目次
ブックマーク
応援する
4
コメント
シェア
通報

第85魔:『七夕山荘殺人事件』

「ハアー、空気が美味しいわ。それにとっても涼しいし。たまにはこういうところもいいわね、堕理雄」

「そうだな。でも何か悪いな、この時期に予約するの、結構高かったんじゃないのか?」

「フフフ、言ったでしょ? 今日は堕理雄の誕生日なんだから、そんなこと気にしないで」

「……まあ、そこまで言うなら、お言葉に甘えさせてもらうけど」


 今日、7月7日は俺の21歳の誕生日だ。

 7月7日といえば七夕。

 というわけで、今年の俺の誕生日は、七夕に因んだイベントを沙魔美が催してくれるというので、期待と不安が入り混じった複雑な心持ちで誕生日当日を楽しみにしていたのだが、当日俺が連れてこられたのは、某県の山奥にあるとある山荘だった。

 連れてこられたと言ったが、実際にここまでレンタカーを運転してきたのは俺だ(相変わらず沙魔美は運転免許を取るつもりはないらしい)。

 沙魔美はコッソリ予約しておいたレンタカーに乗り込むなり、カーナビに目的地をセットし、「後はよろしく!」とばかりに俺に運転を促してきた。

 目的地がどんな場所なのかは、着いてからのお楽しみとのことだった。

 まあ、そういうことならその場で深く追及するのも野暮かと思い、黙って車を走らせ、この山荘まで辿り着いたというわけだ。

 ただ、正確に言うと、まだ山荘には着いていない。

 山荘は相当山奥にあるらしく、近くの駐車場に車を停めて、そこから山荘まで少し歩くとのことだった。


「……大丈夫か、沙魔美?」

「ゼハー、ゼハー、だ、大丈夫よ……。元気100倍、沙魔パンマンよ……」

「つまらない冗談が言えるなら、まだ大丈夫そうだな」


 呆れる程体力がない沙魔美は、山道を少し歩いただけで息も絶え絶えになっている。

 そもそもこんな山奥でまでハイヒールを履いているので、歩き辛いことこの上ないだろうに。

 余程ハイヒールにこだわりでもあるのだろうか?


「その山荘までは、まだ掛かりそうなのか?」

「……いえ、もう少しなはずよ。――あ! あれじゃない!?」

「え? ――おお」


 山道を抜けて開けた場所に出ると目の前に大きな吊橋があり、その先に年季の入った雰囲気のある山荘が見えた。


「……この吊橋を渡るのか」

「そうよ。怖い?」

「いや、別に怖くはないけど……」


 俺は高所恐怖症ではないが、吊橋の下は底も見えない程の暗闇がぽっかりと口を開けており、万が一吊橋から落ちたら絶対に助からないであろうことは明白で、俺は下腹部が少しだけヒュンとなるのを感じた。


「さあ堕理雄、早く行きましょ」

「あ、ああ」


 沙魔美はそんなことは一切お構いなしに、率先して吊橋をグングン進んで行く。

 まあ、沙魔美は仮にここから落ちても魔法でいくらでも助かる道はあるので、何も感じないのかもしれない。

 一般人の俺は沙魔美程図太くはなれないので、歩くたびにギシギシ音を立てながら揺れる吊橋に一抹の不安を感じながら、向こう岸まで何とか渡ったのだった。

 そうしてやっとの思いで着いた山荘は、入口の看板に達筆な字で、『七夕山荘』と書かれていた。




「ようこそおいでくださいました。ご予約のお名前をお伺いしてもよろしいですか」


 入口から七夕山荘に入ると、オーナーと思われるナイスミドルな紳士が出迎えてくれた。


「二名で予約してる、病野です」

「病野様ですね。お待ちしておりました。ではこちらでチェックインのお手続きをさせていただきます」

「はい」


 オーナーに促されて、受付で沙魔美はいくつかの書類にサインをし始めた。

 その間手持ち無沙汰だった俺はロビーをぐるっと見渡したが、ロビーの隅に大きな笹の木が飾ってあり、その木にいくつか短冊が吊るされているのが見えた。

 なるほど、七夕山荘という名前からして、七夕に因んだ飾り付けがされているということなのだろう。

 だがふと笹の木の横に目を向けると、そこには仰々しい額縁に収められた、詩の様なものが飾ってあった。

 その詩は、以下のようなものだった。


『半分に欠けた月が照らす時

 忍者は湖の底に沈められるだろう

 輪を首に掛けて身を投げ出せば

 様々な厄災が降り掛かり

 みなこの地からいなくなるだろう』


 ……何だこの詩は?

