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第三十七幕 死地を駆ける、血の匂い

吉兵衛の絶叫が闇に吸い込まれてから、どれほどの時が経ったであろうか。

風の音に混じって聞こえていた追手の喧騒は、いつしか遠のき、木々の葉が擦れ合う音と、虫の音が、辺りを支配している。

胡蝶たちは深い山の木々の奥、岩陰に身を潜め、息を殺していた。


「はぁ……はぁ……」


権太の荒い息遣いだけが、やけに大きく聞こえる。彼は、ぐったりとした琴の身体を、岩肌にそっともたれかからせた。

胡蝶は岩陰の入り口に立ち、背後を警戒するように、じっと闇を見据えている。その横顔に表情はなく、研ぎ澄まされた刃のような鋭さだけが、月明かりに浮かび上がっていた。


──弥助に続き、吉兵衛までも。


仲間を二人も失ったという事実は、冷たい鉛のように胡蝶の心を沈ませていた。だが、今は感傷に浸ることも、怒りに身を任せることも許されない。

残された母と権太を守り抜くこと。それだけが、今の自分に課せられた使命だと、胡蝶は感じていたのだ。


「琴さま、少しでも……何か、口に……」


権太の差し出した干し飯を見つめながら、琴の胸は感謝よりも先に、鋭い痛みに似た罪悪感で満たされた。

この朴訥で人の良い男もまた、自分のせいで、こんな死と隣り合わせの逃避行を強いられている。

彼には何の罪もない。ただ、自分に……そして胡蝶に、義理堅く付き従おうとしてくれているだけなのだ。その優しさが、かえって琴の心を締め付けた。


(この者も……私のせいで、こんな目に……。私がいなければ、彼らももっと早く逃げられたはず)


琴は、力なく差し出された干し飯から目を逸らし、首を横に振った。食欲など、到底湧いてくるはずもなかった。


ふと、琴の視線が、岩陰の入り口で警戒を続ける胡蝶の背中に注がれた。

月明かりに照らされたその細い肩は、まだ幼さの残る少年とも青年ともつかぬそれでありながら、今は母を守るという重い責任を一身に背負い、張り詰めている。

片時も気を緩めることなく、闇の向こうに潜むであろう追手の気配を、五感を研ぎ澄ませて探っている。時折、風の音や獣の気配に、ぴくりと反応し、腰の刀に手をやるその姿。


(胡蝶……あの子も、私のために……)


その健気で、痛々しいまでの胡蝶の姿が、琴の胸をさらに強く抉った。

本来であれば、元服を祝い、真田の家で、もっと広い世界で類まれな才能を存分に開花させるべきだったはずの我が子。

今はただ、自分という重荷を背負い、いつ終わるとも知れぬ暗い山道を彷徨っている。その事実が、琴には耐え難かった。

権太の差し出した干し飯から目を逸らした琴の脳裏に、走馬灯のように過ぎ去りし日の光景が浮かび上がっては消えていく。


(真田の郷での、あの穏やかな日々が今は遠い……)


つい先日まで、あの屋敷には夫の朗らかな声が響き、源太左衛門や虎千代が庭で無邪気に剣術の稽古に励んでいた。

縁側で琴を爪弾けば、どこからともなく胡蝶が現れ、その音色に合わせて舞ってくれた。

そんな当たり前だと思っていた日常が、今はもう手の届かない夢幻の彼方へと過ぎ去ってしまった。


(弥助……吉兵衛……)


粗野ではあったけれど、どこか憎めないあの男たち。畑仕事の合間に、不器用な手つきで摘んできてくれた野の花。

胡蝶様の武勇伝を、目を輝かせながら語っていた、あの屈託のない笑顔。彼らもまた、この戦乱の世でなければ、ささやかな幸せを掴んでいたのかもしれない。


(私が……私が、あの時、父上の言いつけ通り、すぐに上野へ逃げていれば)


