その日、夕食を終えた後だった。
「懺悔に来た人がいます。どなたか二人、礼拝堂までお願い致します」
突如駆け込んで来た修道女にそう言われて、アルマとアデリナは自ら率先してそれを引き受けた。
単刀直入に言えば、皿洗いの当番で無かったからだ。
同じく当番でないゲルダに関しては、夕食の席で子どもたちに本を読んで欲しいと捕まっていた。エーファはまだ、この務めには就いていない。
そこで一番場数を踏んでいる自分達が出向いたのである。
懺悔に来た人、そして自分たちエーデルヴァイスが呼ばれる場合は間違いなく、人の心の影と対峙するためである。
しかし、こういった事は年間で十回も無い。
「久しぶりだから、上手くいくか不安になってきた……」
思ったままを言うと「大丈夫大丈夫」と、アデリナに軽い調子で言われて僅かに心の強ばりが和らいだ。
そうして二人は礼拝堂に辿り着く。
暗い祭壇の左右には数多の蝋燭の炎が揺らいでいた。
礼拝堂の座席の端には小柄で細身の女性の姿があった。細い背や白髪交じりの毛髪を見る限り初老女性と
四十代半ば、或いは五十代程だろうか。
その背にはふわふわと黒い影が蠢いており、まるでおぶさるように彼女の背に纏わり付いていた。
「お待たせ致しました。私、金曜に宛てられたエーデルヴァイス、アデリナと申します」
レースをふんだんにあしらったスカートの裾を摘まんでアデリナは
そうして今一度、婦人の顔を見ると、彼女はつぶらな目でアルマとアデリナを交互に見るなり。「どうか愚かな私を赦して下さい」と大粒の涙を溢して俯いた
しかし、その途端、どこか聞き覚えのある音がした。しゃらりと軽い金属音──その正体は。
アルマがその正体を辿れば案の定だった。彼女の手に鎖付きの認識票が握られていた。
それを持つ……つまり軍に服役した身内が死した事が結び付く。
「どういったお悩みでしょうか」
見当が付こうが聞くしかない。すると、案の定〝一人息子が戦地で死んだ〟と、彼女はさめざめと答えた。
──召集令状が届いたものの、息子は服役したくなかったらしい。
国の為に戦える事は男として誇らしいこと。刃向かうなど言語道断。「嫌だ」という息子に痺れを切らし、夫と無理矢理に送り出してしまったそうだ。
戦争に行こうが死ぬ筈無い。何せ、無敵の三帝国だ。きっと生きて帰ってくるだろう。誰も死にやしないだろうと信じていたらしい。
だが、帰ってきたのはこの認識票だけ。息子は僅か十九歳でこの世を去り、異国の地に埋められたらしい。
婦人はさめざめと泣き〝どうして送り出してしまったのか〟と懺悔をする。そして、無敵の三帝国でないのか。と悲痛な声で叫んだ。
しかし、それに対してどう返して良いか分からない。自分たちはこの人の心に直接干渉し、赦しを与える事しかできないのだ。
赦しの力とは人の心に干渉する事。実際に何から何まで救える訳でない。〝気付かせる事〟がこの務めである。
しかし、この嘆きを聞き続けているのも心苦しくなってきた。
アルマはアデリナを
「分かりました。その嘆き、私たちが受け入れます」
そう告げた後、アデリナは胸のポケットから小さな金のベルを取り出した。
「目を瞑って下さい。その心どうか私たちを入る隙をお与え下さい」
アデリナがそう語りかけ、ベルを二つ鳴らしたと同時──次第に視界が暗くなり始めた。
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その女性の救済を終えたのは午後八時近くだった。
この務めは人の心そのものに飛び込み、深層にいる影を赦す。
影とは、本人が作り出した意識のひとつだ。それと語らい、ただただ祈りを捧げるだけだが、祈る時点で影は薄まるなり消えるなりする。
しかし、この務めの本質は気づきや戒めを与えるものだ。
あの女性の場合は「決して息子を忘れぬ事」「敬い、思い続ける事」「同じ過ちを繰り返さぬ事」それらを彼女は自ら心に刻んだ。
これこそがエーデルヴァイスだけが行える務めだが、人の心奥深くに飛び込むので、儀式後は疲労困憊するものだった。
こうして二人体制で務めを行う理由は、人の心の中に飲み込まれる事を回避する為だ。
人の心とはまるで深い水の中のよう。
或いは迷宮とも
初めは影が助けを求めるように蠢いているので、深層まで辿り着くのは容易だが、帰る方が困難だ。道しるべもなく感覚だけで戻ってくる。だからこその二人。互いが命綱となり、帰り道が分からないなんて事を避ける為である。
別に人の心から戻れなくなるとしても死ぬ事は無いが、数日気を失う羽目になる。また干渉時間が長すぎると、数ヶ月酷い頭痛に悩まされるなどという事も。
「なんだかドッと疲れちゃった。でも良かったね。あのご婦人、少しほっとしたような、何か悟ったような顔で帰って行ったし」
肩を回しつつアデリナは苦笑いで言う。
「そうだね。本当に久しぶりだったし疲れちゃった。私も今日はもうテオの部屋に寄ったら、宿舎に戻ってシャワーを浴びたら直ぐ寝たい気分……」
気怠げに返した途端だった。
「──いい加減にしろよ!」
中庭から男児の罵声が響き渡ったのである。
声だけで分かる。間違いなくあの双子のうちのどちらかだ。アルマは直ぐにアデリナと顔を見合わせて、声がした方に向かって急ぎ走った。