「堕理雄、カマセ、後は頼んだわよ」
「……ああ」
「ピッセや! まあ、メモに書かれとるモンを買うてくりゃええんやろ? こんなん楽勝やで」
「本当に大丈夫ピッセ? 少なくとも『箱入りウインナー』さんの本だけは絶対に買ってね。私本気で楽しみにしてるんだから」
「心配すなや菓乃子。えーと、『魚肉ソーセージ』の本て言うたか今?」
「『箱入りウインナー』さんよ!! もし買い逃したら、沙魔美氏に頼んで、あなたを魚肉ソーセージにしてもらうからね!」
「任せて菓乃子氏!」
「オ、オォフ……」
珍しく菓乃子も鼻息が荒くなっている。
それだけ沙魔美と菓乃子が、今日という日を楽しみにしてきたということなのだろう。
――何の因果か、俺は今、日本最大級の夏の同人誌即売会に来ている。
昨夜のことだ。
同人誌即売会の前日はいつも沙魔美は準備に忙しくて泊りには来ないので、俺は枕を高くして眠ろうと、電気を消してベッドに横になった。
すると、
「堕理雄、折り入ってお願いがあるの」
「う、うわあああっ!!」
俺の横に沙魔美が寝ていた。
「ビビビビビビックリしたあ!! なんでお前がここにいんだよ!? 明日は大事なイベントだろ!?」
「ええ、もちろんそうよ。でもね、緊急事態が起きたのよ」
「緊急事態?」
「……いつもは伝説の神獣アーティスティックモイスチャーオジサン達に、買い子(※サークル主の代わりに、同人誌などを購入する補佐要員)を頼んでるんだけど、急に身内に不幸があったらしくて、明日はお通夜で来れなくなっちゃったのよ」
「魔界にもお通夜とかあるの!?」
いや、今大事なのはそこじゃない。
ひょっとして……。
「……よもや、俺に買い子をやれとでも言うんじゃあるまいな?」
「ザッツライ。話が早いわね」
「ジーザス」
マジかよ……。
「絶対にヤだぞ俺は! 俺、同人イベントなんて行ったことないし! それに、お客さんのほとんどは女の人なんだろ!? そんなとこに俺が独りで行ったら、メチャメチャ浮くじゃねーか!」
「大丈夫よ。菓乃子氏がカマセにも声を掛けてるから、独りじゃないわ。それにお客さんの中には腐男子の人もいるから、それ程浮かないわよ」
「じゃあ尚更ヤだよ!! それって俺も腐男子だと思われちゃうってことじゃん!?」
「何よ!! イイじゃない思われたって!! それとも何なの!? 堕理雄は腐男子の人を、下に見てるっていうの!?」
「い、いや……そういうわけじゃないけど……。実際俺は腐男子じゃないんだからさ。それなのにそう思われるのは、ちょっと……何て言うか……」
「嫌だって言うの!?」
「そ、そうは言ってないけど……」
「いいえ、堕理雄はそう思ってるわ! 私にはわかる。どうせこれが、Jリーガーに間違えられるとかだったら、堕理雄はそれ程拒絶しないんでしょ!?」
「どっからJリーガーが出てきたんだよ!?」
「どうなのよ!?」
「そ、そりゃあ……Jリーガーなら、まあ……」
「ホラ見なさい! Jリーガーならオッケーで、腐男子はダメってことは、やっぱり腐男子を下に見てるんじゃないの!?」
「わ、わかったよッ!! やるよ買い子! やればイイんだろ、やれば!!」
もう自棄だ!!
