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第三十六幕 哭き声、闇に消える命

無数の松明が、眼前の闇を埋め尽くしていた。

先ほど遭遇した数騎の武者などとは比較にならぬ、おびただしい数の光の群れ。

一つ一つが、武装した武士の手にあるのだと認識した瞬間、胡蝶の全身から血の気が引いた。地を這う巨大な炎の龍が、山間の闇を裂き、自分たちに迫ってくる──。


「胡蝶……」


隣で、琴が息を呑む音が聞こえる。その手は、胡蝶の袖を固く、震えながら握りしめていた。

権太と吉兵衛もまた、言葉を失い、その顔は絶望の色に染まっている。無理もない。あれほどの軍勢を見て、平静を保てる者がいようか。


(弥助が命を賭して稼いでくれた時間も……俺が、あの二人を斬り、一人を逃したことで……全て、無駄になった……?)


呆然と、目の前に広がる絶望的な光の帯を見つめることしかできなかった。

だが、それも束の間。

胡蝶は、はっと顔を上げた。その瞳に宿っていた僅かな動揺は消え、氷のような冷静な光が戻っていた。


(……感傷に浸っている暇などない!)


圧倒的な物量差。正面からぶつかれば、犬死にするだけだ。

ましてや、母や権太たちを連れていては、瞬く間に蹂躙されるのが関の山。


「皆、こちらだ」


胡蝶は、かろうじて聞き取れるほどの声で、短く告げた。

彼の視線は、松明の光が届かぬ、さらに険しい山の斜面……木々が鬱蒼と生い茂り、獣しか通らぬような、道とも呼べぬ微かな切れ間に向けられていた。

そこは、昼間であっても踏み入るのを躊躇うような、暗く、危険な場所。


「しかし、そっちは……」


権太が、不安げに声を上げる。


「口を開く暇があるなら、足を動かせ。死にたくなければ、俺に続け」


胡蝶は、有無を言わせぬ強い口調でそう言うと、ためらうことなく、その暗黒の獣道へと足を踏み入れた。

そこは、人の踏み跡も絶えた険しい道。

一寸先も見えぬ暗がりの中、胡蝶は先頭に立ち、研ぎ澄まされた感覚だけを頼りに進む。

剥き出しになった木の根が足首を捉え、鋭い岩角が衣を裂く。時折、足元の土くれが音を立てて崩れ落ち、その度に一行は息を潜め、追手の気配に神経を尖らせた。


「はぁっ……はぁ……ま、待って……」


琴のか細い声が、暗闇に震えた。慣れぬ山歩きと、絶え間ない緊張で、彼女の体力は既に限界に近かった。

白い顔は蒼白となり、額には脂汗が滲み、その肩は苦しそうに上下している。袖や裾は見るも無残に破れていた。


「母上、もう少しの辛抱です。ここを抜ければ……」


胡蝶は振り返り、母を励まそうとするが、その言葉も虚しく響く。

権太と吉兵衛が、左右から琴の腕を支え、必死に彼女を助けようとするが、彼ら自身もまた、疲労の色を隠せないでいた。


その時だった。


「……!」


吉兵衛が、息を呑んで後方を指差した。

木々の切れ間から、先ほどまで眼下に広がっていた松明の光が、明らかにこちらへ向かって、幾筋もの帯となって山肌を登ってくるのが見えたのだ。

それは、もはや無秩序な光の群れではない。明らかに、統率された部隊が、自分たちの逃げる方向を正確に捉え、包囲網を狭めるかのように迫ってきている。


胡蝶の背筋を、冷たい汗が伝った。

あの時、敵兵を一人逃してしまった。その一瞬の油断が、今、この絶望的な状況を招いている。


(奴らは、闇雲に山狩りをしているのではない……間違いなく俺たちを……狙っている)


