月明かりが照らし出す権太の背。
そこに深々と突き刺さった一本の矢羽根が、胡蝶の瞳を射抜いた。
「──」
息が、止まる。時間が、凍り付いたかのように感じられた。
胡蝶が何かを言おうとした、まさにその瞬間であった。
ガサガサッ、とすぐ間近の草むらが激しく揺れ、そこから二人組の武士が、姿を現した。
一人は抜き身の刀を、もう一人は穂先を鈍く光らせた槍を手に、鬼のような形相で周囲を警戒している。
そして──彼らの視線が、呆然と立ち尽くす胡蝶の姿を捉えた。
「!」
胡蝶の視線が、権太の背から、新たに出現した武士たちへと瞬時に切り替わる。
怒りか、絶望か、あるいはその両方か。胡蝶の内で何かが激しく燃え上がり、それは自然と、手に握られた刀へと伝播した。
柄を握る指に力が込められ、刀身が、生き物のように滑らかに動き出す。
「子供っ……!?」
武士の一人が、胡蝶のあまりにも若く、そして美しい貌を見て、一瞬戸惑いの声を上げた。
「いや、刀を持っているぞ!構うな、殺せ!」
もう一人の武士が、即座にそう怒鳴り返した。それが、彼らの最期の言葉となった。
天を舞う蝶のように、胡蝶の身体が常人には理解できぬ軌道で宙を舞った。月光を浴びて煌めくその太刀筋は速く、そして正確無比。
武士たちが反応するよりも早く、胡蝶の刃はまず槍を持った武士の喉を、次いで刀を構えた武士の心臓を、寸分の狂いもなく貫いていた。
「がっ……!」
「あ……」
短い断末魔すら上げる間もなく、二人の武士の身体から鮮血がほとばしり、糸の切れた人形のように、力なくその場に崩れ落ちていった。
崩れ落ちた二人の武士の骸を冷ややかに見下ろした胡蝶が、権太の元へ駆け寄ろうと身を翻した、その時。
闇の奥から、新たな複数の松明の光が、地獄の鬼火のように揺らめきながら、こちらへ殺到してくるのが見えた。
「ちっ……!」
胡蝶は短く舌打ちすると、再び刀を構え直す。絶望的な状況。しかし、彼の瞳には、もはや先ほどのような動揺の色はない。
ただ、氷のように冷たく、そして底知れぬほどの深い怒りと、諦観にも似た静けさが宿っていた。
「いたぞ!」
「ふ、二人も殺されておる……!油断するな、一斉に襲うのだ!」
怒号と共に、兵たちが、四方から鬨の声を上げて襲い掛かってくる。槍が、刀が、胡蝶の命を刈り取らんと迫る。
だが──次の瞬間、その場にいた武士たちは、信じられない光景を目の当たりにすることになった。
胡蝶の身体が、掻き消えた。
それは、先ほど斥候二人を屠った時よりも、さらに速く、さらに鋭く、そして、恐ろしいほどに研ぎ澄まされた動き──。
世の理を超越したかのように、彼の身体は重力から解き放たれたかのように軽やかに地を這い、宙を舞い、敵兵たちの攻撃を紙一重でかわしていく。
その動きは、予測不可能。目で追うことすら困難な、幻影のような太刀筋。
「なっ……!?」
「ば、馬鹿な……動きが、見えん!」
襲い掛かった兵士の一人が、驚愕の声を上げる間もなく、その喉を胡蝶の刃が浅く切り裂いた。鮮血が闇に散り、どう、と音を立てて崩れ落ちる。
間髪入れず、左右から迫る槍と刀。しかし、胡蝶は、背中に目があるかのようにそれらを最小限の動きで避け、身を翻しながら、返す刀で、二人の兵士の鎧の隙間を的確に貫いた。
「がっ……はぁっ!」
「なんだ、この動き……!?物の怪か……!?」
悲鳴と怒号が入り混じる。しかし、それらの声も、胡蝶の舞の前には、ただ虚しく響くだけであった。
一人、また一人と、胡蝶の刃の前に、武士たちは、熟した果実が木から落ちるように、次々と血の海に沈んでいく。
「ひ……ひぃ……!?」
やがて、最後に残った一人の武士が、恐怖に顔を引きつらせ、武器を捨てて逃げ出そうとした。
しかし、その背中に胡蝶の投げた短刀が、音もなく深々と突き刺さる。
短い呻き声を残し、その武士も仲間たちの後を追うように、力なく地面に突っ伏した。
「……」
──しん、と。
再び、森閑とした静寂が、その場を支配した。
先ほどまでの喧騒が嘘のように、今はただ、風が木々の葉を揺らす音と、胡蝶自身の、わずかに乱れた息遣いだけが聞こえる。
彼の足元には、複数の武士たちが、折り重なるようにして斃れていた。生々しい血の匂いが、鼻をつく。
胡蝶は、血に濡れた刀を握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。
美しい顔には、何の表情も浮かんでいない。ただ、その瞳だけが、足元に転がる死体の山と、己の血に染まった手、そして、先ほどまで死闘を繰り広げていた己の身体を、他人事のように見つめていた。
(一体、なぜ……なぜ、俺は、こんな動きが出来るのだ?)
