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第119魔:お好み焼き

『社長秘書病野沙魔美の苦悩  ~私の彼はお好み焼き好きのドS社長~』



「普津沢社長、失礼いたします」

「うむ。おはよう病野君」


 沙魔美は今日も皺一つないスーツに身を包み、フチなしメガネを右手でクイと上げながら、社長である普津沢に今日一日のスケジュールを告げた。


「本日は10時から重役会議、14時から開発部で新商品のプレゼンテーション、19時から一跳ぴんはね商事の施苦原せくはら会長と会食となっております」

「うむ、わかったよ。今日も一日よろしく頼む」

「承知いたしました」

「……ところで病野君」

「? ……はい、何でしょうか社長」

「昨日食べたお好み焼きは、とても美味しかったね」

「っ!」


 急に何を言い出すのよこの人……!?

 会社内で、そんな……お好み焼きのことなんて……。


「フフ。普段は理知的で何事もそつなくこなす君が、あんなにあられもなくお好み焼きを頬張って。――その上、口元に鰹節まで付けていたね」

「しゃ、社長!」


 嗜虐的な眼で普津沢に見つめられると、沙魔美の中に昨夜の記憶が浮かんできて、全身が熱くなった。

 ……昨日の私はどうかしていた。

 あんなにも食欲本能の赴くままに、お好み焼きを口いっぱいに含んでしまうなんて……。

 でも、会社にいる時の冷静で凛とした姿とは真逆の、荒々しく野性的な普津沢の作るお好み焼きは媚薬にも似た吸引力があり、気付いた時には目の前のお好み焼きを全て胃に収めてしまっていた。

 今思い返してもあまりの自分の醜態に、沙魔美は自分の頬が紅く染まっていくのを自覚せざるを得なかった。


「いやいや、何も恥ずかしがることはないじゃないか。僕達はただお好み焼きを食べただけなんだから」

「……ですが社長、家にいる時とは違って、今の私達は社長と秘書という関係です。そういったプライベートな話題は慎むべきかと存じます」

「フフ、君は本当に真面目だね。……しかし困ったな、昨日の君を思い出したら、僕はまた食欲が湧いてきてしまったよ」

「……え」


 すると普津沢はにわかにネクタイをグイと緩め、どこからともなくホットプレートを取り出した。


「しゃ、社長、いったい何を!? ここは会社ですよ!?」

「まあまあ、いいじゃないか。重役会議までは、まだ時間があるだろう?」

「そんな……」


 そう言いながら普津沢は慣れた手つきで包丁、まな板、キャベツ、卵、お好み焼き粉などを机の上に並べていく。

 本当にこんなところでお好み焼きを作るつもりなんだ……。

 こんな現場、もし他の誰かに見られたらどうするつもりなのだろう……。

 だが、そう考えれば考える程、沙魔美は自分の身体の芯から熱いマグマの様なものが溢れ出てくるのを感じた。

 バ、バカな……!

 そんなことを妄想して身体を熱くしているなんて……そんなのただの変態じゃない!

 違う! 私は断じて違うッ!

 沙魔美は必死に、自分の中のギラギラとした食欲本能と戦っていた。


「さてと、まずはこれからかな」

「え……」


 しかし普津沢はそんな沙魔美には目もくれず、丸くツヤツヤしたハリのあるキャベツを左手で鷲掴みし、まな板の上に押さえつけた。


「社長……。ダメですこんなところで……社長……」

「フフフ、そおれ!」

「嗚呼ッ!」


 普津沢は無慈悲にキャベツを刻み始めた。

 包丁とまな板がぶつかり合い、トントントンと規則的で淫靡な音が部屋中に響き渡る。


「嗚呼……社長……それ以上はおやめください……。それ以上は……もう……」

「フフフ、まだまだぁ!」

「社長ォッ」


 尚も普津沢はキャベツを刻む速度を上げた。

 まな板の上には見る見るうちに大量の切り刻まれたキャベツが積み上がってゆく。


「――フウ。流石に僕も少し疲れてきたな。どれ、次は君がこのキャベツを切ってみなさい」

「え、私がですか!?」


 そんな……、私にそんな……はしたないことをしろと……?