「始めからそう言えばよかったのよ。本当に、堕理雄は素直じゃないんだから」
「これ以上死人に鞭打つというのかお前は……」
「じゃあ、ハイこれ、サークルチケットと地図と買い物リスト」
沙魔美は胸の谷間から、一式を取り出した。
俺はそれを渋々受け取る(ちょっと生温かい)。
「10時開場だから、それまでには遅れず現場に来てちょうだい。サークルチケットを係りの人に見せれば、設営スペースまで入れるから。買い物リストは優先度が高い順に並んでるから、上から順に買ってくれればいいわ」
「……わかったよ」
「言っとくけど、最初の30分くらいが勝負なんだから、1秒でも遅れて来たらタダじゃおかないわよ。1秒遅れるごとに、堕理雄の恥ずかしい秘密を1つ、SNSに書き込むからね」
「お前に人の心は無いのか!?」
「……堕理雄、私、どうしても同人誌が欲しいの……」
「……!」
沙魔美は急に改まった態度で、俺の前に正座をし出した。
「だからお願い、あなたの力を貸して」
そう言うと沙魔美は、俺に向かって深く頭を下げた。
……沙魔美。
いつもは常にフザけている沙魔美が、こうまで真摯な姿勢を見せるとは、本当に同人誌が欲しくて欲しくて堪らないんだな。
……ハァ、しょうがねーなー。
「大丈夫だよ。頼まれたからには精一杯やるよ。安心しろ」
「っ! 堕理雄!」
沙魔美が思い切り俺に跳び付いて来て、俺を押し倒した。
「ゴハアッ」
「堕理雄ッ! 愛してるわ!」
「わ、わかったから、離れてくれ……苦しい……」
沙魔美のスーパーヘビー級の胸が俺の顔に覆い被さっていて、息ができない。
「堕理雄……」
「な……何だよ……」
沙魔美は胸をどけずに、そのまま続けた。
そろそろマジで窒息してしまう。
「明日のイベントが終わったら、久しぶりにタップリ愛し合いましょうね」
「……」
ここ最近は沙魔美はずっと原稿に追われていたので、暫く愛し合ってはいなかった。
既に声を出すことさえ困難になっていた俺は、何とか右手でオッケーサインを出して、肯定の意を示した。
「フフフ、じゃあまた明日ね。私はまだ準備が終わってないから、家に戻るわ。おやすみ堕理雄」
沙魔美が指をフイッと振ると(胸で前が見えないので、そんな気配がしただけだが)、沙魔美は煙の様に俺の上から消え失せた。
「ブハアー! ハァー、ハァー、ハァー」
し、死ぬかと思った……。
しかしこれは随分と厄介なことになったな。
やると言ってしまった手前今更拒否するわけにもいかないが、何だか物凄く嫌な予感がする。
やれやれ。
これも惚れた弱みってやつなのかな。
俺は念のためスマホのアラームを起きる時間から10分おきに複数セットし、枕を低くして寝たのだった。
そして翌日、俺は並み居る人ゴミを掻き分け何とか沙魔美達と合流し、冒頭のシーンへと繋がるのである。
「しっかしここにおるやつら全員、魔女と菓乃子の仲間なんやろ? とんでもない人数やな。流石、納豆や味噌を発明した国なだけあるわな」
「いや、別に日本は腐った人が多いから、発酵食品が発達したわけじゃないぞ」
俺は隣を歩くピッセにツッコミを入れたが、やはり俺とピッセは雰囲気的に相当この場から浮いており、周りの視線が物凄く痛い。
ちなみに今日のピッセは、額に『腐』と書いてある。
そんなとこだけそれっぽくしても、全然ピッセは腐ってるようには見えないけどな。
もっと言えば今俺が話しているこのピッセは、ピッセ本人ではなくて、沙魔美が魔法で作った分身だ。
サークルチケットは、一つのサークルにつき三枚までしかもらえないそうなので、あぶれたピッセは始発で来て、炎天下の中一般客として外に並んでいるらしい。
ただ、最後に沙魔美がどうしても直接打ち合わせがしたいと言うので、魔法で分身を設営スペースに作ったのだ。
この分身は前に俺を基に作った分身と違って、本体と意識が繋がっているそうなので、こんな3Dテレビ電話みたいな真似もできているのである。
それにしても、開場時間が迫るにつれて、段々と不安感が増してきたな。
はあ、やっぱ安請け合いなんかするんじゃなかったな。
と、後悔のタップリ詰まったため息を、俺が零した瞬間だった。
開場を知らせる放送と共に、一般客が津波のように雪崩れ込んでくるのが遠目に見えた。
開場前から相当数の人がいたにもかかわらず、その何倍もの人の群れが押し寄せてくる光景は、国民的なアニメ映画のラストシーンでの、巨大な蟲の大群を俺に連想させた。
そして会場は一瞬にして、朝のラッシュ時の満員電車並みに人で埋め尽くされてしまったのだった。
まるでイカメシの米になった気分だ。
と、どうでもいいことを俺は思った。
「オ、オイ先輩、これ、ちいとばかしヤバないか?」
「!」
ピッセの一言で、俺も我に返った。
しまった!
