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第四十四回 たとえばこんな空の翔び方




 話はそこで区切られ、話し手の兵士は茶を一気に飲み干した。収星陣しゅうせいじんは、互いに顔を見合わせる。ただ萍鶴へいかくだけは、目を伏せていた。


 彼女をちらりと見てから、こうせんが言った。


「なるほどな。えい竜虎山由来りゅうこざんゆらいのものだとは知らなかった。とにかくよく分かったよ、ありがとう」


 兵士は軽く礼をし、


凄惨せいさんな事件だった。記憶を失ってしまったのはもっともだ。気分をがいしたら、すまない」


 と萍鶴を見る。


 萍鶴が、ようやく彼を見た。


「お話は、本当のようね。でもごめんなさい、やっぱり思い出せない。他人の話にしか聞こえない」


 兵士は、うなずいて涙を流した。


「そうか。では、俺はこれで失礼するよ。もう会うこともあるまい。皆さん、彼女をよろしく」


 そう言って、兵士は部屋を出る。となりにいた天捷星てんしょうせいが立ち上がった。


「おい、待てよ!」


 彼らが出ていってしまったので、鋼先が慌てて立つ。


「みんなはここにいてくれ。それから、誰か見張りを頼む。鉄車輪てつしゃりんにかぎつけられたらまずい」


 そう言って外へ出た。


 鋼先が行くと、萍鶴が立ち、


「見張りは、私が」


 と出て行く。


「いや、俺が」


 らいせんが止めようとしたが、魯乗ろじょうが首を振った。


「良いじゃろ。一人にさせてやれ」




 宿の中庭なかにわで、兵士は天捷星に止められていた。鋼先が追い付き、声をかける。


「彼女の前では名乗れなかったんだな。教えてくれ、あんたは誰だ」


 しかし兵士はだまって首を振る。天捷星が、彼の肩をすった。


「お前の気持ちは分かる。だが、しまい込みすぎるのも苦しいぞ。この人には、全て話しておけ」


 すると兵士はようやく、自分のことを口にした。


「俺は、ばいえいだ。かくせつが輝影を手にして気絶した後、俺も気を失った。村人に助けられて目が覚めたときには、彼女は消えていた」


 鋼先が驚いて訊く。


「あんたが梅叡か。生きていたんだな。では、他の人は」


 すると梅叡は静かに首を振る。


ちょくせいえんおんも、間もなく命を落とした。彼女に記憶が無いなら、そのままの方がいい」


 だが、それを聞いた天捷星がとなえた。


「梅叡、俺は、鶴雪をさがそうとするお前のいちさに共感して、力を貸してきた。あのことを言え。わだかまりを残すな」


 二人のやりとりを見て、鋼先が訊く。


「まだ、何かあるのか」


 天捷星が、ため息混じりに言った。


「はい。梅叡は、鶴雪のこんやくしゃだったのです」


「そうだったのか」


 鋼先は、はっとして梅叡を見た。


「じゃあ、あんたが一番つらいんじゃないか。なあ梅叡、本当はどうしたいんだ」


「梅叡、俺はお前の中にいて、お前の気持ちを知っている。お前が言わなければ、俺から言うぞ」


 すると梅叡は、迷いを絶つように首を振って、


「わかった、天捷星。見栄みえは捨てよう。……本当は、鶴雪の記憶を取り戻し、会稽かいけいに連れて帰りたい。俺は身体を休めた後、彼女を捜す旅に出た。やがて、山東さんとうりょうざんで墨を飛ばす芸人げいにんがいると聞いて、こっちへ向かった。その途上とじょうの酒場で天捷星と出会い、飲みがてら経緯けいいを話したら、力を貸してくれることになった。傷がえていない身で旅をするのは大変だったから、とても助かった」


 天捷星が頷いて補足する。


「話を聞いて、輝影の力はぶんせいのものだと思ったからです。俺が梅叡にいても大した力は出ませんでしたが、ようじょうくらいにはなりました」


「そして山東に着いたとき、あの人相書きを見たんだ。名前はともかく、顔は確かに鶴雪に間違いないと思い、この街の兵士を志願した。警備や見回りをさせてもらえば、鶴雪を探せるだろうと思ったからだ。すぐに山礼汎さんれいはんだんれん使に会い、兵舎へいしゃに入れてもらうことになった」


「しかし不気味だったな、あのだんれん使たち。彼らには地捷星ちしょうせい地速星ちそくせいが憑いていたが、完全に人間側にんげんがわに操られている感じだった。それに、待遇がやけに良くて、まずは体を休めろと言って、良い部屋と随分な金までくれた。おかげで見回りもできていなかったが」


