせんたちが走っていると、急に茂みから幾人いくにんもの人影が飛び出した。そしてびんに動き、鋼先たちにせまる。


「やはり待ち伏せていたか、えんびゅう


 鋼先が言うと、眼光鋭がんこうするどく閻謬が現れた。


僵尸きょうしを倒したか。だが個人的には嬉しい。きゅうがいあだはこの手で討ちたかった」


 閻謬は両手にたんを構える。鋼先たちは身構えたが、そのときみょうな声が響いた。


「え、閻謬ぅぅ……」


 皆が目をやると、軍人姿の男が震えながら歩いてくる。


「どうした、山礼汎さんれいはん


 閻謬がいぶかって訊くと、その後ろから李秀りしゅうが顔を出した。手にした双戟そうげきが、山礼汎の脇腹わきばらに接している。


「ち。やられたのか、赤輪せきりんが」


 閻謬が吐き捨てるように言う。しかし山礼汎は、引きつった微笑を見せた。


「閻謬、お、俺に構わず、こいつらを殺せ。お前ならやれるだろう。こうせんを討つなら、い、今しかない」


 すると閻謬は目を閉じ、


「わかった、山礼汎、感謝する。どうせこいつらは人殺しなどできぬ、遠慮えんりょなくやらせてもらおう」


「そ、そうだな、さすがは黒輪頭こくりんとう


 膝がガクガクして来た山礼汎を見て、李秀が親切心で言う。


「ねえ閻謬、ほんじゃないみたいよ」


「どっちでもいい」


 閻謬は鼻であしらい、片手を上げて部下に合図した。しかし包囲が完成したとき、李秀が大声を上げる。


練兵場れんぺいじょうに、侵入者だ! さん団練使だんれんしが襲われているぞ。柿渋色かきしぶいろしょうぞくを着た連中を捕まえろ!」


 まだ寝るには早い時間である。すぐに兵舎へいしゃから兵士たちが現れ、近づいて来た。閻謬が顔をしかめる。


「おのれ、李秀」


 李秀はとくにほほ笑み、


「兵士たちは、上司が鉄車輪てつしゃりんだなんて知らないでしょ。面倒なことになるんじゃない?」


「仕方ない。てっしゅうだ」


 閻謬が部下に合図を出すと、祝月下しゅくげっかがすっと近付いて


「あきらめないで、まだ好機はあるわ。私も残る」


 そう言って馬を走らせて行く。閻謬も頷き、部下と共に走り去った。


 李秀は山礼汎を連れて物影ものかげに移動する。鋼先たちもしたがった。


 一人の男が倒れている。鋼先が指さした。


「こいつは?」


せきりんとうよ。あたしと百威ひゃくいで倒したの。早くしゅうせいして」


 鋼先はうなずいて、二人から地捷星ちしょうせいそくせいを収星する。しかし、鋼先の表情はけわしかった。


「何か心配なの、鋼先?」


 へいかくが訊ねる。


「ああ。たとえ収星しても、こいつらは鉄車輪の仕事を続けるだろうと思ってな。赤輪は人員補充じんいんほじゅうのための班、つぶすためには、こいつらを殺すべきなのかな」


 それを聞いて、山礼汎が笑う。


「閻謬の言う通りだな。お前らに人は殺せまい。こしけどもめ」


 らいせんが、いきり立って言う。


「それが普通じゃないか。お前たちが人殺しだからって、真似などしない。本当は今すぐ帰って寝たいんだ」


 すると、鋼先がぽんと手を打った。


「そうか、兄貴、良いことを言った。おい山礼汎、お前たち、出身はどこだ」


「急に何を。……俺も孔緒こうしょも、なんの出身だ。もうずっと帰っていないが」


 鋼先はにやりと笑い、萍鶴に耳打ちする。萍鶴は頷いて、山礼汎の服をめくって飛墨ひぼくを打った。腹に「ぼうきょう」と文字が現れる。山礼汎は急に大粒の涙を流し、孔緒をすり起こした。