 よく意味はわからないけど、何だか不吉な内容だな。


「それは昔からこの辺に伝わっている、『天邪鬼あまのじゃく』という詩ですよ」

「!」


 急に声を掛けられたので振り返ると、そこには顔を黒い目出し帽で隠した、全身が黒ずくめのいかにも怪しい男が一人で立っていた。

 声の感じからすると、歳は50歳前後といったところだろうか。


「……あなたは」

「これは失礼。私はここの宿泊客で常連でもある黒田くろだと申します。この目出し帽は、子供の時に火傷した跡を隠すためのものですので、どうかご了承ください。決して、怪しい者ではございませんので」

「はあ」


 そうは言っても、黒田と名乗った男は全身からただならぬオーラを発しており、正直カタギには見えない。

 俺の勘がこの人はただものではないと、ガンガンに警鐘を鳴らしていた。


「この地には昔から、天邪鬼の伝説というものが語り継がれておりましてね」

「天邪鬼の伝説?」


 黒田は聞いてもいないのに伝承を語り始めた。


「天邪鬼っていうと、本心とは逆の言動をとる人を指す、あの天邪鬼ですか?」

「ええそうです。ですが、天邪鬼というのは元々妖怪の名前なんです。しかもこれがなかなかに面白い妖怪でして、地方により伝承が千差万別なんですな。例えば秋田県などでは人の声を真似ることから木霊や山彦がアマノジャクと呼ばれていますし、栃木県の一部では山姥を指して天邪鬼と呼んでいるそうです」

「へえ」


 それは知らなかった。

 まあ、河童かっぱとかも地方によって形状は大分異なるらしいし、妖怪の伝承なんて、そういうものなのかもしれない。


「そしてこの地で天邪鬼といえば、7月7日の七夕の夜に空から降ってきて厄災を撒き散らす、大変悪質な妖怪と言われています。大方、天の川と天邪鬼が、かかっているのかもしれませんな」

「……」


 サラッと言っているが、随分物騒な伝承だな。


「七夕というと、通常は笹の木に願い事を書いた短冊を吊るすものでしょうが、この地では短冊に願い事は書きません。その代わり、魔除けの呪文を短冊にしたため、天邪鬼から身を守るための魔除け札として使用しているのです」

「……魔除け札ですか」


 試しに一枚短冊を裏返してみると、そこにはとても読めない、写経の様なものが筆で書かれていた。

 これが魔除けの呪文なのか……。


「ま、伝承はあくまで伝承ですからな。あまり気を揉む必要はないと思いますよ」

「はあ」


 あんたのほうから言ってきたんだろ。

 やっぱりこのオッサンはどこか怪しい。

 それに、どこかで会ったことがあるような気がするのだが、はて、気のせいかな?


「堕理雄、お部屋に案内してくれるって。早く行きましょう」


 受付が終わったらしい沙魔美が、俺のことを呼んだ。


「ああ、今行くよ。すいません、俺はこれで」

「はい、ゆっくりこの七夕山荘を楽しんでください」

「……どうも」


 あんたのせいで楽しめなくなりそうだけどな、という言葉が喉まで出掛かったが、すんでのところで抑え、俺は沙魔美のところに戻った。




「それではお部屋にご案内させていただきます」


 オーナーの奥さんらしき女性が、俺達を案内してくれた。

 七夕山荘は部屋が5部屋程しかない平屋の山荘で、俺達の部屋は一番奥の5号室らしい。

 だが部屋に向かう途中、俺達の部屋の隣である4号室の前辺りで、宿泊客と思われる男女が言い争っていた。


「明日には帰るってどういうことよ! 明後日までは一緒にいる約束だったでしょ!?」

「仕方ないだろ! 急な仕事が入ったんだから……」

「嘘よ! 私知ってるんだからね! あなたがさっき奥さんに電話してたのを!」

「オ、オイ! こんなとこで何を……。と、とにかく続きは部屋の中で話そう」


 そう言うと男は、女の手を引いて4号室の中に消えていった。

 男のほうは40歳前後で、女のほうは20代後半といった風貌だった。

 ……不倫カップルなのかな?

