目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第四十三回 宝筆奇譚




 てんぽう十四さい(七五五)一月五日、かいけい


 うっすらと雪が降り続く中で、事件が起こった。


 しょどうおうふうれいの家に、盗賊とうぞくが入ったのである。


「何者だ! くそっ、待て!」


 長男のおうちょくせいが、その影を見つけて懸命に追う。しかし、賊は身軽に跳び、家の外塀の上を伝って走った。


 直勢も負けじと追い、もう少しで手が届きそうになったが、賊が振り向きざま、手にしていた(ボウガン)を放った。


「うっ、うわっ」


 直勢はかみひとで矢をかわしたが、身を反らした拍子に塀を踏み外して転落する。慌てて起きたが、もう賊の影は無い。


 ちょくせいは走って父の部屋に向かい、うな垂れて告げる。


「も、申し訳ありません、逃げられました」


「おお、なんと」王風礼もがくりとうな垂れ、ため息をついた。


「……まずいことになるぞ。直勢、急いでさがせ」


 直勢は、青白い顔の父を見て、災いの大きさをさとる。


「分かりました。すぐしゅったつします」


 王風礼は、弱々しくうなずいた。


「くれぐれも内密ないみつにな。人数は連れていくな、かくせつだけにしろ」


「はい」


 直勢は礼をする。そして細かい指示を聞いて下がった。


 顔を洗い、茶を一杯飲んで気を落ち着けると、使用人を呼んで妹のおうかくせつを起こさせた。ややしばらくして、眠い目をこすりながら、鶴雪が現れる。


「どうしたのにいさま、騒々しい」


 直勢は、袋に服や地図を詰めながら言った。


「盗賊が入ったのに、起きなかったのはお前だけだぞ。早く準備しろ」


「準備? 何の?」


ほうの筆、『えい』が盗まれた。俺とお前で探し出し、取り戻すんだ」


 鶴雪は驚いて大声を上げる。


「そんな家宝、うちにあったの? 何でわたしも行くの?」


「父上がそう言ったんだ。輝影については、行きながら俺から教えてやる」


 出発しようとする二人に、王風礼が声をかけに来た。


ぞくは剣と弩を使う。気を付けろ」


 王風礼は顔が土気色になり、ふらふらしていた。直勢がしんがって訊く。


「父上、まさか?」


 すると王風礼は、胸元むなもとを開いて見せる。こつの下に、一筋ひとすじかたなきずがあった。


「輝影は奪われたが、文書の方は守った。しかし、そのときに一太刀ひとたち食らってしまった」


 鶴雪が、驚いて父に駆け寄る。


「いけない、すぐにお医者を」


 しかし王風礼は手を振って、


「医者は、妻が呼びに行った。お前たちは行け。噂が広まる前に、輝影を取り戻せ」


 王風礼に押し出されて、兄妹は外へ出た。鶴雪はおろおろしていたが、直勢は振り向きもせず、ずんずんと雪の降る道を進んでいく。


 兄の確信に満ちた足取りを見て、鶴雪は訊ねた。


「兄様、どこへ行くの」


 直勢は、鋭い眼光を前に向けたまま答える。


師父しふの家だ。いろいろ考えたが、最も可能性が高い」


 王兄妹には、武芸を習った師がいた。その師が対象と聞いて、鶴雪は驚く。


燕温えんおん師父が、関係あるの?」


「慌てるな。聞け、歩きながら話してやろう、輝影のことを」


 直勢は、周囲に漏れぬよう重い声で、家伝の話を始めた。




――王家家宝の筆・輝影は、おう本人の品だった。本体は水牛すいぎゅうつのさきおおかみの毛でできた、ごく普通の筆である。


 王羲之は信心深いことで有名で、竜虎山りゅうこざん張天師ちょうてんしともこんだった。(ちょうこうではなくずっと先代の天師である)