「孔緒、河南に帰ろう。今すぐ。馬を出すんだ」


 目を覚まし不思議がっている孔緒にも、萍鶴は飛墨を打つ。二人は手を取って泣き、馬小屋に向かって走って行った。


 それを見送りながら、鋼先が胸をで下ろす。


「うまく行ったな。今日はたくさん収星できたが、さすがに疲れた。魯乗ろじょうも心配だし、宿へ戻ろう」


 そう言って歩き出したとき、突然、一人の若い兵士が現れた。


「お、おい!」


 鋼先が顔をしかめる。


「しまった、見られたか。逃げるぞ」


 一同が身をひるがえしたとき、兵士が叫んだ。


「その筆はえいだな。やっと見付けたぞ。俺だよ」


「えっ?」


 輝影の名が出て、鋼先たちは驚いて立ち止まった。


 兵士は、萍鶴をじっと見て言う。


「ああ、あれから少し痩せたようだな。無理もない」


「え……、私?」


 萍鶴が、周りを見回しながら、心細く言う。鋼先が、雷先と李秀を手で制しながら頷いた。


「ああ、そうらしい。まあ落ち着くんだ」そう言って、兵士に声を掛ける。


「なあ、俺たちは、竜虎山りゅうこざんから旅をしている道士だ。あんたはどこから来たんだ?」


会稽かいけいから来た。そのむすめさがしてな。墨を飛ばす芸人の噂や、お尋ね者の人相書きから、この街にいると確信していたんだ」


「そうだったのか。実は彼女は事情があって、記憶を失っている。もし何か知っているなら、ゆっくり聞かせてくれないか」


「なに、忘れているのか?」


 兵士は、黙ってひとすじの涙を流し、頷いた。




 ◇




 兵士を連れて宿に戻ると、魯乗が回復し、いつもの姿に戻っていた。皆は兵士を囲むように座ったが、彼は手を広げて制する。


「話すのは構わない。だが、本当にいいのか。特に、彼女は」


 兵士は萍鶴を見ていた。見られて、萍鶴は目を伏せる。兵士は、悲しい顔になった。


「記憶を失った、と言ったな。俺にはその理由が分かる。だから君だけは、聞かないほうがいい」


 しかし萍鶴は、首を振る。


「……いえ、聞くわ。私は輝影を捨てられなかった。それは、私に起きたことを、いつかは受け入れる必要があるからだと思うの」


「そうか」


 兵士は頷き、


「では話そう。その前に断っておく。あの事件は、すべて終わっている。お前が思い出しても、もう危険はない。だから大丈夫だ」


「はい」


 萍鶴が無表情に答える。兵士は、また涙を流した。


「本当に、お前は変わってしまったんだね。……いや、すまない。では話すよ。長くなる」


 しかしそのとき、兵士の身体が強く輝いて、一人のじんしょうが抜け出てきた。


 収星陣しゅうせいじんは、あっと声を上げる。


 兵士が、驚いて言った。


「どうした、天捷星てんしょうせい。なぜ出てきた」


 天捷星は兵士にほほ笑みかけた後、沈痛ちんつうなまなざしで鋼先を見、


てんかいせいの兄者、お久しぶりです。事情は後で説明しますので、まずは彼の話を聞いてください」


 と礼をする。


 鋼先が頷いて言った。


「俺たちは、彼女の所持品から、会稽のおうの一族だと見当をつけていた。外見から連想しておうへいかくかりに呼んでいたんだが」


 兵士は、感心した顔をして


「当たっている。確かに彼女は王羲之の子孫で、本名はおうかくせつというんだ」


 今度は収星陣がおお、と声を上げた。李秀と魯乗が、顔を寄せ合ってほほ笑む。


「やっぱりつるなんだね」


「負けた。鶴雪の方がつやっぽいのう」


「おい、ちゃんと聞け」


 雷先がたしなめたので、二人は姿勢を正す。


 そして兵士の話が始まった。

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