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第122魔:九九

『担任教師は義理の兄!?  ~私とお兄さんの秘密の個人授業~』


「おや? 夜田さん、まだ残っていたんですか。とっくに下校時刻は過ぎてますよ」

「あっ! す、すいません、普津沢先生」


 教室に独り不自然に居残っていた真衣に、担任である普津沢は優しく声を掛けた。


「私も今から帰るところですから、一緒に帰りましょう」

「……」

「……?」


 しかし真衣は、その場から動くつもりはなかった。

 今日こそは普津沢にあることを言うと心に決めていたのだ。


「夜田さん、どうかしましたか?」

「……普津沢先生――いえ、お兄さん」

「っ! ……夜田さん、学校では普津沢先生と呼びなさいといつも言っているでしょう」

「すいません。……でも、今だけはお兄さんと呼ばせてもらえませんか?」

「……何かあったんですか」

「……」


 真衣は意を決して、口を開いた。


「…………かけ算九九を、お兄さんに教えてほしくて」

「……っ!!」


 普津沢が目を見開くのが横目に見えた。

 それも当然だろう。

 真衣と普津沢は、生徒と教師である以前に、義理の兄妹でもあるのだ。

 それなのにかけ算九九を教えてほしいなど……本来ならあってはならないことだ。

 だが、一度秘めたる想いを口に出してしまった以上、もう真衣は後には引けなかった。


「本当はずっと前から、お兄さんに九九を教えてほしかったんです」

「……本気で言ってるんですか、夜田さん――いや、真衣ちゃん」

「っ!」


 真衣のことを名前で呼んだ普津沢の眼は、教師のそれではなかった。

 かと言って兄のものでもない。

 強いて言うなら九九のけもの

 普津沢は野に放たれた野性の九九の獣の眼光で、真衣を射竦めていた。

 真衣は全身が打ち震えるのを感じた。

 だが、それは恐怖からではない。

 これから普津沢に九九を教わってしまうのだという背徳感からくる、歓喜の震えだった。


「私は本気です」


 真衣は普津沢を真っ直ぐ見て言った。


「――わかりました、いいでしょう。でも、本当に後悔しませんね?」


 そう言われた刹那、真衣の頭に女手一つで自分を育ててくれた母と、普津沢の実の父でもある義理の父の顔が浮かんだが、真衣はそれを必死に振り解いた。

 ……ごめんなさいお母さん、お父さん。

 私は今日、お兄さんから九九を教わります。


「……はい。私を九九マスターにしてください、お兄さん!」

「フフフ、まさか真衣ちゃんとこんな関係になってしまうとはね」


 普津沢は自嘲気味に微笑んだ。


「……お兄さん」

「――ではまずは、ノートを開きなさい」

「っ!」


 普津沢の口調が、一転して氷の様に冷たいものに変わった。

 そこにはいつもの優しさは、微塵も感じられない。


「どうしたんですか? 九九を勉強するにはノートが必要でしょう? 早く開きなさい」

「こ……ここでですか?」


 そんな……お兄さんの目の前で、ノートを開くなんて……。


「それとも私が開いてあげましょうか?」

「い、いえ! 大丈夫、自分で開けます!」


 お兄さんの手で開かれでもしたら、恥ずかしくて死んじゃうッ!


「フフ、イイ子ですね」

「……」


 真衣はたどたどしくも、震える手でノートをゆっくりと開いた。


「おやおや、これはいけませんねえ。ノートが真っ白じゃないですか」

「す、すいません……!」


 ああ……見られちゃった。

 私の何も書いてないノートが、お兄さんに見られちゃった……!

 真衣は普津沢からの責める様な視線を全身で受け、今にも悶え死にそうだった。


「フフ、まあ、何も書かれていないノートに私が書き込むというのも一興です。今日は特別に許しましょう」

「あ……ありがとうございます」


 書き込む……。

 ……そうだ、今からこのノートはお兄さんに書き込まれるんだ。

 私の真っ白なノートが、お兄さんの字で埋め尽くされる……。

 そう夢想しただけで、真衣の中に生まれて初めてある感情が芽生えた。

 だが、今の真衣にはその感情が何という名前なのかを知る術はなかった。


「それではさっそく九九を教えていきます。――先ずは三の段からです」

「えっ!?」


 三の段……!?

 いきなり!?

 普通は一の段からじゃないの!?