 まあ、確かにこの隠れ家的な山荘は、不倫旅行にはうってつけなのかもしれない。


「ハ、ハハ……どうぞ、こちらがお客様のお部屋の5号室です」


 マズい現場を見てしまったなという顔をオーナーの奥さんはしていたが、無理矢理空気を変えて俺達を部屋に案内した。


 部屋の中は家具を全て木材で統一した趣のある造りになっており、なかなか雰囲気があって良い。


「御夕飯は7時からとなっておりますので、その際はロビー横の食堂にお越しください」

「わかりました。ありがとうございます」

「それでは失礼いたします。鍵はこちらに置かせていただきます」


 奥さんは鍵を入口横の棚の上に置き、部屋から出ていった。

 夕飯は7時か。

 今は4時前だから、まだ3時間くらいは余裕があるな。


「どうする沙魔美? 少しこの辺りを散策でもするか?」

「それもいいけど、せっかくならここで少しイチャイチャしない?」


 沙魔美はベッドの上に無防備に寝転んで、俺を誘惑してきた。


「……そういうのは夜になってからにしようぜ。俺もここまで運転しっぱなしで疲れてるし」

「もう、つれないわね。ま、今日は堕理雄の誕生日ですものね。今日ぐらいは堕理雄のご要望に沿いましょう」

「そいつはどうも」

「そうと決まったら早速出掛けましょ。この辺は、景色も凄く良いらしいから」


 沙魔美はガバッとベッドから起き上がり、俺と手を組んでグイグイ俺を引っ張って歩き出した。

 ホントこいつは常にエネルギッシュだよな。

 この活力はどこから湧いてくるんだろうか。




 俺達が七夕山荘のロビーから外に出ようとしたところで、一組の若いカップルとすれ違った。


「ねえねえタックン、ここが私達が泊まるペンション? バリメッチョイイ感じじゃーん」

「本当かいユミユミ? 喜んでもらえて嬉しいよ。これは、今夜のユミユミの下着のデザインにも期待していいのかな?」

「やーん、タックンのエッチー」


 バリメッチョって何!?

 文脈から察するに、『物凄く』みたいな意味合いだろうか?

 いや、それよりもこの鼻につく会話は記憶にあるぞ。

 そうだ! この二人は、去年の年末に起きた『ボンバー爆間事件』の時に、俺とすれ違った二人だ!(※46話参照)

 まさかこんなところでも会うとは……。

 Fr〇e! 並みに人間関係の世界が狭いな。


「どうしたの堕理雄? 今のカップル、堕理雄の知り合い?」

「いや、知り合いって程でもないんだ。ただ前に、肘川ですれ違ったことがあるカップルだったから、ちょっとビックリしてさ」

「フーン、ま、そういうこともあるでしょ。あ! 見て堕理雄。あっちに大きな湖が見えるわよ! あっちに行ってみましょうよ」

「オ、オイ! あんま引っ張んなよ!」


 沙魔美はタックンユミユミカップルには毛ほども興味がないのか、俺を強引に湖の方向へと連行した。


「わあー、キレー。あ! あそこに白鳥が二羽、優雅に泳いでるわ! Bかしら?」


 沙魔美は湖に浮かぶ二羽の白鳥を指差して、一人ではしゃいでいる。


「なわけあるか。お前は何でもそれだな。普通に考えたらオスとメスだろ」

「普通に考えたらオスとオスに決まってるでしょ! 監禁するわよ!!」

「誕生日くらいは監禁の恐怖から解放してくれよ」


 まあ、確かにオスとオスの可能性もあるけどさ。

 そういえば七夕山荘に飾ってあった天邪鬼の詩にも、湖が出てきてたな。

 確か、『忍者は湖の底に沈められるだろう』だっけな?