 天捷星が首をひねったので、鋼先が、鉄車輪と魔星のことをざっと説明する。天捷星は、ははん、と得心とくしんして


「そうか、団練使は俺を引き出して、上の奴にけんじょうするつもりだったんだな。危ないところだった」


 梅叡もぶるいして、


「あんたたちも、大変なんだな。会稽のとき以上に、やっかいなことになっているじゃないか。やはり輝影の力は、彼女を翻弄ほんろうしているのか」


 と悔しげに言う。


 しかし鋼先は、優しい目で告げた。


「それは違う。梅叡、俺たちの仲間になったおうへいかくは、冷静で、的確てきかくに輝影を使いこなしている。俺たちは、彼女に強い信頼を置いているよ」


「う……」


 梅叡はうなった。鋼先がさらに言う。


「だが、しゅうせいの旅は確かに危険だ。もしも彼女に変化が起きて、だつすることになったら、きちんと会稽へ帰す。だからそれまでは、彼女の思うとおりにさせてやってくれないか」


 梅叡は目の覚めた顔になり、きょうしゅして言った。


「わかった、君に任せよう、こうせん。俺は会稽へ帰る。よろしく頼むよ、鶴雪を――いや、王萍鶴を」


 すると天捷星は二人を見て、


「梅叡の気が済んだなら、それでいい。しかしてんかいせいの兄者、会稽は遠い。俺が付いて行ってはいけませんか。梅叡を送り届けたら、その足で竜虎山へおもむきますので」


 鋼先はほほ笑んで頷く。


「ああ、それがいい。今は鉄車輪も混乱している。急いで梁山を出ろ」


 梅叡と天捷星は、鋼先にきちんと礼をすると、夜明けの近い空の下を走って行った。




 ◇




 梅叡と天捷星が宿の門を出たたん、萍鶴がいた。


 梅叡は何も言わずに通り過ぎる。


 天捷星は、いたたまれなくなり、立ち止まって萍鶴に訊いた。


「なあ。やっぱり、思い出せないか?」


「二人で、帰るのね。気をつけて」


 萍鶴は答えずにそう言った。天捷星はため息をつき、手を振って歩き出す。


「……結局、兄様にいさまも輝影に魅入みいられていたわ。


 天捷星、梅叡様に伝えて。


 私はすべてを忘れることへ逃げてしまったけど、あなたが私を忘れずにいてくれたから、いま、全てが戻ったわ。


 でももう、自分の生き方は、変えてしまった。先へ進むしかないの。


 今の私は、この結末に満足している。


――梅叡様、ありがとう。あなたがどんな気持ちか、私には分かる。


 どうかお元気で。さようなら」


 萍鶴が、小さい声でつぶやいた。天捷星は驚いて振り向いたが、言い終えた彼女は、駆け足で宿に戻ってしまう。


「お、おい、梅叡!」


 天捷星は梅叡に追いつき、押し止めて言った。


「彼女、思い出してるぞ。お前の気持ちが分かる、と言っていた。急いで追うんだ」


 梅叡ははっとしたが、すぐに顔を伏せて首を振った。


「そうだ、鶴雪は、子供の頃から一緒だった。俺がこういうときどうするか、全部知っている。俺も逆に、彼女の考えていることが分かる」


「どういう意味だ」


「彼女は過去を捨て、王萍鶴として生きていく、ということだ」


「それで、お前は?」


「記憶が戻っても戻らなくても、彼女には新しい居場所ができた。それが分かって俺は安心した。会稽へ帰るよ」


 梅叡の寂しいほほ笑みを見て、天捷星は何度も宿に目をやる。梅叡は静かに歩き出した。


「梅叡、なあ、お前」


「ありがとう、天捷星。でも、もう振り向くな」




 ◇




 話は少しさかのぼる。


 ぼくで『ぼうきょう』と書かれた山礼汎と孔緒は、夜にもかかわらず馬をってひたすら西へ進んでいた。


 そしてじょうかくせきしょにさしかかって止まる。夜間は自由に城外に出ることが許されない。


「ふん。任務も放棄してここまで来たのだ、門番を倒して出てやるまでよ」


 山礼汎たちは、関所を襲撃しようと宿直部屋の戸を開ける。


 だが、そこにいたのは、彼らの同僚の女性だった。


くにに帰ると叫んでいたから、関所に来ると思っていたわ」


「しゅ、祝月下しゅくげっか? うわあああっ!」


 無様に戸惑う二人に、祝月下は苦笑する。


「別に責めはしないわ。戻って来てくれればね」


 そう言って、鋭い前蹴りが飛び、中年軍人二名は鳩尾みぞおちを蹴られて気絶した。


 祝月下は二人を縛り、腹の飛墨をぬぐい取ると、あらかじめ用意していた荷台に乗せて馬と繋ぎ、自分は御者となって出発した。


 祝月下が言う。


きゅうがいは、魔星を失っても忠誠は変わらなかったわ。この二人もそうだといいのだけど」


