アデリナの声がなんだか遠い。
それもどこかぼやけて聞こえて、クラリと視界が揺れ動く。
アルマがよろけた瞬間だった。
──背後でドシンとした振動を感じた。
その直後、誰かに背を支えられた。アデリナだろうか。だが、それにしては硬い。そんな風にぼんやりと思った途端、頭の上から聞き馴染みのある低く掠れた声が落ちてきた。
「一部始終は見てたし聞いていた。俺の部屋は丁度この真上だからな。天使たちを傷付けた罰は重い。暴力で解決するなどその思考は赦されざるものだ!」
そんな、まさか。アルマはその声に驚き、朦朧とした意識から途端に
やはりテオファネスだ。
彼は背後に佇んでいた。
「──孤児院の双子。レオンそしてロルフと認識。通称、問題児」
随分と機械的な言い方だった。それもゾッとする程に声色は冷え冷えとしており、普段発する彼の声とは全く違う。
「なんだよこいつ!」
「バケモノだ!」
こんなの知らない、聞いてない。と、双子は悲鳴じみた甲高い叫び声が劈いた。
「一方的な暴行・暴言。罰を下す対象として認識。ああ、お前ら、俺にもその石投げてみろよ。やれ。相手になってやる」
彼がそう挑発した途端、アルマは彼の中で暴れも藻掻く。
「止めなさい!」
完全に
〈暴れるな〉
スピラス語で彼はアルマにそう告げた。更にテオファネスは言葉を続けるが、分かった言葉はただ一つ。
〈俺を信じて〉と。
この言葉だけで分かった。彼は正気だった。あくまで灸でも据えてやろうという
泥だらけのエーファは立ち上がり、目を瞠りテオファネスとアルマを交互に見る。
「──俺は赦しの花を守る為にここにいる〝迷える
テオファネスがそうが告げ、一拍後──「お願い……」と言葉にすれば、彼は頷きアルマを丁寧な所作で座らせた。
そうして、エーファとアデリナに見ているようにと
「やめて! ごめんなさい、ごめんなさい!」
「石がまさか頭に当たるなんて思わなかった。血が出るなんて思わなかった! もうしないから!」
二人はべそをかいて、許しを請う。
「分かったか、ならそれでよし」
そう言うと彼はやんわりと笑んで彼らを解放すると、身を屈めて二人の頬を指でつつく。
ごめんなさい。ごめんなさい。とまだ怯えたままの二人は泣きじゃくる。テオファネスはさすがに困った顔で肩を竦めると二人の頭を優しく撫でた。
「怖がらせてごめんな。でもな、アルマの頭はもっと痛かった。エーファだって心はもっと痛かった。病気だの聞いてアデリナだって嫌な気分になったと思う。いいか、暴力なんて何も解決しない」
そうして、テオファネスは二人をもう一度抱き締めると、落ちつかせるように優しく背を撫でて宥めに入る。
妹たちがいたというだけあって、その宥め方は絶妙に上手かった。
それから暫くして双子がようやく落ち着くと、テオファネスはエーファに視線を向けて緩やかに口を開く。
「たけどなエーファ。言葉にしなきゃ伝わらない事もあるのは事実だ」
テオファネスはそう切り出すなり、エーファは小さな身体を震わせて嗚咽を溢し始めた。
「怖かったの……」
エーファは消え入りそうな声でそう告げた。そんなエーファに目をやると彼女の大きな瞳からはぽろぽろと雫が滴り始めた。
「エーファなんか初めからいなければ良かった。お兄ちゃんと違ってエーファはいらない子。だから見えないようになりたかった。お兄ちゃんも来なくなっちゃった。だからもう見えなくなっていいやって思った」
──消えたかった。と、そう付け添えた。言葉はあまりに悲痛だった。
自分が不必要だと、孤児院に入れられた事を彼女は分かっていた。だからこその発言だ。
聞かされた彼女の背景と全てが噛み合い、アルマは酷く胸が痛んだ。額の痛みなど忘れ去る程……酷く胸が軋み、アルマは
「そんな事いわないでよ。エーファ、本当に何も言ってくれないんだから。ちょっとは先輩たちを頼ってよ。もっと話聞かせてよ」
「そうよエーファ。貴女がいるから不幸なんてありえないわ。一定の期間だけの関係とはいえ、決して短い付き合いじゃない。天使に選ばれた仲間でしょ」
アデリナもエーファの髪を梳くように撫で、彼女の額に口付けする。
エーファはただコクコクと頷き、まるで覚えたての言葉のように「ありがとう」と何度も嗚咽混じりに繰り返した。
「思った事を言う事は怖いかもしれない。嫌な思いをさせたとか、悲しい思いをさせたと思ったらその時はしっかり謝れば良い。大丈夫。エーファには先輩が沢山いるし、俺だっている。独りなんかじゃない。消えたいとか見えなくなりたいなんてそんな悲しい事言わないでくれ」
それにこいつらだって……。とテオファネスは続けて言うとレオンとロルフに視線を向ける。
「やり方は最低で最悪だが気を引きたいくらいだ。お前と仲良くなりたかったのは変わらない。その気持ちだけは分かってやれよ」
手を差し伸べられたのに、払うような事はするな。と、言ってテオファネスはエーファに微笑んだ。
様々な感情が交じり合って言葉に出来ないのだろう。エーファ何度も頷き〝ありがとう〟と〝ごめんなさい〟を何度も繰り返した。
---
その後、この件は大騒動になってしまった。
修道女達が駆けつけ、他のエーデルヴァイスや孤児たちも飛び出てきた程だ。
そこに居た患者衣姿のテオファネスを見て大きなどよめきは起きた。そんな騒ぎを直ぐに悟ったのか、院長は人波の合間を割ってやってきた。
だが、エーファがテオファネスを守るように前に出たのである。
「お兄さんは何も悪くない。お兄さんは怖くない。エーファ、助けてもらったの」
──この子は言葉も発しない。誰もがそう認識していたからこそ、皆驚き目を瞠ってエーファを注目して話を聞いた。
そんな必死な訴えがあったからだろう。すぐに皆散り散りになって、宿舎へ孤児院へと戻っていった。
しかし、アルマの頭の怪我に気付いた、院長は血相を変えて身を案じる。その事情の説明はテオファネスがした。その端には反省したのか萎縮したままの双子がおり、またもべそをかいて何度も謝罪の言葉を口にしていた。
そんな出来事を
────色々ありすぎた一日だった。
もはや赦しの力を使った所為もあって疲労困憊だ。きっと、今日の日記を見直せば、みみずののたくったような字だと後で笑ってしまうだろう。
そんな風に思いつつ、アルマは明かりを消すとベッドの中に潜り込む。
しかし、瞼を閉じようがどうにもエーファとテオファネスの事が頭から離れなかった。
──特にテオファネスの事だ。普段かなりおどおどとしている割に、いざという時はあんなにもしっかりとしている。その言葉にも重みと誠意があり、それでいて優しく心地良い。
倒れそうになって背後から抱きしめられた時、助けられた時どこか安堵して嬉しかった自分がいた。
この気持ちを形容するならば……。
その答えは直ぐに見えてきた。アデリナとゲルダに散々いじられた通り、きっと自分は彼を好いているのだと。
だが、エーデルヴァイスである以上は禁忌とされる感情に違いない。これ以上、どうかこの気持ちが大きく育たないように。
そう願いつつ、アルマは眠れぬ夜を過ごした。