確かにこれはヤバい!
完全に油断していた。
まさかここまで人が殺到するとは思っていなかった。
このままボーッとしていたら、あっという間に目当ての本が売り切れてしまう!
「ピッセ! 俺は本を買いに行く! お前もそろそろ魔法が切れて本体に戻る時間だろ? 本体がここに着いたら、ちゃんと担当分の本は買えよ!」
「あ、ああ。言われるまでもないわ」
別れ際にピッセが若干ソワソワしていたのが気になったが、今はそれどころではないと思い直し、俺は裸一貫で、腐臭が漂う戦場へと駆け出した。
さてと、買い物リストは優先度が高い順に並んでるって沙魔美が言ってたから、上から順に買っていくか。
となると、島中の『筋肉サスペンダー』ってサークルが一番上だな。
よし、まずはそこからいこう。
俺は筋肉サスペンダー目指して、人でごった返している会場をもたつきながらも進んだ。
が、筋肉サスペンダーの手前ぐらいまで来たところで、少し離れたところに長蛇の列ができている壁サーが目に入った。
何だありゃ!?
まだ開場して間もないのに、もうあんな行列ができてるのか!?
流石壁サーだな……。
しかもあのサークルは、買い物リストに入っている『毎日がエブリデイ』じゃないか。
マズいな。
これは筋肉サスペンダーよりも、毎日がエブリデイのほうから先に買うべきか?
壁サーの本が買えなかったとなったら、沙魔美からどんな仕打ちを受けるかわからない。
想像しただけで、恐怖で吐きそうだ。
幸い筋肉サスペンダーに並んでいる人はそれ程多くないし、すぐに売り切れることはないだろう。
俺は意を決して、毎日がエブリデイの列に並ぶことにした。
えーと、とはいえ、どこに並べばいいんだろう?
最後尾を求めて彷徨っていると、そのものズバリ、『最後尾』と書かれた札を手に持って掲げている人を発見した。
あそこが最後尾か!
見れば、後から並ぼうとしている人が、その札を持っている人に、「持ちます」と言って声を掛け、その最後尾札を受け取り、それをリレー形式でどんどん回していくという文化になっているらしい。
なるほど、よく考えられている。
あれなら最後尾がどこか、わかりやすいもんな。
でもこれは、みんながみんな協力的な態度を取っているからこそ、成り立つ文化だと俺は思う。
例えばこれが、パチンコ屋に並ぶ行列とかであれば、こんな文化は成立しないだろう。
ギャンブラーは良くも悪くも、こんなにお行儀が良くないからな。
最後尾札なんか、持った
それだけオタクの人達というのは、平和的で協調性がある人が多いということか。
まあ、もちろん中には、沙魔美みたいに傍若無人な振る舞いをする人もいるのだろうが。
おっと、今はこんなことを考えてる場合じゃない。
早く俺もあの最後尾札を貰わねば。
でも、知らない女の人に声を掛けるのは、若干恥ずかしいな。
まして見えている範囲で男性客は俺だけだし、絶対変な眼で見られそうだ……。
いや、それでも今はいくしかない!
