この思わぬ猛将の出現は信忠隊を大いに震えあがらせた。
昌次は真田昌幸らと同じく信玄の近習衆の一人で、文武に優れる良将である。
三方原の戦いでの活躍で武名を轟かせ、長篠でも獅子奮迅の勢いで織田本陣に迫る戦いぶりを見せた人物だった。
昌次は宣言通り、行く先を遮る者らを斬り捨てて猛進してくる。
馬の跳ね上げる土埃に、斬り倒した兵らの血液が混じり、血煙を吹き出しながら迫ってくるようで、曹軍全体を畏怖させた。
やがて信忠らの包囲の一角を突き崩し、味方の騎馬隊を救出すると、そのまま対角線上の信忠隊を崩し包囲網を呆気なく突破した。
「許褚!あの者を止めよ!」
その破竹の快進撃ぶりは曹操を慌てさせ、ついには守りの切り札である許褚をも投入するまでに至った。
「曹操が丸裸だぞ!行けい!進めい!」
昌次につられ、武田軍全体が活気づき、勢いを増す。
「形勢逆転だな」
と、信春が蘭丸の動揺を誘う。
「よそ見をしている余裕など与えんぞ」
信忠を案じる秀満に昌信が激しく仕掛ける。昌景も疲れた体に鞭打ち、張遼との決着をつけるべく打ちあいを再開した。
「これより先へは進ませぬ」
曹操本陣まっしぐらに攻め寄せる昌次の前に許褚が立ちはだかる。
「止めてみせよ!」
昌次は当然ながら止まることなく、一気に突き破ろうと更に加速してきた。
だが許褚は爆走する昌次の馬の前に平然とした表情で立ち止まると、腰を据え、両足をしっかりと地に食い込ませた。
「このまま突き飛ばしてくれる!」
馬術に長けた昌次と言えど、両手で手綱を握らなければ振り落とされてしまうほどの猛烈な速さ。
これとまともに衝突しようものなら、まず間違いなく即死か致命傷である。
許褚は頬をはたき体勢を低く下げると、まばたき一つせず馬の動きを見据えた。
許褚と昌次の馬が衝突する。
昌次や兵たちは許褚が吹き飛ぶ姿を想像していた。だが、そうはならず、むしろ驚愕することとなった。
なんと許褚は馬の首をがっしりと捕らえ、暴走馬を止めてしまった。
「ばかな……」
昌次の表情が一変し、武器を手にするのも忘れるほど狼狽していた。
馬は許褚の力になんとか抵抗しようと踏ん張るが動かない。
再度力を込めようと息を抜く。だがそれは許褚も知ることとなり、その瞬間に馬の首を捻り投げた。
哀れ、馬は首の骨を折り絶命し、投げだされた昌次の右足を下敷きとして倒れ込んだ。
昌次は地に叩きつけられた衝撃にうまく受け身を取る事ができず気を失っていた。
許褚は馬をどかし、昌次を肩に担ぎあげる。
「と、殿を助け出せ!」
昌次隊の兵長が震えた声で指示を出すが、あり得ない光景を目の前にした兵たちは恐怖に縛られ、足を釘付けにされたようにその場から動くことができない。
許褚に悠々と大将を連れ去られるのをただ黙々と見ているしかなかった。
「敵は戦意を失っているぞ!進軍!」
副将の呼びかけに応じ、許褚隊の兵らが攻撃を開始する。
人間離れした腕力で馬を制し、昌次を捕縛した大将の姿は、兵らを大いに発奮させた。