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21 それは人間らしい感情

 ろくに会話もしないまま、二人は湖畔に着くなり昼食の支度をした。

 夏なだけあって、燦々とした陽光が眩しいので、一際大きな菩提樹の木の下に布を敷いてサンドイッチやローズマリーで焼いた鶏肉、チーズなどを並べる。しかし、並び終えて飲み物を忘れてしまった事に気がついた。


「ごめん、私急いで一旦孤児院に戻るね」

「忘れ物か?」

「うん、飲み物を……。ローズマリーとミントのお茶を準備していたは良いけど、水筒とカップを食堂に忘れちゃったみたい」


 どうせ、修道院は目と鼻の先。走れば五分も経たずに戻れる距離にある。

 きびすを返そうとアルマは立ち上がる。しかし、テオファネスにやんわりと手を引かれた。


「アルマ次第だけど、俺は別に飲み物無しでも構わないけど……食後だっていいよ」

「え? 良いの?」

「多分今日も一時間以上時間が割けてるだろ? 俺は取りに行けないし、アルマに任せるしか無いのは申し訳無いけど。でもさ、弁当を広げたんだし、風でも吹いて埃がかぶる前に食べた方が良くないか?」


 そう促されて、再び腰掛けるとテオファネスは安堵したのか優しい笑みを向ける。 


 確かに彼の言う通りだ。

 これはもう厚意に甘えて良いだろう。

 しかし、こうも優しい笑みを向けるのはどうにも、心臓が高鳴るような、かぁっと身体が熱くなる心地がして仕方ない。


「じゃあ言葉に甘えさせてもらうね?」


 そう言って座り直すと、二人で食前の祈りを捧げた。

 初めこそ無言の食事だったが、途端にアルマは院長から借りた時計の事を思い出し、その話を切り出した。

 彼の答えは状態によりけり……との事。

 渡して見せれば、留め具さえ交換すれば多分綺麗に直るだろうとの事で。しかし、そんなパーツは修道院には無い。応急処置にネジの緩みを直せば少しはマシにはなるそうで……。


「帰ってから直してみるよ」と、彼は懐中時計を預かってくれた。


 だが、やはり食事を終える頃には喉が渇いてきた。何せ、サンドイッチのパンが粉料の多く硬めなので、口の中の水分が全部持っていかれるのだ。


「バスケットを置きながら水筒を持って来るね」


 片付けをしながらアルマが言えば「描き始めて待ってる」と言って彼は頷いた。


 そうして、アルマは一人修道院にきびすを返す。 


 外に彼を一人で置いておくのは今回が初めてだ。自分が居たところで結果は変わりないだろうが、誰かに見つからないか……と、今更の不安がふと過ぎる。


 しかし、ほんの数分ならば大丈夫だろう。アルマは僅かに後方を振り返り、早速スケッチブックを開いたテオファネスの姿を確認すると足早に歩み始めた。


 ※


 ──ヴィーゼンに来て約一ヶ月。

 テオファネスはこの環境に慣れ初め、随分健やかに過ごせていると大いに自覚した。


 数ヶ月前まで、炎の揺らめく戦場にいたのだ。

 それも最前線……断末魔の叫びや爆薬の匂い、血の匂い。火炎の燃え盛る地獄が日常に染みついていた。


 ある者は、母親を呼ぶ。

 ある者は、故郷に残した婚約者の名を呼ぶ。

 ある者は、子どもの名を呼ぶ。

 そうして、命を終える人間を数え切れない程に見てきた。


 そして、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔で言う敵の命乞いも何度も聞いた。致命傷を負い、無惨な姿になって未だ息がある状態の敵や味方に「早く殺してくれ」と懇願された事だって数え切れない。


 兵士とは国の誇りを守る為にある。〝その為に戦場に立っていた〟と言えば聞こえは良い。


 だが、そこに立ち、生き残る意味は……相応のを背負っている事に変わりない。人を数え切れない程殺しているから生き延びたのだ。

 それは機甲マキナだって変わらない。


 あれ以上に痛い思いをしたくない、屈辱的な思いをしたくない。そうして、抵抗を諦めて全て従った時点で自分の意志で罪を背負った事に変わりないのだ。


 だからこそ、この現状が夢のように思った。否、初めこそは死後の世界のような錯覚さえ抱いた。


 濃い緑の肥沃な自然に雄大にそびえる山々。風は爽やかで、爆薬の匂いも血の匂いだってしない。


 その上、羽根を持たぬ天使がいた。

 出会った天使はアルマと名乗った。


 初対面の印象は表情がコロコロとよく変わる、人間味があふれいて、ただただ眩しかった。まさに太陽のよう──夏の日差しのような少女と思った。


 真っ白な穢れ無き礼装によく映えたこういろの髪。夏空のような青々とした瞳。所作が大雑把で、前髪が斜め切りな部分や三つ編みが崩れているなど……ややガサツな性格が目立つが、それでもれん。知れば知るほどに愛敬がある少女だった。