俺は右手の拳を左胸に当て、心臓を捧げるポーズをキメてから、最後尾札を持っている女性の背中に、「も、持ちます!」と声を掛けた(緊張のあまり若干どもってしまったのは、大目に見てほしい)。
「あ、はい、どうぞ…………って、あれ!? 普津沢君!?!?」
「え? ………………あ。
――あろうことかその女性は、高校時代三年間同じクラスだった、梨孤田さんであった。
梨孤田さん。
頭脳明晰で容姿端麗。
いつもクラスの中心にいるような女の子だった。
平凡を絵に描いたような俺とは、対極に位置する人物だ。
だが、成績学年一位の座を菓乃子に奪われてから、彼女は菓乃子をイジメるようになってしまった。
当時菓乃子に片想いしていた俺は何とか菓乃子を助けようと、ナイフで脅すという、今思うと最低な手で無理矢理イジメをやめさせた。
それ以来梨孤田さんとは、ろくに口も利いていない。
まあ、心の底から憎まれているであろうことは、想像に難くないが。
しかし、まさかこんなところで梨孤田さんに会うとは。
梨孤田さんも腐ってたってことか……?
どうしてこう、俺の周りには腐った人が多いのだろう?
それとも今の世の中は、俺が思っている以上に、腐った人で溢れているということなのだろうか……。
「ふ、普津沢君が、どうしてここに……?」
「あ、えーと、その……」
梨孤田さんは山奥で熊に遭遇したみたいな、絶望にまみれた顔をしていた。
そりゃそうだよな。
ただでさえこういう場所で知り合いと会うのは気まずいだろうに、それが俺みたいな忌み嫌っている相手ともなれば尚更だ。
あっ!
今気付いたけど、これって俺が、腐男子だって勘違いされてることにもならないか!?
いや、別に勘違いされるのが嫌なわけじゃないんだけど……。
なるべくなら、あらぬ誤解を招くのは避けたいというのが本音だ。
とはいえ、彼女に頼まれて買い子をしてるなんて、いかにも嘘臭いしな……。
それに、この会場に菓乃子がいることも、梨孤田さんには知られないほうがいい気がする。
あれから何年も経っているとはいえ、この二人の溝が埋まっているという保証はないし、鉢合わせになってしまう事態は避けたい。
どうしたものか……。
「ち、違う……違うの……」
「え?」
だが、梨孤田さんは俺のそんな思惑に反して、突然何かを弁解し始めた。
違う? 何が違うというのだろう?
「わ、私は決して、腐ってるわけじゃないの……。お願い……信じて、普津沢君」
「梨孤田さん……」
別にこの期に及んで、そんなバレバレの噓をつかなくてもいいのに……。
むしろ俺なんて、元カノも今カノも腐ってるんだし、腐ってる人に対して欠片も偏見なんかないよ?
「お願い……信じてーーー!!!」
「梨孤田さん!?」
梨孤田さんは俺に最後尾札を投げつけると、そのままどこかに走り去ってしまった。
「梨孤田さーーーん!!」
ハッ!
しまった……。
こんな場所で、大声で知り合いの本名を呼ぶやつがあるか!
例えが悪いが、ある意味ここは仮面舞踏会みたいな場所で、みんなプライベートを隠して、大人の趣味を楽しんでいるというのに。
案の定周りの人は一斉に、何事かと俺のほうを訝しい眼で見てきた。
嗚呼……。
これ後で絶対、みんなに話のネタにされるやつだ……。
本当にゴメン梨孤田さん!
謝って許してもらえるとは思ってないけど、それでも心の中だけでは謝ります!
「すいません、持ちます」
「あ、はい」
今度は俺が声を掛けられる側になり、俺はそそくさと最後尾札を、後ろの人に渡した。
な、長い……。
売り場はまだなのか……。
既に俺が列に並んでから、30分近くが経っている。
しかも俺の後方にも、最後尾が見えないくらいの大人数が並んでいる。
大手の壁サーともなれば、こんなにも絶え間ない行列ができるものなのか……。
壁サー半端ないな。
沙魔美のサークルもこれくらい人が並んでるのかな?
ここからじゃ沙魔美のスペースは見えないが、もしそうなんだとしたら、俺の彼女は意外と凄いやつなのかもしれない。
かといって、何かにつけて監禁しようとしてくることを許す気にはなれないが。
と、その時だった。
やっっっと俺は売り場まで辿り着いた。
長かった……。
後は本を買えば、最初のミッションは終了だ。
俺は小声で、売り場のおねえさん(この人が作者さんなのかな?)に、「二冊ください」と声を掛けた(沙魔美と菓乃子、二人分だ)。
が、
「はい。どちらの本でしょうか?」
「え」
思いもよらない言葉が、おねえさんの口から飛び出した。
どちら、とは?