 ある日、王羲之は竜虎山を訪れてさんしたが、そのときに自分の筆を川に落としてしまった。すると、張天師が一本の筆を差し出し、


「よろしかったら、お使いください。私が護符ごふを書くときに使っていましたが、なかなか良いものです。あなたほどのだいしょに使って頂ければ光栄です」


 王羲之がその筆を見ると、『輝影』とめいが刻まれており、見た目は地味であるが、確かに逸品いっぴんであった。王羲之はありがたく受け取り、それ以来愛用した。


 その後何事もなく年月が過ぎ、神龍元年しんりゅうがんねん(七〇五)。


 会稽の王家に、訪問者が来た。


 その者は軍装ぐんそうまとっており、胸の護心鏡ごしんきょうには「ぶんせい」と文字が刻まれていた。彼は王羲之のしょに興味を持ち、見に来たのだという。


 王風礼の父・おうてんは、彼をもてなして王羲之の作品を見せた。作品を見るうちに、彼は輝影の筆を目に留め、たいそう気に入り、こう言った。


「私がもう少しこちらの世界で遊んだ後、この筆の中に落ち着くとしよう。そのとき、この筆は奇跡的な力を持つことになる。それをはっするのが楽しみだ」


 五十年経ったらまた来る、といって彼は去った。


 王展は、不思議な話だと思い、その出来事を文書に記した上で、輝影をよりていちょうに保管した。――




「二年前、家族で竜虎山を訪れたろう。あれは、張天師様に筆を見せ、真偽を確かめるためだった。結局その通りだと分かり、それ以来、みだりに人には知らせないようにと隠してきた。それが昨夜、盗まれてしまった」