 まさかとは思うが一応湖の底を覗いてみると、湖は澄み渡っており底のほうまで見ることはできたものの、当然忍者は沈んでいなかった。

 そもそも今時、忍者が沈んでるっておかしいでしょ。

 ……いや、あの詩がいつ作られたものかわからない以上、一笑に付すのは早計か。

 ひょっとしたら江戸時代とかに作られた詩なのかもしれないし。


「堕理雄、どうしたの、そんな思い詰めた顔して? 監禁が恋しくなっちゃった?」

「そんな感情は一度も抱いたことはない。今日って何の日だっけ?」

「ハイハイ、堕理雄の誕生日でしょ。まったく、堕理雄は冗談が通じないんだから」


 冗談に聞こえないんだよなあ。

 さておき、湖を含めたこの光景が、紛れもなく美しいものであるのは事実だ。

 肘川にはこういう場所はないから、たまにはこういうところを旅行するのもいいもんだな。

 悔しいが、その点は沙魔美に感謝しないといけないだろう。


 その後も俺達は腕を組みながらゆっくりと当てもなく歩き、美味しい空気と、ため息が出る程の絶景を堪能した。

 ふと気が付けば日は沈みかけており、辺りには夜のとばりが下りようとしていた。

 空を見上げると地元では見られないような満天の星が散りばめられており、南の方角に縦に流れる巨大な天の川が見えた。


「……おお、凄いな」


 思わず俺は息を呑んだ。

 こんな宝石箱をひっくり返したような星空も、やはり肘川では見られないものの一つだ。


「フフフ、この場所は気に入ってもらえた? 堕理雄」

「……ああ、気に入った。ありがとな沙魔美。今日は最高の誕生日だよ」

「どういたしまして。それはそうと、そろそろ夕飯の時間よね。宿に帰りましょっか」

「そうだな」


 夕飯を食べ終わったらまた外に出て星を見ようかな、などと、この時の俺は吞気に考えていた。




「ああ、病野様、ちょうど夕飯の支度ができたところです。どうぞこちらへ」


 七夕山荘に戻るとオーナーが俺達を出迎えてくれ、そのまま食堂まで案内してくれた。

 食堂には既に何人か先客がおり、あの黒田とかいう怪しい男も独りで晩酌を始めていた。

 タックン&ユミユミは未成年なのか、二人共ジュースで乾杯している。

 そして4号室の不倫カップルは、男のほうの姿はなく、愛人の女性が独りで食前酒を飲んでいた。


上木うえき様、そろそろお食事のお時間になりますが、お連れ様はお部屋ですか?」


 オーナーが愛人さんに男の所在を聞いた。


「……ああ、ウチの人はもうすぐ来ると思うんで、もう料理出してもらって大丈夫です」


 ときたか。

 どうやらこの人、略奪婚する気満々らしいな。

 つくづく女っていうのは、怖い生き物だ。


「そうですか。ではご用意させていただきます。病野様は、お飲み物は何がよろしいですか?」

「赤ワインってありますか?」

「ええ。『ミルキーウェイ』というご当地産のワインがございますが、そちらでよろしいですか?」

「オオ! いいですねご当地ワイン! それでお願いします。堕理雄もそれでいい?」

「ああ、いいよ」

「では少々お待ちください」


 オーナーは厨房の奥に消えていった。


「沙魔美は赤ワイン好きだよな。この前の付き合って一周年記念の時も飲んでたし」

「まあね。だって魔女に一番似合うお酒といったら、やっぱり血の様に赤い赤ワインでしょ?」

「……まさかそれが理由なのか」


 沙魔美らしいっちゃ、らしいけど。

 ひょっとしていつもハイヒールなのも、ハイヒールが一番魔女っぽい靴だからなのかな?

 どんな格好をしようが沙魔美が魔女なのは揺るぎない事実なんだから、そこまで形にこだわらなくてもと、俺なんかは思うんだが。




 ミルキーウェイもオーナー夫妻お手製の手の込んだコース料理も、どれもこれも絶品で、俺は心底幸せな気持ちになった。

 ただ、料理も粗方食べ終わり、みんなで食後のコーヒーをむ段になっても、不倫男は食堂に姿を見せなかった。


「……上木様、お連れ様の分のお料理はいかがいたしましょうか?」


 オーナーが気まずそうに、愛人さんにお伺いを立てた。


「……私ちょっと、部屋に行って呼んできます」

「あ、はい」


 愛人さんはそそくさと立ち上がり、大きな歩幅で食堂から出ていった。

 何かあったのかな?