「僕の命令が聞けないのかい?」

「……っ!」


 普津沢は有無を言わせぬ口調で包丁を差し出してくる。

 心臓を突き刺す様な冷たい眼でそう言われると、沙魔美にはもう抗う術は残っていなかった。


「わ……わかりました」


 沙魔美は震える手で包丁を握った。

 今の今まで普津沢が握っていた包丁の柄はまだほんのりと温かく、普津沢の体温をその身で感じているようだった。


「さあ、最初はゆっくりでいいからね」

「は、はい……」


 沙魔美は恐る恐る、トン、トンと慎重にキャベツを刻み始めた。


「フフフ、いいぞ、上手いじゃないか。君のこんな姿を、他の男性社員が見たらどう思うだろうね?」

「や、やめてください……」


 沙魔美は羞恥心で押し潰されそうになりながらも、一度キャベツを刻み出した手はとまらなかった。


「あぁ……ああぁ……」


 沙魔美は息を荒げながら、次々にキャベツを刻んでいった。

 我に返った時には、キャベツは残らず微塵切りになっていた。

 嗚呼……、こんなに大量のキャベツを自分が刻んだのか……。

 沙魔美の中で背徳感と達成感がないまぜになって、自分の心が今どんな色をしているのか、沙魔美自身でさえ判別がつかなくなっていた。


「フフ、これでやっと準備ができたね。……じゃあ、混ぜるよ」

「っ! ま、待ってください社長! 私まだ、キャベツを切り終わったばかりで――」

「いいや、待たないね」

「……っ!」


 普津沢は沙魔美の制止を押し切り、ボウルにお好み焼きの生地やキャベツ、豚肉などを無造作に投げ入れ、そのまま容赦なく混ぜ始めた。


「社長ォ……。ダメです……社長ォォ……」

「フフフ、見てごらんよ病野君。どんどんと具材達が一つになっていくよ!」

「嗚呼……。そんな……見せないで」


 沙魔美の目の前で、様々な具材達が滅茶苦茶にかき混ぜられてゆく。

 そこには食材としての尊厳など微塵も感じられない、圧倒的な力による支配だけが存在していた。

 沙魔美は食材達が無情に混ぜられてゆく光景を、ただただ色を失った瞳で見つめていた。


「……よし、後はこれを焼けば完成だ」

「……」


 ここまで来ればもう、沙魔美は無言で事の成り行きを見守ることしかできなかった。

 ……いいや、正直に白状してしまおう。

 本当は求めていた。

 心の底から、熱いお好み焼きを求めていた!

 早く……早くお好み焼きが欲しいッ……!

 沙魔美の頭の中は、今やお好み焼きでいっぱいだった。


「よく見ているんだよ」

「……はい」


 普津沢は一思いにホットプレートの上に具材を落とした。

 ホットプレートは熱々に熱せられており、ジュワァという蠱惑的な音が具材から漏れた。

 嗚呼……焼き上がっていく……。

 お好み焼きが焼き上がっていく……。

 お好み焼きから湯気が上がるたび、沙魔美の中の理性も沸々と蒸発していくのがわかった。

 ――しかし、いざお好み焼きをひっくり返す段になった刹那、


「よし、病野君――今日は君がこのお好み焼きをひっくり返すんだ」

「えっ」


 普津沢が太くて固いヘラを、沙魔美の手に握らせたのだった。


「そ、そんなッ! 無理です! 私、そんなことできませんッ!」

「いいからやるんだ。それとも君は、このお好み焼きが焦げてしまってもいいと言うのかい?」

「そ、それは……」


 何て残酷なヒトなの。

 お好み焼きをひっくり返すか焦がすかの決断を、私に委ねてくるなんて……。

 そんなの…………私がひっくり返すしかないじゃない!


「……わかりました。やります」

「フフフ、イイ子だね」


 普津沢は沙魔美の背後に回り、沙魔美の肩に両手を置いて耳元で優しくこう囁いた。


「いいかい? チャンスは一度だけだ。躊躇わずに、一思いにひっくり返すんだ」

「は……はい」


 沙魔美は緊張と快楽で心臓が張り裂けそうだった。


「3、2、1でいくよ。君も息を合わせて」

「はい……」


 嗚呼……ひっくり返す。

 私は今から、お好み焼きをひっくり返す……!

 沙魔美は今にも決壊しそうになる感情を必死に抑え、その時を待った――。


「3、2、1……今だ!!」

「はいッ!!」


 沙魔美は渾身の力でお好み焼きをひっくり返した。

 お好み焼きは綺麗な半円を描き、裏返って再びホットプレートに着地した。

 その表面は、キツネ色の焼き目で艶やかに装飾されていた。

 それはまるで、今の沙魔美の心そのものだった。


「ハァ……ハァ……ハァ……」


 沙魔美は心身共に果て、普津沢に寄りかかった。


「……よく頑張ったね。君のお陰で、とても美味しそうなお好み焼きが出来たよ」

「……社長」


 先程までの厳しかった普津沢とは打って変わり、菩薩の様な笑みで普津沢は沙魔美の頭を撫でた。


「では、冷めない内に食べようか」

「……はい」


 沙魔美と普津沢は、二人で仲睦まじくお好み焼きを食べた。


 重役会議には遅刻した。



 ~fin~







「……沙魔美、何だこれは?」

「久しぶりだと、お好み焼きってどう作るんだっけってなるでしょ? だから作り方を忘れないように、お好み焼きを作る過程を小説にしてみたの」

「逆に覚えらんねーよ!? 内容が作為的すぎるだろ!!」

「まあまあ、でも何だか本当にお好み焼きが食べたくなってきちゃったわね。今から一緒にお好み焼きを作りましょっか」

「え」


 ……それは、どっちの意味で?

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