 直勢がそう言うと、しかし鶴雪は納得がいかず、首をひねる。


「でも、たかが筆でしょ。奇跡だなんておおじゃない?」


「俺もそう思った。だが、筆を持った者の思ったことが、何でもかなうようになるらしい。本当にそうなら、危険だ。殺してでも奪い取るような奴が盗んだんだからな」


 直勢の眼光は、やじりのように鋭くなっていた。


「うっ。そ、そうだね。早く見つけないと」


 鶴雪は、そう言って少し、ぶるいする。




 歩くうちに夜が明け、やがて昼になった。雪はやみ、晴れ間が広がっている。


 不意に、兄妹の前に人影が現れた。ずいぶんよろけている。直勢は注意深く見て、あっと声を上げた。


「燕温師父ではありませんか」


「師父、ひどい怪我けが!」


 燕温は、顔や手足から大量に血を流していた。しかし二人の顔を見ると、すぐにひざまずいてびる。


「直勢、すまない。輝影を盗んだのは、うんぐうだ。あのとき呼んだのが間違いだった」


「あの若いのか。やはりな」


 直勢は歯噛はがみした。鶴雪は訳が分からず、おろおろしている。直勢が、妹の肩に手を置いた。


「昨年の暮れに、俺の誕生日があったろう。あの日、燕温師父を迎えに来た男。憶えているか」


 そう言われて、鶴雪は記憶を呼び起こす。


「ああ、一番新しい、住み込みのお弟子さんね」


 王直勢は十二月三〇日に、二十歳の誕生日を迎えた。


 燕温は王風礼と古くからの馴染みで、直勢には剣を、鶴雪には刀を教えていた縁もあり、祝いに来たのである。


 燕温は、力無く頷きながら話をつないだ。


「わしはあの日、祝い酒が度を超し、寝入ってしまった」


「それでお宅に伝えたところ、雲維寓が師父を引き取りにやって来ましたね。つまり、そのとき」


「そうだ、直勢。――王風礼は、息子が二十歳になったら大事なことを話すと言っていたが」


「はい。あの日、筆の話を聞きました」


「うむ。それを、雲維寓が聞いてしまったらしい」


 鶴雪は、ようやく合点が行って、兄を見た。直勢は、燕温に問う。


「俺はあいつを良く知りませんが、どんな奴なのですか」


「剣の腕は悪くないのだが、最近こうの悪い連中と会うようになっていた。それを注意し、親元おやもとに知らせると言ってたしなめたのだが、それを根に持っていたのだろう」


「師父の傷は、まさか」


 鶴雪がはっとすると、燕温は、己の身をさすりながら頷く。


「そうだ、奴にやられた。挙動きょどうがおかしいので問い詰めたら、筆を盗んだと白状した。しかし返せと言ったたん、急に暴れだしたのだ」


 師の声が弱々しくなってきたので、鶴雪はそこでさえぎり、


「兄様、お話はやめて、師父をお医者へ」


 直勢も頷き、鶴雪と共に燕温を抱えて医師の家に連れて行った。




 王兄妹は医師に燕温を任せると、雲維寓が良く行くという酒場に向かった。


 二人が着くと、すでに一騒動ひとそうどうあったらしく、人だかりができている。


「おい、あの酒場で何かあったのか」


 野次馬の一人に直勢が訊ねると、


うんっていう若い剣客けんかくが、別の剣客たちと斬り合いをしたらしい」


「なんだって」


 王兄妹が人を割って入ると、酒場の入口で、雲維寓が血まみれで倒れている。直勢が抱え起こし、小さな声で訊いた。


「雲維寓、筆を返せ。返せば、医者へ連れて行ってやる」


 しかし、雲維寓は力無く首を振った。


「筆は……もう、ここには無い。あいつらに、奪われ、た」


「誰だ。誰に取られた?」


田載でんさいと、へいあん……ほかにも、何人か、いた」


「しゃべったのか、筆の秘密を」


「あいつら、俺が、すごい筆の話を聞いたって言ったら、それを盗み出せれば一人前だなんてあおりやがった。結局、筆は取られて、こんな目に、っちま、ってよ」


 雲維寓は、悔し涙を流し、目を閉じた。


 直勢は静かに彼を降ろすと、ひとみをかき分けて進んでいく。鶴雪も、雲維寓に目をやりながら兄の後を追った。


 街道に出ると、直勢は走り始めた。鶴雪も走りながら、兄に訊ねる。


「兄様、これからどうするの?」


 直勢は、前を見たまま答える。


「田載の名は聞いたことがある。荷物のそう要人ようじんの警備を稼業かぎょうにしている、剣客だ。ああいう奴らは、腕を上げて有名になることにしゅうしんする。輝影の秘術には、興味を持つだろうな」