「堕理雄、そろそろ私達も部屋に戻りましょっか」

「あ、ああ、そうだな」


 俺達が席を立つ際、タックン&ユミユミはまだイチャイチャしながらコーヒーをチビチビ飲んでいたが、いつの間にか黒田はいなくなっていた。




軽太かるたさん! ねえ、いるんでしょ!? ひょっとして寝てるの? もう食事の時間終わっちゃうわよ!」


 俺達が自室に帰る途中、愛人さんが4号室の扉をガチャガチャ揺らしながら声を上げていた。


「どうかされたんですか?」


 そんな様子を見て好奇心を掻き立てられたのか、沙魔美が眼を爛々とさせながら愛人さんに話し掛けた。

 オイオイ、厄介事に巻き込まれたらどうするんだよ。

 勘弁してくれよ。


「ええ、それが、ウチの人がチェーンロックを掛けたまま寝てしまっているみたいで、私も部屋に入れなくて困ってるんです」


 へえ、だから食堂にも来なかったのか。

 見れば、扉は少し開いているものの、確かにチェーンロックが掛かっており、これでは中に入れなさそうだ。

 部屋の明かりはついているので、中にはいるのだろうが。

 ――その時だった。


「な、何だお前は!? よ、よせ! やめてくれ!! ギャアアアアアッ!!」

「「「!?」」」


 部屋の中から、不倫男の叫び声が聞こえてきた。

 何だ今の声は!?

 ただごとではなさそうだったが……。


「軽太さん!! どうしたのッ!? ここを開けて!! お願い!!」


 愛人さんは途端にパニック状態になり、扉をドンドンと叩き出した。


「すいません! ちょっとどいてください!」

「え?」


 沙魔美は愛人さんを扉から押しのけたかと思うと、手刀でチェーンロックを真っ二つに叩き斬った。

 ああ!!

 こりゃ後で弁償か……。

 いや、今はそんなことは後回しだ。

 愛人さんは沙魔美のおそろしく速い手刀(オレでなきゃ見逃しちゃうね)に面食らっていたが、すぐにそれどころではないことに気付き、急いで扉を開けて部屋の中に入った。


「軽太さん!! か…………キャアアアアアッ!!!」

「っ!! どうしました!? …………なっ」


 愛人さんの後に続いて部屋に入った俺は、そこに広がるあまりの光景に、先程食べたばかりの夕飯を戻しそうになったが、すんでのところで堪えた。


 軽太と呼ばれていた不倫男は、ベッドの上で仰向けに寝ていた。

 だが、その身体はへその辺りで上下真っ二つに切り裂かれており、ベッドのシーツは鮮血で深紅に染め上げられていた。

 そして何故か胸の辺りに七夕の短冊が一枚、場違いに乗せられていたのだった。


 ――何だこれは!?

 いったい何が起きているんだ!?

 予想外すぎる出来事に、俺の頭の中はただただ真っ白になっていた。


「……酷いわね」


 だが、こんな凄惨な現場を見ても沙魔美は比較的落ち着いており、口元を手で覆いながら、眉間に皺を寄せている。


「上木様! 叫び声が聞こえましたが、どうされたんですか!?」


 騒ぎを聞きつけたオーナー夫妻が、二人で4号室に駆けつけてきた。


「こ、これは!?」

「キャアアァ!! 上木様ッ!!」


 二人もこの世のものとは思えない光景に、絶句して顔を真っ青にした。

 そんな二人を見て、俺は逆に少しだけ冷静さを取り戻した。


「それ以上入らないでください!! まだ犯人が部屋の中にいるはずです!!」

「は、犯人!?」


 そう、『犯人』だ。

 紛れもなく、これは殺人事件に他ならない。

 窓の鍵は内側から掛かっているし、入口には俺達がいた。

 つまり上木を殺した殺人犯は、まだこの部屋のどこかに隠れていることになる。

 俺は全身が恐怖で打ち震えるのを感じたが、自分で自分の頬を叩き、自らを奮い立たせた。

 大丈夫だ。

 俺は殺人犯どころか、魔女やら宇宙海賊やらの相手を今日までしてきたんだ。

 ただの人間くらい、臆することはない。


「オーナー! 上木さんの奥さんのことを頼みます」


 俺は今にも倒れそうになっている愛人さんのことを、オーナーに任せた。


「や、病野さん! 何を!?」


 オーナーは俺の苗字も病野だと思っているのか。

 ひょっとしたら沙魔美が宿を予約する時に、俺の苗字も病野で登録したのかもしれない。

 てことは、俺達は夫婦だと思われてるのか?