ふと下を見ると、テーブルの上には、二種類の本が置かれていた。
あっれ!?
買い物リストには、このサークルは一冊しか本を出してないって書いてあるのに!?
沙魔美のやつ、書き間違えたのか!?
でも、リストに書いてあるのは、左側に置かれてる『淫猥アロマテラピー』ってやつだけだよな。
沙魔美から多めにお金を預かっているとはいえ、余計な本は買わないほうがいいか。
「じゃあ、こっちの本をください」
「はい、二冊で1000円になります」
俺は淫猥アロマテラピーだけを買い、売り場を後にした。
何にせよ、これで記念すべき一冊目の同人誌ゲットだぜ!(永遠の10歳並感)
が、ここで早くも俺は窮地に立たされた。
今の行列で時間を食いすぎたせいで、筋肉サスペンダーの本が売り切れてしまっていたのだ。
そ、そんな!?
それ以外にも、買い物リストに書いてある島中サークルの本は、いくつか売り切れており、俺は全身から嫌な汗が噴き出てくるのを感じた。
ヤバい。
ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい。
このままじゃ沙魔美に殺される……。
せめて、壁サーの本は買い逃さないようにしないと。
俺は急いで今いる位置から一番近い、『ムーランムッシュ』という壁サーの行列に並ぶことにした。
二回目ともなれば慣れたもので、俺は先程よりもスムーズに、最後尾札を受け取ることに成功した(この程度で悦に入っているようでは、沙魔美に鼻で笑われそうだが)。
ここでもまた30分近く、ただ立っているだけという修行に耐えることになったが、殺されるよりはマシだと割り切って、心を無にして順番を待った。
が、ここでも再度、俺を悲劇が襲う。
何と俺は、間違って隣の列に並んでしまっていたのだ。
それに気付いたのは、俺が売り場に着く直前のことだった。
流石に今から列を外れるのは、作家さんに対して失礼過ぎる。
……致し方ない。
このサークルはリストには書いてないサークルだけど、買うだけ買っておこう。
本のタイトルは、『調教師VS裏調教師』か。
凄いタイトルだな……。
まあいい。
俺は調教師VS裏調教師を買った直後、急いで隣のムーランムッシュの列に並び直し、また30分間の修行に耐えたのだった。
その後も俺は悪戦苦闘しながらも東奔西走し、全ての仕事を終えた頃には、大分会場も閑散としてきていた。
既に撤収しているサークルも、チラホラ見受けられる。
結局俺は、買い物リストに書いてある内の、半分程しか本は買えなかった。
ああ……沙魔美に会いたくないなあ。
でも、何とか壁サーの本は全部買えたし、その点だけは、褒めてくれてもバチは当たらないんじゃないかな?
俺は恐る恐る忍び足で、腐海の魔女のスペースまで戻った。
「アッ! 堕理雄! どうだった!?」
ちょうどお客さんが途切れた沙魔美は、俺を見付けるなり、眼を爛々と輝かせて、今日の成果を聞いてきた。
隣にいる菓乃子も、似たような顔をしている。
「あ、うん。……それが」
「!」
その一言だけで沙魔美は全てを察したらしく、たちまち長い髪の毛を逆立たせて、般若の様な顔になった。
「ま、待ってくれ沙魔美ッ!! これには深い
「……ホウ。一応聞きましょうか。言ってごらんなさい」
沙魔美は般若の形相を維持したまま、俺に詰問してきた。
「……実は最初、毎日がエブリデイさんのスペースに並んだんだけど、そこで30分くらい時間を取られちゃって、その間に結構な数の本が売り切れちゃったんだ」
「ハアアッ!?!? 何ですって!?!?」
「今の話、本当!? 堕理雄君!?」
「え? ……うん、本当だけど……」
え? 何? 何?
俺何か、悪いことでも言った?
