謙信が指示を出すとすぐに、左右両隊がそれぞれ兵を進めた。
景家はやり返すつもりで張り切り、半兵衛隊を追い抜くかの勢いで一路驀進した。
軍神動く。半兵衛は逃げる際も後方の情勢確認を怠らなかった。
景家相手ならば、真っ正面からぶつかる戦でない限り、苦戦しようが何しようが勝てると自負していた。だが謙信が相手となれば話は別である。
軍神と恐れられ、
信長を戦略の天才とするならば謙信は戦術の天才、戦国時代一の戦術家と呼ばれた半兵衛ですら認めずにはいれないほどの武将であった。
その謙信が追ってくるとなると、苦戦は必至。それどころか、容易に全滅させられる可能性の方が高いかも知れない。
途中、信盛隊が足止めをしてくれる手筈ではあるが、その信盛とてどのくらいこらえられるかわからない。
半兵衛は急ぎに急いでいる部下らをさらにせかして、江夏を目指した。
予想通りならば、到達さえすればなんとかなる、半兵衛はそう自身を説得していた。
「味方の軍が通り過ぎました!」
信盛に伝令が届く。謙信が予想していた通り、信盛らは林の中に伏せていた。
「上杉勢が通るのに合わせて木を切り倒せ」
倒木による攻撃と分断を狙い、信盛が指示を出す。ここまでは信盛の思うがままに事が進んでいた。
「お頭!」
上杉勢が怒涛の勢いで近づいてくるのを部下が確認した。やがて謙信軍の先頭に立つ景家の姿が信盛の目にも確認できるまで迫ると、
「倒せ!」
と、信盛は機を見計らい号令をだした。
だが木が倒れる音が聞こえず、その代わりに聞こえたのは部下らの喚声や逃げ惑う声であった。
さらには上杉軍の襲撃を伝える声が響く。
「ちっ!感づかれたか!襲撃隊には構うな。先の上杉軍を追い、後ろから襲撃するぞ」
信盛はすぐさま集合するよう命じると、景家らが通過していった道に軍を展開し、味方の集結を待ちながら追撃態勢に移った。
「ようやく出てきおったか」
だがその信盛隊の前に謙信本人とその部隊が現れ、攻撃を仕掛けてきた。
「なんだと!」
信盛は焦った。謙信は景家と共にすでに半兵衛隊を追撃しているものだとばかり思っていた。
謙信率いる僅か百の兵は、迎撃の態勢にない信盛隊を押しに押しまくった。
謙信本人がいる、ただそれだけで兵は恐れを忘れ、より一層の強さを発揮している。
「くそっ!全力で退くぞ。景家に突撃し、せめて半兵衛を逃がす!」
信盛は懸命に逃げながらもやけに落ち着いた気持ちになり苦笑いしていた。せめて半兵衛を逃がす、考えてみれば謙信が現れる前までは敵対していたのだ。
それが上杉謙信という、この時代に来る前からの難敵を目の当たりにすると、確執などすっかりと忘れ去り、どちらからともなく自然に共闘という形になった。
信長憎し、と思っていた感情は、自身の不甲斐なさへの怒りであったか、と悟る。
「もし、生き延びることができたならば、信長様に許しを請い、再び仕えたいものだな」
うやむやだった気持ちにすっかりとけりがつき、信長への思慕の情が募っていた。