「どうしました? 三の段からでは嫌なのですか? ……でしたらもうこの授業はここでお終いですね」

「っ! 待ってくださいお兄さん! ……さ、三の段からでいいです」


 真衣が頷くと、普津沢はニヤリと口角を上げた。


「真衣ちゃんは素直で本当にイイ子ですね。――では私に続いてください」

「……はい」


 ああ……始まる。

 私とお兄さんの九九が、本当にここから始まるんだ。


「サンイチガサン」

「サ……サンイチガサン」

「サンニガロク」

「サ……サンニガ……ロクゥッ!」


 な、何これッ!!

 凄いッ!!

 身体の中に、三が流れ込んでくるゥ!!


「サザンガク」

「サザン……ガ……ク」


 もうダメッ!

 もう次で二桁になっちゃうッ!!

 だが普津沢は容赦なく三の段を続ける。


「サンシジュウニッ!」

「サ、サンシ……アアアッ!」


 やはり真衣に二桁は耐えきれなかった。

 ただでさえ真衣は体つきが人よりも小さい。

 その雛の様な体躯では、いきなり二桁を受け止めきれるわけがなかったのだ。


「ハァ……ハァ……」


 真衣は全身から汗を滴らせながら、机に伏せてしまった。


「フフフ、情けないですね。まだ三の段は始まったばかりだというのに」

「ご……ごめんなさいお兄さん」

「いいえ、許しません」

「……え?」

「このまま七の段に突入します」

「おっ、お兄さん!?」


 そんなッ!

 三の段でさえこんななのに、最難関とされる七の段なんてッ!!

 そんなの絶対私、耐えられない……!


「お兄さん……ごめんなさい、私が悪かったです。だから……どうか……」

「シチイチガシチ」

「っ!!」


 真衣の涙ながらの懇願も無視して、普津沢は七の段を始めてしまった。


「どうしたんですか? さあ繰り返しなさい。――シチイチガシチ」

「シ……シチイチガシチ」


 ……っ!!

 ズクン、と真衣の中に七が流れ込んできた。

 くうううぅ。

 す……凄い。

 三とは比べ物にならないよ……。

 ……でも、全然嫌な感じじゃない。

 むしろ、三よりも七のほうが明らかに数字が大きい!

 もっと……もっとお兄さんの七が欲しいッ!


「シチニジュウシ」

「シチニ……ジュウシ」


 もう二桁を超えちゃった……。

 でももう私は怖くない。

 お兄さんとだったら、たとえ三桁だって超えられる……!


「シチサンニジュウイチ」

「シチ……サンニジュウイチ」

「フフフ、そうそう、段々慣れてきたみたいですね」

「……はい」

「では少しペースを上げますよ! シチシニジュウハチ!」

「シ、シチシニジュウハチ!」

「シチゴサンジュウゴ!」

「シチゴサンジュウゴォッ!」

「シチロクシジュウニィ!」

「シチロク……シジュウニイイィッ!!」


 満たされていく……。

 私の中が、お兄さんの七で満たされていく……!

 真衣は理性も何もかもをかなぐり捨てて、兄の七のプールに飛び込んだ。


「シチシチシジュウク……」

「ハァ、ハァ……シ、シチシチシジュウク」

「シチハゴジュウロクゥ!!」

「アアアッ! シチハゴジュウロクゥゥッ!!!」


 クる……。

 遂に終わりがクる……!


「フフフ……最後は一緒に言いますよ。いいですね?」

「……はい、お兄さん」


 今、私とお兄さんの七が一つに――。


「「シチクロクジュウサアアアアアンンンッッ」」


 真衣の中の、七が弾けた。


「あ……あぁ……はあぁ……」

「よく頑張りましたね、真衣ちゃん」

「お兄さん……」


 虚脱感でいっぱいの頭で辺りを見渡すと、そこは真衣の七で溢れかえっていた。

 どうしよう……。

 これをクラスのみんなに見られたら、絶対九九をやってたってバレちゃう……。

 ……でもいっか。

 だって私は今日、お兄さんの手で九九マスターになったんだもん。


「さて、と――では次は八の段です」

「……え」


 普津沢は真衣の耳元で囁くようにそう言った。

 どうやら真衣と兄のかけ算九九は、まだまだ始まったばかりのようだ。


 そんな二人の秘密の個人授業を、夕陽だけが見ていた。



 ~fin~







「……真衣ちゃん、何だいこれは?」

「久しぶりだと、九九ってどんなだっけってなるじゃないですか? だから九九を忘れないように、小説にしてみたんです」

「いや流石に九九は忘れないでしょ!? それに内容が内容だけに、全然九九が頭に入ってこないよ!!」

「えっ!? それってつまり、お兄さんもその気になってくれたってことですか!?」

「その気って何!?」

「じゃあ今から早速、私と九九をやりましょう!」

「やらないよッ!!」


 ……いや、本当にやらないからね?

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