30分待ったのは不可抗力なんだから、そこはそんなに責められるとこじゃなくない?
だってそこで俺が並ばなかったら、毎日がエブリデイの本は買えなかったかもしれないんだから。
それなのに、沙魔美だけならまだしも、菓乃子にまでそんなリアクションをされるなんて……。
「なんで壁サーに最初に並ぶのよ!? 壁サーは大抵多めに本を刷ってるから、後回しでも十分買えるのよ!!」
「え!? そうなの!?」
「それよりも一番貴重なのは島中の人気作家の本よ! 島中の人は100部くらいしか刷らない人も多いから、ある意味倍率は一番高いのよ!!」
「そ、そんな……」
知らなかった……。
てっきり壁サーの本が、一番貴重なものだとばかり……。
「今回で言えば、筋肉サスペンダーさんの本が一番の希少品よ! もちろんそれは買ってくれたわよね? 買い物リストの一番上に書いておいたものね!」
「!!」
何てことだ……。
最初に毎日がエブリデイとどちらを買おうか迷った筋肉サスペンダーの本が、それ程の一品だったとは。
「す、すまん……。俺が行った時には、既に売り切れてたんだ……」
「マジかよーーー!!!! 鼻血が出る程楽しみにしてたのによーーー!!!!」
沙魔美は鼻血どころか、血の涙を流しながら嘆き悲しんだ。
「……ごめん、堕理雄君。今回ばかりは、私も擁護できないよ」
「菓乃子……」
菓乃子は氷の様に冷たい眼を、俺に向けてきた。
そんな……。
普段はあんなに優しい菓乃子まで……。
それだけ同人誌というものには、人を狂わせる魔力があるということなのだろうか。
これは梨孤田さんと会ったことなんて、口が裂けても言わないほうがいいな。
「もういいわ!! とりあえず戦利品を全部渡してちょうだい!!」
「あ、ああ……」
俺はビクビクしながらも、戦利品が入った袋を沙魔美に手渡した。
沙魔美は袋をふんだくると、眼を血走らせながら一冊一冊本を確認していった。
が、ある本を見たところで、沙魔美の動きがふと止まった。
それは、毎日がエブリデイの淫猥アロマテラピーだった。
何だ?
あの本がどうしたっていうんだ?
「……堕理雄、確か毎エブさんは今朝、ギリギリ間に合ったからって、12ページ100円の突発本も追加で出したってポストしてたんだけど、それは買ってくれなかったの?」
「え」
……あっ!
あの時のもう一冊のほうか!
「い、いや、だってそれは……買い物リストに書いてなかったし……」
「ハアアアアアアアッ!? 書いてなくたって突発本はとりあえず買っとくのが常識でしょ!? そんなこともわからないの!?」
「わからないよッ!? 俺は今日、初めてここに来たんだから!」
「……ごめん、堕理雄君。今回ばかりは、私も擁護できないよ」
「菓乃子……」
菓乃子が、『……ごめん、堕理雄君。今回ばかりは、私も擁護できないよ』ボットになってしまった……。
同人誌は魔物や。
有明には魔物が住んでるんや(唐突な関西弁)。
「堕理雄、よく覚えておきなさい。『迷ったら買う』。これが同人誌を買う時の鉄則よ」
「はあ……」
まったく人生で役に立たない至言が聞けて、俺は幸甚の至りだよ。
ん? 待てよ。
そうだ!
あるじゃないか一冊だけ!
俺がリストに書いてない本で、買った本が!
俺は沙魔美が持っている袋から、間違って並んで買った調教師VS裏調教師を取り出して、沙魔美に見せた。
「沙魔美、これは俺が咄嗟の機転で買った本なんだぜ!」
本当はただ並ぶ場所を間違えただけだが、壁サーの本だし、文句はあるまい。
「なっ!? ヒ、ヒイィーーー!!! 堕理雄!! 何よその本は!?!?」
「は?」
沙魔美は空気をつんざくような悲鳴を上げた。
え? え? え?
どうしたどうした?
「いや、何って……壁サーの本だけど」
「そういうことを聞いてるんじゃないわよ!!あなたそれ、
「え……」
そ、そんなバカな!?
