このような情勢のため、秀満の方からも援軍を送ろうかと度々使者を出していたが、光秀はそれを頑なに拒んだ。
それからも慌ただしい日が続き、ようやく運び終えたのは六月十日であった。
秀満は安土を放棄し、海運にて坂本城へ移動すると、兵らに出陣準備を怠らないよう指示を出し、自身も甲冑を纏ったまま待機し、間者の持ち寄る情報を精査していた。
六月十三日。
京、山崎の地で羽柴軍と光秀軍がついに衝突した。
秀満の予測よりも数日早い開戦に戸惑いながらも、合戦の続報を待つ。
やはり明智に味方する勢力は少なく、兵力も倍以上の差があると思われ、秀満は気が気ではなかった。
届く情報は最初に優勢を伝えただけで、以降は明智軍劣勢のもののみ。
最後に光秀勝竜寺城に退却の報が届き、秀満は後詰めのために出陣の決意をした。
翌朝、秀満はまだ明るくならない内に軍を動かした。
そこへ、光秀が勝竜寺城を脱出し坂本へ戻ると使者が到着した。
秀満は使者を労ると軍を急がせた。敗戦となると落武者狩りや、逃げる武将から装飾品を強奪する盗人といった輩が横行する。
光秀は信長を裏切り、討った武将として余計に注目を浴びるのは火を見るよりも明らかだ。
義父であり主君である光秀をそれらからなんとしても守り通さねばならない。
だが、秀吉の方が一枚上手であった。
坂本から僅かに進んだ打出浜にて、秀吉方の軍勢と出くわしたのである。
率いる武将は蘭丸以前に信長の寵愛を一身に受けた美男子、
この軍の本来の目的は光秀の捜索と、坂本への逃走路を塞ぐための近江派遣であった。
「謀叛人の一族明智秀満を討ち取らば恩賞は思いのままぞ」
この秀政の一声に、戦勝に勢いづく軍団は、軍功を挙げる機会とばかりに、激しく攻撃を開始してきた。
秀満軍は無傷ではあったし、山崎の敗戦と光秀敗走が影響していたものの戦意はけして低くない。
それでも、疲労も忘れるほどに士気が高揚している堀秀政軍に一蹴されてしまった。
秀満軍は容易に崩れ、坂本へと敗走を始めた。秀政軍はさらに勢いづき、我先にと追走してくる。
秀満軍は破竹の如き勢いの追撃からなんとか逃れると、坂本城の門を固く閉じ、援軍の当てのない籠城戦へと突入した。
秀政は城の周囲に軍を展開し果敢に挑発をする。
秀満自身はそれしきのことで揺らぐことはないが、兵や非戦闘員の精神的な消耗は激しい。
やがて光秀死亡の報が堀軍から伝わると逃亡、投降する兵が一気に増えだした。
これ以上の抵抗は不毛と、秀満は秀政に条件付きで降伏の使者を派遣した。
秀満の出した条件は、城兵の命と城内の女子どもの命を助けること。それと安土から引き上げた茶器等の家宝と坂本城の家宝を引き渡すことであった。
秀政はこの条件をあっさりと受け入れ、城兵に財宝を運ばせるように返答の使者を送る。
秀満は、坂本城の全ての財宝を堀軍に引き渡した後、降伏する旨を城兵や家人らに説明した。
兵や家臣らは力無く崩れ落ち、または泣き、悔しがり、あるいはほっとした、と様々な表情を見せた。