「でも、わ、悪い人じゃないよね?」


「甘く考えるな、鶴雪。仲間の雲維寓をあっさり殺したんだぞ。善人のわけがない」


 直勢は、鋭くたしなめた。鶴雪は逃げ腰になっていた己を恥じ、その高い身長をすくめる。




 王兄妹は田載の行方を追って尋ね歩いたが、知る者がなく、どうしても探し出せない。仕方ないのでその日は旅籠はたごに泊まり、体を休めた。


 翌日になり、またも聞き込みを続けたが、やはり手掛かりは得られない。


 鶴雪が、途方に暮れて言った。


「きりがないわ。もう、どうやって見つけたらいいの?」


 直勢は目を閉じ、歯ぎしりをして言う。


「……ひとつだけ方法がある。輝影の噂を、もっと広めるんだ。剣客たちが集まってくる。そうすれば、田載は狙われて見つけやすくなるだろう」


 鶴雪は、兄の進言に驚いて首を振る。


「そ、そんなのやめて。危ないわ」


 しかし、直勢の瞳に、またも鋭い光が宿る。


「放って置いても同じだ。だったら、いっそのこと早める」


「兄様、でも、一回帰ろう。父様に相談してからにして」


 鶴雪は必死に懇願こんがんした。直勢は、妹の不安げな顔を見て、ふと我に返る。


「分かった。緊張が続いて、俺も疲れているようだ。少し休まないといけないな」


 直勢は頷き、二人は馬車を頼んで乗り、家へと急ぐ。




 しかし、帰ってみると、安息どころではなかった。


 家の中が、ひどく荒らされていた。


 そして、応接間の中央で、血塗れになって横たわっている、二つの遺体。


 王風礼と、妻の施蕗しろであった。


「父様! 母様!」


 鶴雪は取り乱して泣き、気を失う。直勢は妹を寝室に運ぶと、両親の遺体を別の部屋に移した。そうしたところで、激しい悔しさがこみ上げて来る。


「畜生! どうしてこんなことを!」


 直勢は、床をみならして泣いた。


 その時、


「失礼、直勢と鶴雪は、ご在宅ですか」


 誰かが屋敷の戸を叩く。


 直勢は剣を構え、戸を開けた。しかし、相手の顔を見て、ほっとあんする。


ばいえいか、入ってくれ。大変なことになった」


「どうした? 何事だ、直勢」


 直勢と同じ年頃の若者が、いぶかしみながら入ってきた。


 直勢は、古くからの友人である梅叡に、事件のあらましを説明する。


 梅叡はおうさいの死に驚き、偵察のように窓の外を見て、訊いた。


「直勢、ご両親はなぜ殺されたのだ?」


 直勢は、そう言われて部屋の中を歩き、考えを巡らす。そして、書類棚を調べた。


「……分かった。犯人は田載か、その繋がりの者だろう。輝影の秘術を発現はつげんさせる方法を聞きに来たんだ。先祖がそれを記した文書があったのだが、それが消えている」


「それを奪った上で、殺害したのか。ひどい奴だな」


 梅叡がいきり立つと、直勢はじっと目を閉じ、やがて言った。


「梅叡、共に燕温師父に学んだ仲間として、手を貸してくれないか」




 直勢は両親のそうを準備することにし、梅叡が代わりに調査を進めた。王風礼は書道家として名が知られていたので、直勢と鶴雪は、その葬儀を行うということを人々に伝えつつ、街を回った。


 そして何日かするうちに、だんだんと街中に剣客らしい風体ふうていの者が増えてくるのを感じる。


 そんな連中に、直勢は聞いてみた。


「田載か? あいつなら、今は白酉村はくゆうそんに住んでると聞いたな」


 王兄妹は、それを聞いて頷き合う。白酉村は近いので、すぐにそこへ向かった。


 日が暮れ始めると同時に、雪がまた降り始める。


 村にたどり着いてみると、何やらごう剣撃けんげきが響き、騒動が起きている。


「剣客が集まっているらしい。行ってみよう」


 王兄妹は、顔を隠しながら村の奥へ入って行く。


 一人の男が、武器を持った剣客たちに追い立てられていた。


 剣客の一人が叫ぶ。


「この人数を相手に勝てるつもりか。筆を渡せ!」


 男は細長い箱を守りながら、折れた剣で戦っていた。


「ようやく田載から取り戻したんだ、誰にも渡さん!」


 声を聞いて、直勢が気付く。


「あれは梅叡だ。助けるぞ」


「は、はい!」


 王兄妹は駆け寄り、武器を取って剣客たちを斬り伏せた。


 剣客たちは、相手が誰だか分からないものの、敵が増えたので動揺する。


「おい、ここは手を組んで、先にあの三人を始末しよう」


 一人がそう言ったが、


「何だよ、勝手に仕切るな。筆を奪って逃げようとしてるのは、みんな一緒だぜ」


 と逆らう者が出たので、剣客たちの間でもどうちが始まった。


「今だ。鶴雪、梅叡、斬りながら逃げるぞ」


 直勢が号令し、三人は混戦の中、血路を切り開きながら走る。剣客たちも、それぞれが欲望を剥きだしにして、方々で衝突していた。時間と共に、だいに剣客の数は減っていく。


 やがて、残すところ四人となった。しかし、この四人は元から仲間同士で、結束が強かった。彼らは近付いて斬りかかっては逃げ、交代して次の者が斬りかかりまた逃げるという、消耗戦法を使い出した。