「でも、これ、リストに書いてあったサークルの、隣のスペースで売ってたんだぜ!?」
「ちょうどカップリングの境目に配置されたサークルの場合は、隣が逆カプになることもあるのよ!! こんなこと、今時
「それは流石に盛りすぎだろ!?」
そもそもJSじゃ、R18の同人誌は買えないだろ!?
まあ、多魔美なら知っていてもおかしくはないが……。
「……ごめん、堕理雄君。今回ばかりは(ry」
「菓乃子……」
遂に略すようにまでなってしまった……。
おかしいなあ……。
俺は精一杯やったつもりなのに、どうしてこんなことになっちゃったんだろう。
「もうッ! これは私の戦利品に加えたくないわ! 責任を持って、堕理雄が持って帰ってちょうだい!!」
「ええっ!?」
沙魔美は調教師VS裏調教師を、俺に押し付けてきた。
……えぇ。
どんな罰ゲームだよこれ……。
こんなのを持ってるところを万が一梨孤田さんにでも見られたら、今度こそ言い逃れはできなくなるぞ。
「オーウ! 今戻ったでー」
「「「!!」」」
その時、ピッセの能天気な声が、後ろから聞こえた。
振り返るとピッセがヘラヘラしながら、その場に立っていた。
そういえばこいつ、会場内では一度も見掛けなかったけど、どこで買い物してたんだろう?
「ピッセ! あなた
っ!?
菓乃子がサラッと俺をディスりながら、ピッセに詰め寄った。
菓乃子……。
「ああー、それがのー」
「あれ? あなたなんで、手ぶらなの?」
確かにピッセは手ぶらで、右手にスマホを握っているだけだった。
「それが聞いてくれや菓乃子。実はウチ、開場した途端、トイレ行きたくなってもうてなー」
「「「!?」」」
ま、まさかこいつ……。
「ほんでしゃーないからトイレ行ったんやが、それはそれはネズミーランドの人気アトラクション並みに混んどってな。やっとの思いでトイレから出てきたら、粗方本は売り切れとったんや」
「「「……」」」
「そんでどないしよーかなーって悩んどったら、何やらコスプレの会場とかもあるらしいってことを、小耳に挟んでな」
「「「……!」」」
「せやから、いっそ本はスッパリ諦めて、ナイスバディなエロい格好したネーチャン達を、このスマホでぎょーさん撮りまくる作戦に変更したんや」
「「「!?!?」」」
「ホラ、これ見てくれや。このネーチャンなんか、ちょっと菓乃子に似とるとは思わんか?」
「………………沙魔美氏」
「任せて、菓乃子氏」
「ハ?」
沙魔美が右手を振ると、右手の爪が五本とも一メートルくらいの長さに伸びた。
ヤ、ヤバい!
ピッセが魚肉ソーセージにされてしまう!
「逃げろ! ピッセ!!」
「アア、確かにこりゃ、雲行きが怪しい感じやな。ヨッシャ、一緒に逃げるで先輩!」
「何!?」
ピッセは俺のことを米俵みたいに片手で肩に担ぐと、そのまま物凄いスピードで駆け出した。
「ちょっ!? なんで俺まで一緒に連れてくんだよ!?」
「ハッハッハ、何や先輩も魔女に怒られとる様子やったから、ウチが気を利かせてやったんやないけ」
「お前と一緒に逃げたら、余計後で怒られるよッ!」
「待ちなさいよ、この、役立たずコンビがああああ!!!!」
「!?」
沙魔美も疾風の様な速さで、俺達を追い掛けてきた。
俺とピッセを同じ括りにするのはやめてくれないかな!?
俺はピッセよりは大分マシだっただろ!?
「あ、普津沢君!?」
「あ」
その後会場を出た辺りのところで、爆乳の褐色女に担がれながら、手にはシッカリと調教師VS裏調教師を握り締めている姿を、梨孤田さんにバッチリ目撃されてしまったのだった。
――もう二度と買い子なんてやるもんかと、俺が心に強く誓った瞬間である。