──テオファネスがザフィーア修道院に来て三ヶ月以上。
季節は移り十月初旬。緑はすっかりと色褪せ、短い秋の盛りを迎えようとしていた。
未だ落葉していないものの、湖周辺の菩提樹やマロニエの葉も黄色く色付いている。
アルマの纏う礼装のブラウスもすっかり長袖だ。またケープやスカートも秋冬の厚手の生地に変わっている。しかし、隣を歩むテオファネスは半袖の襟なしシャツに兵士の下衣と
彼の衣類の洗濯はアルマが回収して行っている。
手持ちの服の内訳は大抵知っているが、彼は
軍で支給されたであろう二着の兵士の服。それとシャツは三枚ほどだが、どれも薄手のものだった。服が無いのか、洗濯を減らすように気遣っているかは不明だが、彼はいつも患者衣を纏っているもので……。
「ねぇテオ、いい加減に寒くないの?」
湖に向かう最中にそんな質問を投げかければ、彼は僅かにアルマの方を向いて苦笑いを溢す。
「俺、寒さは殆ど感じないって言わなかったっけ?」
初耳だ。素直に頷くと彼は「この身体の所為か気温があまり分からない」と答えた。
「じゃあ、風邪引かなくて良いわね」
率直に思ったまま答えると、彼はピタリと立ち止まり、途端に俯いてプルプルと震え始める。まずい事でも言っただろうか……今のは少し無神経な発言だっただろうか。そう思うものの、彼は途端に盛大な笑い声を溢し始めたのである。
何がそんなに面白かったのだろう。そう思うものの彼は
「や、ごめん。いや……アルマって可愛いな」
「はい?」
何がそんなにツボに入ったのか分からない。
アルマが目を細めるとテオファネスは唇に笑みを乗せたままこう切り出した。
「いやさ。この身体になってから
褒められているのだろうか。だが、あまりに単刀直入で幼稚な返しような気がしてしまいアルマは微妙な気持ちになる。
「喜んで良いか分からない」
「なんだろう。アルマの言葉って、いつも前向きな気持ちになれる」
──ありがとう、嬉しい。続けて告げた感謝の言葉は彼の母国語、スピラス語だった。
時折普段の会話に母国語を挟むようになったので、簡単な単語はいい加減に分かってきた。それに、幾らか単語を教えてくれたので、何を言っているか少しだけ分かるようになった部分もあるだろう。
〈よく分からない〉
とりあえずニュアンスで覚えた単語を言うと、彼は少し驚いたような顔をしてアルマを見下ろした。
実際に話したのは初めてだ。発音は多分ダメだろうが、伝わっているだろうか。そう思った矢先だった。
「え、凄いな……」
感嘆として彼は言う。どうやら通じらしい。
「でも発音が難しい」と言えば「勢いが大事」と言って彼はクスクスと軽い笑いを溢した。
そうして、歩む事
山々と湖。木や花。水鳥など対象はその日によって様々だ。この間アルマは呆然と彼の隣に座ってのんびりと過ごしている。
写生の最中は、基本的に会話は無い。それでも世間話を振れば、彼は手を止めずに答えてくれる。そんな平穏さがどこか居心地が良くアルマは思っていた。
「そういえば、テオ。最近エーファはどう? 時々来るでしょ?」
「うん。来るね。でも……世間話程度しか喋らないけどな。〝昨日の夕方礼拝の時にお腹が鳴って恥ずかしかった〟とかそんな話を聞いたくらい。元気にしてるよ」
彼は絵を描きつつ、穏やかに答える。しかし何度聞いても世間話が出来る事に驚きだ。あれ以降、エーファはエーデルヴァイスに対して特に態度を変えていない。
「お兄さんの事とか何か言っていた?」
「別に。初めに聞いたきりだ。背丈や見た目は余程兄貴に似てるのか、なんていうか俺はただ懐かれてるだけというか……」
複雑そうに彼は言うが、それでも手は止まらない。鉛筆を走らせる音は一定で、彼は遠くを見ながら、時折スケッチブックに視線を落とす。
返事こそするが絵に没頭すると、テオファネスは一切こちらを見ない。それだけはほんの少しだけ寂しいと思えてしまう事はある。
それに、エーファとテオファネスが関わるようになってから、果たして自分が彼を見続ける意味があるのかと疑問をふつふつと沸いていた。
テオファネスは極めて人間的だ。万が一など無いように思う程。決して危険ではない。万が一を恐れてこその自分が担当者になったが、何も自分が彼の担当でなくても良い気がしてしまう。
「ねぇ、テオ……別に私が貴方の担当責任者じゃなくたってエーファがいれば良いような気がしちゃう事あるんだよね」
思った事をぽつりと呟いた途端だった。
規則的に響いていた鉛筆を走らせる音が止まり、彼はぱっとアルマの方を振り向いた。
「え、どうしてだ?」
何が何だかといった顔だった。テオファネスはアルマを見下ろし目をしばたたく。
絵を描いている最中に振り向くなど初めてだ。
「……あ、ごめん邪魔しちゃった」
謝ると彼は首を横に振り、スケッチブックと鉛筆を膝の上に置いてアルマに視線を向ける。
「えっと、どう考えてそう思った?」
「なんだろ。そのまんま。
言うんじゃなかったと直ぐに後悔した。
これでは、まるで自分が彼にとって必要か云々と聞いているようで恥ずかしい気持ちが沸いてくる。
アルマは「やっぱ忘れて、何でも無い」と言って直ぐだった。
「……自惚れた発言していい? アルマ、妬いてくれてるの?」
途端に言われた言葉にアルマは目をしばたたく。
「え?」
「いや、違うか。そうだったら俺は嬉しいけど……」
そう言って彼は再び鉛筆を持つが、その頬は僅かに赤みを帯びていた。
しかし妬かれて嬉しいとはどういう事だ……。
アルマが眉をひそめて彼の横顔を射貫く事間もなくだった。彼は静かにスピラス語で何かを語る。
だが、その単語の意味は分からない。
「今の何て言ったの……」
「秘密。相当恥ずかしい事言ったから」
優しく目を細めて、笑むと彼は再び鉛筆を走らせ始めた。