 とてつもなく眩しい。だが、それが堪らなく愛おしいと思えたのは初めて外に連れ出されたあの夜だった。


 たった一ヶ月足らず。迷える機甲マキナは天使に恋をして生きる喜びを覚えた。


 だからこそ不眠状態が改善されたのだと頷けるが、と自嘲してしまう。


 そう。そう遠くない未来にが来る事を初めから理解していたからだ。


 テオファネスは鉛筆を置き、胸元にひそめた認識票を取り出し目を細める。


 二枚は自分のもの。それ以外は六人の名がそれぞれに刻まれている。

 皆、アルギュロス兵になった同郷のスピラス人のものだ。

 自分がこの認識票を持っているという事は当然のように既にこの世に居ない。


 ……半数以上は機甲化試験で命を散らした。そして残り半数程は、戦場で命を散らしている。

 当時の年齢は、みんな十五歳から十七歳程だった。


 ────こんな時間がずっと続けば良いのにな。


 心で呟き、テオファネスは空を見上げると認識票を胸元に再び収めた。

 自分を抜かして同郷の六人の戦友。そして、この地の七人のエーデルヴァイス。人数が丁度あう。


 戦友も自分も当時の年齢は現在のアルマ達かそれ以下。そんな部分もあるからだろう。テオファネスはどことなくエーデルヴァイスに親近感を覚えていた。


 ほぅ。と一つ息をつき、再び鉛筆を摘まんだ途端だった。少し離れた場所から足音が聞こえてきた。早くもアルマが戻ってきたのだろう。


「おかえり」と、テオファネスが振り返るが……テオファネスの思考は停止する。


 長い白髪の少女が立ち尽くしていた。

 年端は未だ十を越えて僅かで幼い。纏う服はアルマが纏うものと同じ、レースをふんだんにあしらった白の礼装。彼女は金の瞳を丸く開き、テオファネスを見るなりに涙ぐむ。


 きっと怯えているのだろうと思った。半身は金属質──左目の強膜は真っ黒に濁ったこの容姿だ。未だ幼い少女からしたら異質であり、さぞ恐ろしく映るに違わない。


「怖がらないで。何もしない。危害なんて与えない。深呼吸して後ろ向いて……」


 テオファネスはできるだけ彼女に優しく語りかける。

 白髪に金の瞳……未だ稚い小さな少女。幾度か、アルマとの会話でそんな存在は耳にした。確か最年少の……。


「エーファだな? いいか……ゆっくり修道院の方に戻るんだ。着く頃には、今見た〝片目真っ黒の怖い怪物〟を忘れるはずだ」


 テオファネスがそうした途端だった。涙ぐんだ彼女は駆け寄り、テオファネスの胸に飛び込んだ。


「?!」


 何事か。なぜそうなるか。困惑するも束の間。

 彼女は声を張りあげて泣き始めた。


「お兄ちゃん……! お兄ちゃんでしょ! どうして、どうしてっ! どうしてエーファを置いていったの!」


 ──もう置いて行かないで! と、少女はテオファネスの胸に顔を埋めて、泣き叫ぶ。


 テオファネスは目を瞠って固まってしまった。


 アルマの話によれば、最年少のエーファは何を考えているかも分からぬ少女で、表情が乏しいそうだ。しかし、これは聞いていた話と違う。


 それに〝お兄ちゃん〟とは……。


 銀髪の自分に白髪の少女。髪色は確かに似ているだろう。間違いなく人違いだ。しかし、こうもひっつかれて小さな女の子に泣きじゃくられると否定もしにくい。


 とりあえず、アルマが戻る迄は……。テオファネスはおずおずとエーファを膝の上で抱き寄せ、あやすように背を叩いた。


 それから、ものの数十秒後──水筒を持ったアルマが帰ってきた。だが、膝の上で抱えた少女の姿を見るなりに彼女は目を丸く開いて唖然としたおもてになる。


「どういう事なの……エーファがどうしてここに……」


 そう言われても分からない。テオファネスは眉を寄せてただ首を振るう。


 そうして二人で呆然とエーファを見守る事幾何か。泣き疲れたエーファはテオファネスの腕の中で眠りに落ちてしまった。


「なあアルマ、この子って兄は居るか?」


 起こさぬよう小さな声で尋ねると、アルマは「分からない」と首を振る。


「〝お兄ちゃんでしょ〟って言われた。それで泣かれて、こうなった」

「テオ、ごめんね。実は、私もこの子の事を殆ど知らないの。とりあえず、一番懐いてるゲルダを呼んでくるね」


 ──あまり人に姿を見られたくないのに、ごめんなさい。


 アルマは詫びるが、こればかりは仕方ないと思えた。テオファネスは頷き、修道院に向かって再び走り出す彼女の背を見守った。

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