「そうでなければ、殺す、か」


 答える声がした。祝月下は苦笑する。


「でも、これまでと同じ仕事をしてもらえればいいだけだから、うまく説得できると思う。単純で臆病なおじさんだもの」


「そう、かもな」


 笑いはしなかったが、ブルンと鼻息を荒く出した。


「それよりしょうすい、急いで。えんびゅうが無理をしたら危ないから」


「うむ。あいつの、匂いは、こっちだ。飛ばすぞ」


 そう言って、せいりんとう――しゃべる馬の翔騅は、一気に加速する。縛られた二人が荷物と共に跳ねた。




 しばらく走ると、閻謬と黒輪員がいた。祝月下に気付いて閻謬が言う。


「皆で固まっていると、また魯乗の幻術にやられる。しゅくあねは、向こうへ行った天捷星を確保してくれ。山礼汎の配下にいた奴だ」


「わかったわ。気を付けて戦いましょう、お互いに」


 翔騅は、馬車を大きく左へ迂回させながら疾走する。


「ははは、天捷星! 鉄車輪から逃げられると思うなよ!」


「そうだそうだ! 祝月下の追跡力を思い知れ!」


 赤輪の二人が、荷台で縛られたまま、陽気な声を上げた。翔騅が苦笑したように言う。


「説得、不要だな、良し」


「そうね。なんでか、私に頼るつもりらしいけど」


 祝月下は、明らかに苦笑した。




 ◇




 そして、梅叡の話の後に戻る。


 宿に戻りかけた萍鶴だったが、妙な音に気がついて立ち止まった。


「……何か来る。馬車、かしら」


 そのとき、百威ひゃくいが矢のように彼女の横をかすめて飛んだ。すれ違う瞬間に、視線が交わる。


(敵だ。お前は戻れ)


 そう言っているように、萍鶴は感じた。つらい話の後である自分を、百威は気遣ってくれている。


「いえ、行くわ。だって、その方角は」


 梅叡たちを狙っている。萍鶴は、腰に下げた墨壺に触れ、液量を確認しながら駆け出した。


(そうか。お前と組むのもいっきょうだな)


 百威が、キーキィッと一声鳴いた。




 奇妙な馬車だった。御者はくせっ毛で青黒い衣装の女性、荷台には二人の軍人。ただし縛られている。


「仇凱が言っていた、青輪頭の祝月下、かしら。だとすれば、その黒い馬は……」


 馬車はピタリと停まり、妙な倍音を含む声が響いた。


「青輪次頭、翔騅。そこを、通る」


「魔星がいた馬ね。……百威、あなたは遠くから戦ってくれる?」


 萍鶴の愁眉しゅうびを見て、百威は答えもせず羽ばたいた。


 萍鶴は輝影を墨に浸し、どこへ打とうか見渡した。荷台にいる軍人は、よく見れば赤輪の二人である。


 その軍人たちが、嬉しそうに叫んだ。


「あっ王萍鶴、さっきはよくも! 祝月下、俺と孔緒はここから的確な指示を出す。だから楽勝だ!」


「総輪には、『赤輪の協力があって勝てた』と報告を願いますぞ!」


 祝月下は、青ざめた顔になって「はいはい」と応え、腰に付けた投げ縄を取り出して投げる。


 萍鶴は咄嗟に身を開いてかわしたが、縄は彼女ではなく、墨壺に絡みつき、奪い去っていった。


「いけない!」


 萍鶴は、打とうとした飛墨を留め、あと退ずさりする。しかし、祝月下は馬車を勢いよく突進させて来た。


 萍鶴は横に飛びながら、自分自身に飛墨を打つ。


 たちまち彼女の姿が消えた。


「むむっ王萍鶴どこへ? 青輪頭、ご用心を!」


「翔騅、匂いを追え! いく匕首あいくちを探した要領だ!」


 赤輪は、観客のようにわめいた。




 翔騅が、注意深く辺りを嗅ぎ回す。


 祝月下は馬車を降り、ゆっくり歩き出した。


「一刻(十五分)経ったら、無視して天捷星を追うわ」


「承知」


 翔騅は散策しながら、静かに匂いを嗅ぎ続ける。


 祝月下は、奪った墨壺を傾けて、ゆっくりと墨をこぼした。


 山礼汎らが、大いに感心して言う。


「おお、さすがは祝月下! 相手を焦らせるために、墨をッ!」


「それをおとりに生け捕るさくですな! いやはやこころにくい!」


 祝月下は「なにが指示よ。ただの実況じゃない」とつぶやきながら、じっと立ち続けた。


 しかし、萍鶴も百威も現れず、墨はすべてこぼれ尽きた。翔騅が祝月下を見て、見つからない、と首を振る。


「ぬう、どういうことだ!」


「さては奴ら、さっさと逃げたのでしょうか?」


 しばらく歩き回りながら探していた祝月下は、急に後方に引っ張られた。突如走ってきた翔騅が、彼女の襟元をくわえて引いたのだ。そしてそのまま空中で回転させられ、すとんと翔騅の鞍に乗る。