「も、もう疲れて……立って、られない」


 鶴雪が片膝を付いてうなだれる。梅叡が、彼女をかばって前に立った。四人の剣客は、距離を取った位置から、あざ笑って挑発する。


「そろそろ限界だろう。筆を渡して、どこにでも行けばいい。命までは取らねえよ」


 直勢が首を振る。


「黙れ、信じられるものか!」


 その時、突然現れた人影が、疾風しっぷうのように剣を振るった。


 一、二、三、四。


 四人の剣客が順々に、声も無く倒れる。


 鶴雪が、その人影を見て叫んだ。


「え、燕温師父!」


 あちこちに包帯を巻いた老剣士ろうけんしは、ほほ笑みながらこたえる。


「間に合って良かった。怪我はないか」


 鶴雪は燕温に駆け寄る。彼は、やさしく弟子の頭を撫でた。


「ご両親は、残念だったな。気をしっかり持てよ」


 鶴雪はたまらず、涙を流す。


「師父こそ、そんな身体でご無理を。早く帰りましょう」


 鶴雪がそう言ったとき、


「待って下さい、師父」


 燕温の背中に、直勢が声をかけた。


「輝影は、きのとひつじ年内ねんない、会稽の広い場所を選んでほうと化すそうです。盗み出された後に、父から聞きました。ここは、白酉村の共同墓地きょうどうぼち、広さは充分あります。――うまく誘導ゆうどうされたのでしょうか?」