海野の使者が、夫と息子の討死を告げ、一刻も早く逃げるようにと伝えてきた、あの時。

自分は、「真田の女」として、この地に留まると言い放ってしまった。それは、武家の妻としての矜持だったのか、それとも、ただの意地だったのか。

今となっては、それすらも分からない。ただ、あの時の自分の判断が、多くの者を、この死の淵へと道連れにしてしまったことだけは、確かだった。


後悔と自己嫌悪の念が、荒れ狂う嵐のように、琴の心を打ち据える。

その重みに耐えきれず、琴の瞳からは、再び熱いものが止めどなく溢れ出した。


「こ、琴様!どうしたんですかい!?もしや、お怪我でも……」


権太が、涙を流す琴の姿に気づく。その顔には、心からの心配の色が浮かんでいる。

琴は力なく首を振り、言った。


「怪我などでは……ただ、この私自身の不徳が、皆をこのような苦難に……そう思うと……」


自責の念に駆られ、琴の瞳からは再び涙が溢れそうになった、まさにその時であった。


「……!」


岩陰の入り口で見張りを続けていた胡蝶の背筋が、鋭く緊張した。

前方の茂みが、ガサリ、と不自然に揺れたのだ。獣の動きではない。明らかに、人の気配。

胡蝶が腰の刀に手をかけた瞬間、茂みの中から、一人の武士が姿を現した。斥候であろうか、手には槍を持ち、油断なく周囲を窺っている。


そして──見張っていた胡蝶の姿を認めるや否や、その目を驚愕に大きく見開いた。


「おっ……!」


武士が、何事か叫ぼうと、口を開きかけた、その刹那。


閃光が迸った。


胡蝶の身体は、常人には到底目で追えぬほどの速さで斥候へと殺到していた。抜き放たれた刀は、月光を反射し、銀色の軌跡を描く。

あまりの速さに、斥候は反応することすらできず、ただ呆然と、迫りくる死の刃を見つめることしかできなかった。

生々しい音と共に、斥候の胸が朱に染まる。


「ぐ……ぁ……」


致命傷を負いながらも、その武士は最後の力を振り絞り、腹の底からの大音声で叫んだ。


「ここだ!!奴らはここにい──」


その絶叫が最後まで続くことはなかった。胡蝶の第二撃が、今度こそ的確にその喉を切り裂いていたからだ。

だが、遅かった。


(最初に、喉を斬っておくべきであった……!)


胡蝶の脳裏に、一瞬、戦術的な後悔がよぎる。

あの叫び声は、間違いなく周囲に潜むであろう他の追手たちの耳に届いている。


「権太、母上を!急いでここを離れるぞ!」


胡蝶は、血振るいもそこそこに刀を鞘に納めると、厳しい表情で振り返り、二人に鋭く命じた。もはや、一刻の猶予もなかった。

その直後である斥候の叫び声が、静寂を破った合図であったかのように、森の奥、そして彼らが登ってきた斜面の下方から、一斉に怒号と武具の音が湧き上がった。


「完全に気づかれたかっ」


胡蝶は、忌々しげに吐き捨てると、再び琴の手を掴み、権太に目配せした。


「行くぞ!」

「へい!」


三人は、再び闇の中へと飛び込んだ。

束の間の休息で回復したはずの体力は、新たな恐怖と焦燥感によって、瞬く間に削り取られていく。

追手は彼らの潜む場所を正確に把握したのだ。松明の光は、もはや遠い山肌を照らすのではなく、すぐ背後、行く手の木々の間を、生きているかのように揺らめきながら迫ってくる。


「こっちだ!女と子供連れだ、そう遠くへは行けぬはず!」

「囲い込め!一匹たりとも逃がすな!」


荒々しい声が、四方から響き渡り、じりじりと包囲網が狭まってくるのを、肌で感じる。

胡蝶は、琴を庇いながら、木の根や岩を飛び越え、僅かな獣道を辿るが、もはやどこへ逃げても、敵の気配がすぐそこまで迫っている。

逃げ場は、刻一刻と失われていた。


「くそっ……!」


胡蝶は悪態をつきながら、もはや道なき道を進む。鋭い笹の葉が頬を切り、木の枝が容赦なく身体に鞭打つ。

それでも、足を止めるわけにはいかなかった。


その時、ヒュッ、と鋭い風切り音が、すぐ耳元を掠めた。

咄嗟に身を屈めた胡蝶の眼前、ほんの数寸先を、一本の矢が音もなく通り過ぎ、傍らの大木に深々と突き刺さる。

震える矢羽根が、彼らの視界に入る。


「見つけたぞ!あそこだ!」

「少しくらい傷ついても構わん! 生きて捕らえさえすればよいのだ!放て、放て!」


木々の向こうから、追手の荒々しい怒声が響き渡る。

それを合図に、続けざまに数本の矢が、彼らの周囲の茂みを薙ぐように射掛けられた。


「きゃっ……!」

「琴様、危ない!」


琴が小さく悲鳴を上げ、その場に竦む。

権太が、咄嗟に琴の前に立ちはだかり、庇うように身を屈めた。

胡蝶もまた、刀を抜き放ち、飛来する矢を叩き落とそうと身構えるが、多勢に無勢。

そして何より、この暗闇と険しい地形では、いつ致命的な一撃が襲ってきてもおかしくなかった。


「権太、母上を連れて先へ! 俺が少しでも時間を稼ぐ!」


胡蝶は叫びながら、追手の方向へと向き直ろうとした。

だが、その時、後方から飛んできた一本の矢が、彼の視界の隅を掠める。それは、自分に向けられたものではなかった。

振り返った胡蝶の目に、信じられない光景が飛び込んできた。


「!」


権太の……よろめく琴を庇いながら、必死に斜面を駆け上がろうとしている権太の背。

その、逞しいはずの背中に──矢が、深々と突き刺さっていた。


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