「翔騅、どうしたの」


 馬の首に抱きつきながら、祝月下が訊いた。


「狙われた。追い払ってくれ」


 そのとき、荷台から見ている赤輪が叫ぶ。


「翔騅の左に、百威がぴったり寄せて飛んできた!」


「しかも鳥の上に、とても小さい王萍鶴が筆を持って、そちらを狙っています!」


 祝月下は、「そうか」と頷き、投げ縄を構えた。「墨壺を奪われたのを利用して、こちらに優勢と思わせたのね。飛墨で小さくなって、鳥と共に奇襲するとは!」


 赤輪が、また叫んだ。


「走れ! 梅叡を人質に取ってけんせいしろ!」


「接近状態では飛墨が来ます。方角を変えなされ!」


 今度はさすがに助言めいている。祝月下は、しかしそうはせず、手綱を取って引っ張った。


「翔騅、停まって! 追い越させればいいわ!」


 その瞬間、百威は鋭く右へ旋回し、翔騅の額をかすめ飛んだ。小さな萍鶴は、かさず輝影を振って飛墨!


 黒い体毛に重なって、ごく小さく「こん」とあらわされた翔騅が、突然脚を止めてどうと倒れた。祝月下と赤輪の三人は、投げ出されて宙に舞う。


 ちょうどそのとき、朝日がきれいに差し込んできた。


 萍鶴は、百威の上から飛び降りながら、自分の頬に書いた「縮身」の文字を拭い取る。空中できりもみに回転しながら、みるみると元の大きさに戻りつつ、続けざまに飛墨を打った。


「うっ!」


 山礼汎たちは、短く呻きながら、動きを止められて地面に落ちる。そして翔騅からじゆうせいが抜け出し、南の方角へ飛び去って行った。


 しかし、祝月下だけは飛墨を躱し、宙返りして片膝突きに着地する。


 萍鶴はすぐに筆を振ったが、墨が枯れていて飛ばない。


 祝月下が、素早く投げ縄を放った。縄は筆に絡み付き、力強く引き寄せられる。


「いけない」


 輝影が他人に触れられると、飛墨の力は落ちてしまう。萍鶴は、前方の祝月下に向かって突進した。祝月下は右手で縄を引っ張りながら、左手にべんを構える。


「やっ!」


 しかし萍鶴は、その場で強く跳躍し、両脚を伸ばして祝月下に跳び蹴りを放った。彼女の長い脚が、祝月下の間合いを狂わせる。


「うっ」


 焦った祝月下の細い首を、萍鶴は両脚で挟んだ。そして、空中で自分の体を思い切り後方に反らせる。祝月下はその回転力に勝てず、挟まれたまま宙を舞う。


 ガン、と大きな音がして、祝月下は脳天を地面に叩き付けられた。萍鶴が脚を離すと、白目を剥いて祝月下は倒れる。


 萍鶴は立ち上がり、敵が全員こんとうしたのを確認した。百威がたたえるように一声鳴く。


 しかし、萍鶴は首を振った。


「まだよ。だって鉄車輪は、収星しても任務を果たそうとする。なんとか止めなければ。


……そう、今の私なら、強い飛墨を打てる。命を奪うことはしないけど、この人たちの記憶に『鍵』をかけるわ。文字が拭われても、力が消えないほどに」


 つらい過去を思い出した直後であった萍鶴は、自分の気持ちがたかぶりすぎて震えるほどになっていた。そのまま手も震えながら、予備の小さなすみづつに輝影を浸し、まずは祝月下に憑いていたてんせいを収星した後、続けて飛墨を放つ。


 すると、三人と一頭の額に『鍵』の文字が顕れ、強い光を放った。




 その光に気付いて、こちらへ来る者がいた。梅叡と天捷星である。萍鶴たちは、さっと木陰に隠れた。


 そのまま見ていると、山礼汎らがいることに驚いていた。だが、彼らが何の反応も示さず、魔星もいなくなっているのに気付いた天捷星が「兄貴たちに負けたんだろう、いいざまだ」と言い、ものはついでだからと、馬車を失敬して去って行った。




 それを見送った萍鶴に、百威が宿の方向を向いて、帰還を促す。黒輪の襲撃が来ているかもしれない、という目をしていた。

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