「な、何を言っている、直勢」


 燕温が驚く。直勢は、梅叡から箱をひったくって言った。


「両親を殺したのは、あなたか、それとも梅叡だったのか、と言っているのです」


「そんな、兄様」


 鶴雪が首を振った。


「直勢、そんな。俺まで疑うのか」


 梅叡が、後ずさりしながら、すがるように見る。直勢は目を伏せた。そして言う。


「いや、どっちでもいいんだ。輝影がここにある。そして、持っているのは俺だ」


「な、何を言っている?」


 燕温がそう言ったとき、突然、天に、光が現れた。それは周囲を覆う雪に反射し、昼間以上の明るさとなる。


 そして光は、落雷のように輝影の箱に落ちた。


「おおっ!」


 皆が見守る中で、輝影は箱を破り、光芒こうぼうを放ちながらちゅうに立つ。


 直勢が、手を伸ばした。


「父から輝影をいだのは俺だ。誰も触れるな。俺は輝影の力で真実を暴き、両親のかたきを討つ」


「兄様、やめて!」


 鶴雪が叫んだとき、


「うぐっ、ぐああっ!」


 突然、梅叡が、血を吐いて倒れた。背中に、太い矢が突き立っている。


「どうした、梅叡。うっ」


 声をかけた燕温も倒れた。やはり、背を射られている。


 鶴雪は、兄を見た。


「ど、どういうこと? これが輝影の力なの……?」


「わ、わからない……」


 直勢も、青ざめた顔で首を振る。そして、二人で周囲を見渡す。


「あっ!」


 兄妹は、同時に気付いた。やや遠くに、(ボウガン)を構えた若者が、酷薄こくはくな笑いでこちらを見ている。


 鶴雪は、心臓がつかまれたように驚いた。


「あなたは……うんぐう! 生きていたのね」


「きさま、梅叡だけでなく、師父を、しかも二度も手にかけるとは! そうまでして輝影が欲しいか、きょうしゅめ!」


 直勢が、歯も砕けんばかりに食い縛って剣を向ける。


 雲維寓は、おどけた笑みで、手にしていた弩を振った。


「あの場では、死んだふりをした方が得策だったからな。おい王兄妹、殺されたくなかったら筆を寄こせ。さっきの光で、秘術は発現したんだろ?」


 察しの良さを不審に思い、直勢は訊く。


「……そうか、俺たちの両親も、お前が?」


 雲維寓は、ばれたか、と鼻で笑った。


「ああ。筆を返しに来ました、って訪ねたら、あっさり中に入れてくれた。だから斬り捨てて、文書を探し奪ったのさ。後は筆を手に入れるだけだ」


「酷い、許さない!」


 鶴雪が、刀を振り上げた。しかし、直勢が制して言う。


「下がっていろ。俺が輝影で倒す」


 そして光りながら浮かんでいる筆に手を伸ばしたが、


「させるか」


 雲維寓が鋭く矢を射込んで来た。直勢は驚いて手を引いたが、思わず笑みが漏れる。


かつだな。矢を装填そうてんする間に斬ってやる」


 そう言って剣を構え、駈け出した。しかし、雲維寓は笑って頷く。


「ああ。だからなんちょうもある」


 そう言って、足下から素早く別の弩を取り出し、射た。


「なにっ」


 直勢が、慌てて身を屈める。流れ矢が、鶴雪に迫った。


「ああっ!」


 矢は鶴雪の左肩をかすめる。痛みにうずくまる彼女に、直勢が駈け戻った。


「大丈夫か」


 鶴雪は、兄を見て首を振る。


「兄様、あんな筆、壊してしまいましょう。兄様まで狂ってしまったら、もうお終いよ」


 急に言われて、直勢はうろたえた。


「い、いや、あれは俺の……」


 淀んだ兄の目を、鶴雪ははっきりと見た。向こうにいる雲維寓と同じ、飢えた狼のように血走った色。


 鶴雪は立ち上がり、兄をにらむ。


「誰のでもない。在ることすら許せないわ! 何が家宝よ!」


 そう言って、輝影に手を伸ばす。雲維寓が、急いで新しい弩を取る。少し大型で、三連射式のものだ。


「壊されちゃ困るな。よし、お前から死ね」


 雲維寓は矢を射た。三本の矢が、横一列に鶴雪を襲う。


「危ない!」


 とっに、直勢は両手を広げて妹の前に出た。大きな胸板で二本、右肩で一本、矢を受け止める。三本とも、ほとんど貫通した。


「兄様!」


 すがろうとした妹を、直勢は振り返って制する。


「逃げろ、鶴雪。殺されるぞ」


 そのまま、直勢は倒れた。流れる血はおびただしく、全身が痙攣けいれんしている。


 雲維寓が、小型の弩を取って近寄って来た。


「さて、のっぽ娘。お前も死ね」


「あなたこそ!」


 叫んだ鶴雪は、逃げずに踏み込んで、刀で突く。驚いた雲維寓は弩を振り回し、危なくこれを跳ね返した。


 刀を飛ばされ、宙を泳ぐ鶴雪の手に、輝影が触れる。


 バチッと、強い火花が走った。鶴雪は、苦痛と共に柄を握る。


「ああ! こんなもの!」


 鶴雪は、輝影を思い切り地面に叩きつけた。


「おい、よせ!」


 雲維寓は焦る。


 しかし、輝影はくだけなかった。そこには深いくぼみがあり、水音を立てて、穂先が潜ったのだ。雪と、剣客たちの流した血が混ざった水溜りに。


 雲維寓が、笑いながらせまり来た。


「驚かせやがって。せっかくの家宝が、汚れたな」


「いや、来ないで!」


 鶴雪は、筆を振った。


 血のしずく数滴すうてき、雲維寓に飛ぶ。兇手はちょっと顔をしかめて、自分に付いた血を見た。


「よせよ、汚いな。……何だこれ、飛んだ血が文字になってるな」


「あ、ああ、そんな」


 鶴雪は、その現象を見ながら、がくがくと震える。


「『ざん』……? おいおい、秘術ってのは、文字が出せる曲芸のことかよ! 骨折り損だぜ、こんなくだらべばわっ」


 言い途中で、雲維寓は身体を三つに切断されて、くずれ落ちた。


「い、いやあああああああああーっ!」


 鶴雪は大声で叫んだが、答える者はいない。




 やがて鶴雪は、しかばねと血でおおい尽くされた雪の地を、ふらふらと歩き出す。


 筆は、血によって掌中にこびり付き、離れようとしない。


 歩き続けて、やがて力が抜け、鶴雪はひざまずく。


「……どうして。


 なぜ、私なの?


 ひどい! 


 ひどいよ!」


 鶴雪はそうぜっきょうすると、枯れ草のように倒れて、気を失った。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?