松明の光は、意志を持った生き物のように、じりじりと距離を詰めてくる。

既にこの山中に安全な場所など、どこにも存在しないことを、胡蝶は痛いほど悟らされていた。


「ひっ……ひっ……」


吉兵衛の喉から、引き攣れたような呼吸音が漏れ始めた。恐怖に歪んだその顔は月明かりの下でも青ざめ、小刻みに震える肩が彼の限界を物語っている。


「吉兵衛、しっかりしろ。 声を出すな……!」


胡蝶が鋭く、低い声で制止しようとするが、もはや吉兵衛の耳には届いていない。

彼の瞳は、じりじりと迫る松明の光に釘付けになり、完全に恐怖に心を支配されていた。


「だ、だめだ……もう、逃げられねぇ……あいつら、俺たちを皆殺しにする気だ……弥助も、あんな……ひぃっ!」


錯乱した吉兵衛は、胡蝶の制止を振り解くように、闇雲に数歩後ずさった。

その瞬間、彼の足元がおぼつかない獣道から、ずるり、と踏み外れた。


「あっ──」


短い悲鳴と共に、吉兵衛の体がバランスを失い、暗い山の斜面へと吸い込まれるように滑落していく。


「吉兵衛っ!」


胡蝶と権太が咄嗟に手を伸ばすが、その指先は虚しく空を切った。


「わぁーーーーっ!!」


木々を薙ぎ倒し、石を蹴散らしながら、吉兵衛の絶叫が夜の静寂を切り裂いた。

その叫び声は、彼自身の命運を決定づけただけでなく、残された者たちの位置をも、冷酷な追手に知らせる結果となった。


「こっちか!」

「今の叫び声は、斜面の上だぞ!」

「いたぞ、囲め、囲め!逃がすでないぞ!」


吉兵衛が滑落していった斜面の下方、そして左右から、一斉に武士たちの怒声が湧き上がり、無数の松明が、獲物を見つけた狼の群れのように、その一点へと殺到していくのが見えた。


「ま、待ってくれ!や、やめてくれぇ!俺はなにも知らない!本当に、なにも知らねぇんだぁ! お、おねげぇだ……命だけは……!」


木々の間から、吉兵衛の必死の命乞いが聞こえてくる。その声は恐怖と絶望に染まり、聞く者の胸を締め付けた。

胡蝶は、唇を噛み締め、身動き一つできなかった。助けに行きたくとも、この状況ではあまりにも無謀。

そして、その叫び声が、やがて、途切れるようにして……聞こえなくなった。


松明の群れが一箇所に集まり、何やら騒がしい声がしていたが、それもやがて遠のき、再び不気味な静寂が山を支配した。


「うっ……」


琴が、込み上げてくる吐き気を必死に堪えるように、小さく呻き声を漏らした。

その身体がぐらりと傾ぎ、今にも崩れ落ちそうになるのを、胡蝶と権太が左右から必死に支える。


「だ、大丈夫でさぁ……琴さま……」


権太が、震える声で必死に言葉を絞り出す。


「吉兵衛のやつ、昔から臆病で……今頃、侍たちに小突かれて、気絶してる……だけ……です、きっと……」


琴を落ち着かせようとするその言葉とは裏腹に、権太自身の顔もまた、恐怖と絶望で真っ青になっているのを、胡蝶は見逃さなかった。

彼も馬鹿ではない。吉兵衛がどうなったのか、静寂が何を意味するのか、痛いほど理解しているのだ。


「……」


ふと気づけば、胡蝶自身もまた、浅く速い呼吸を繰り返していた。心臓が、肋骨を突き破らんばかりに激しく鼓動を打っている。

だが、今にも倒れそうな母の前で、狼狽える姿など見せられるはずもなかった。


「そ……そうです……母上。権太の言う通りです」


胡蝶は、自分でも空虚に響くのが分かる声で、無理やり言葉を紡いだ。


「吉兵衛は……その、哀れな村人として、今頃は捕縛されているだけでしょう。決して……決して、死んでなど……いない、はず……」


その言葉が偽りであることは、胡蝶自身が一番よく分かっていた。

だが……だが。これ以外に、目の前で恐怖と絶望に打ちひしがれる母に、そして自分自身に、一体何を言えと言うのだろうか。

胡蝶は、心の奥底で渦巻く激情と絶望を、無理やり理性の奥底へと押し込めた。

今はただ、前へ進むしかない。母を、そして残された権太と共に生きて、この地獄から抜け出すのだ。


「……行きますしょう、母上。権太も……」


再び胡蝶は琴の手を強く引き、権太に声をかけると、覚束ない足取りながらも、再び闇の中へと歩みを進めた。

吉兵衛の悲痛な叫び声がこだました場所から、少しでも遠くへ。

一人でも多くの追手が、彼が滑落した斜面下へと群がってくれれば、それだけ自分たちが生き延びるための時間が稼げる。その非情な現実が、胡蝶の胸を締め付けた。


目指すは、未だその影すら見えぬ、上野国。

吉兵衛という大きな犠牲によって得た、ほんのわずかな猶予。しかし、それは過酷な逃避行の、ほんの序章に過ぎないことを、胡蝶は痛いほど予感していた。


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