 もしかして沙魔美のやつ、将来俺のことを婿養子にするつもりなの?

 いや、今はそんなことは置いておこう。


「ここは任せてください。沙魔美、一緒に犯人を捕まえるぞ」

「がってん承知の助!」

「相槌が古いよ……」


 とはいえ、沙魔美がいれば殺人犯も怖くはない。

 それでも万全を期すために、俺は細心の注意を払いながら、まずはベッドの下を確認してみた。

 が、そこには犯人の姿は見当たらなかった。

 まあ、流石にこんなところに隠れているとは、俺も思っていなかったが。

 ――しかし、事態は思わぬ方向に転がることになった。

 その後、クローゼット、トイレ、浴室と、犯人が隠れそうな場所をしらみつぶしに探したのだが、犯人はおろか、猫の子一匹見つからなかったのだ(いや、こんなところに猫がいたら、それはそれでビックリするが)。

 トイレや浴室の窓も全て鍵が掛かっており、そこから犯人が逃げたとは思えない。

 ……どういうことだ?

 これではまるで――。


「密室殺人ってところね」

「!」


 沙魔美が代わりに、そうボソッと呟いた。

 ……『密室殺人』。

 何て陳腐な響きだろう。

 もちろんフィクションの世界では、それこそ星の数程紡がれてきたワードではあるが、こうしていざそれに直面してみると、あまりにも現実感がなさすぎる。

 だが、俺達の目の前で殺人が起き、そしてその現場から犯人が煙の様に消え去ったのは、眼の逸らしようのない確固たる現実だ。

 いったい誰がこんな酷いことを……?

 いや、それ以上に疑問なのは、何故犯人はこんな手の込んだ殺し方をしたのかということだ。

 どんな方法を用いたのかは見当もつかないが、人間の胴体を短時間で真っ二つにした上に、はなむけの如く短冊まで遺体に添えるとは……。

 ん? 待てよ。

 短冊……、短冊だって!?

 その時俺の頭の中で連想されたのは、ロビーに飾ってあった『天邪鬼』の詩の一説だった。

 確かあの一行目には、『半分に欠けた月が照らす時』と書かれていた。

 そして遺体に添えられた短冊。

 まさか犯人は、天邪鬼の詩の『半分に欠けた月』という一説に見立てて、上木の胴体を半分ずつに分けたとでもいうのだろうか?

 俗に言う、『見立て殺人』てやつか?

 ……いや、それはいくら何でも穿ちすぎだろう。

 俺もミステリー小説の読みすぎなのかもしれない。

 だが、ふと窓から夜空を見上げると、そこにはあつらえたように『半分に欠けた月』――つまりは『半月』が無表情で座しており、俺にはそれが、何とも不吉な符号に思えてならなかった。

 まるでそれは天から俺達を見下ろす、天邪鬼の冷たい眼のようにも見えた。


「堕理雄」

「ん? 何だ沙魔美」


 沙魔美がいつになく真剣な表情で俺を見つめている。


「薄々勘付いてるとは思うけど、今回の話は初のミステリー長編になるから、この難事件の謎を、あなたが頑張って解くのよ。ジッチャンの名にかけて!」

「俺のジッチャンはただの植木屋だけど!?」


 父方のジッチャンはヤクザの元会長だし!(どちらかと言えば事件を起こす側か?)


「その名も『七夕山荘殺人事件』! ちなみに、例によって長編の場合は堕理雄の好きな『前回のあらすじ』はお休みよ。残念だったわね」

「だから別に好きじゃないって!?」


 『ロンドンのどんなにいかがわしい薄汚れた裏町よりも、むしろ、のどかで美しい田園のほうが、はるかに恐ろしい罪悪を生み出しているのだよ』(シャーロック・ホームズの名言その1)

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?