心の奥底から、疑問が湧き上がってくる。
この、人間離れした身体能力。何十年も戦場で生き抜いてきたかのような、淀みない剣技。
教わった覚えなど、ありはしない。それなのに、いざとなれば、身体が勝手に、最適の動きを選択する。
(なぜ、こうも勝手に、身体が動くのだ?)
それは、自分ではない『誰か』が、この身体を操っているかのような、奇妙な感覚。
(──そして……何故)
胡蝶は、自らの胸に手を当てた。
(弥助が殺された時、あれほどまでに動揺し、人を斬ったことに、あれほどまでに苦しんだというのに……。今、これだけの数の人間を殺めても……あの時ほどの動揺が、ない……?)
それは、彼にとって何よりも恐ろしい自覚であった。
自分の身体が、自分の心が、自分の知らぬ間に、何か別のものへと変質していっているのではないかという、底知れぬ恐怖。
胡蝶は血の海の中に佇みながら、言いようのない戦慄に、ただ身を震わせるしかなかった。
「……」
胡蝶は血の海と化した戦場と、そこに転がる名も知らぬ武士たちの死体を一瞥すると、踵を返し、琴と権太が待つであろう闇の中へと再びその身を翻した。
彼の心に宿る、己の力への畏怖と、殺戮への微かな慣れに対する嫌悪感は、今はただ、母を守るという一点の使命感の前に、無理やり蓋をされている。
後には、おびただしい数の武士たちの亡骸だけが、月光の下、無言で横たわっていた。
♢ ♢ ♢
息を切らし、暗闇の山道を駆けていた胡蝶の耳に、不意に権太のかすれた声が届いた。
「胡蝶さま……!こっちです……こっちに!」
声のする方へ急ぐと、大きな岩陰に、琴と権太が息を潜めるようにして身を隠しているのが見えた。
「良かった……!ご無事でしたか、母上も、権太も」
二人の姿を認めた瞬間、胡蝶の張り詰めていた表情がわずかに和らぎ、安堵の息が漏れた。
先ほど確かに権太の背に矢が刺さったように見えたが、今は彼の背中には何も見当たらない。
(……見間違い、だったのか?)
一瞬の混乱と闇が、自分に幻を見せたのだろう。胡蝶はそう結論付け、胸を撫で下ろした。
「胡蝶……大丈夫……?」
琴が、震える声で胡蝶に問いかけた。その瞳は、目の前の息子の姿を捉えながらも、どこか別の、恐ろしいものを見ているかのようにこわばっていた。
無理もない。今の胡蝶の姿は、おびただしい量の血で汚れていた。顔にも、髪にも、そして、纏っている衣にも、紅を散らしたかのように、鮮血がこびりついている。
だが、そのどれもが、胡蝶自身の血ではないことを、琴は一目で悟っていた。
(この子もまた……私の為に、その手を血に染めて……。一体、何人の命を、この私という存在のために、奪ってしまったというの……)
琴の胸が、罪悪感と、言いようのない悲しみで締め付けられる。目の前の息子が、自分のために修羅の道へと足を踏み入れていく。その事実が、彼女には耐え難かった。
「ええ、母上。私は、大丈夫です。どうかご安心なさってください」
胡蝶は、琴に心配をかけさせまいと、努めて穏やかな微笑を浮かべてみせた。その白い頬に付着した血糊が、その微笑を、どこか痛々しく、そして不気味なものに変えていた。
そして、胡蝶の健気なまでの気遣いが、かえって琴の心を、さらに深く狼狽えさせ、混乱の淵へと突き落としていくのだ。
「少しだけ、休みましょう」
胡蝶は、未だ血の匂いが立ち込める森の中で静かにそう告げた。
「迫ってきた追っ手は、ひとまず退けました。今、闇雲に動き回れば、かえって体力を消耗し、後々動けなくなる……」
その冷静な判断に権太はこくりと頷き、琴もまた力なくその言葉に従った。
三人は、先ほどよりもさらに深い木々の陰に身を寄せ、倒れ込むようにして、つかの間の休息を取る。
胡蝶の隣で、琴は、張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れたかのように、その身体から力が抜けていくのを感じていた。疲労は、とうに限界を超えている。
次々と襲い来る恐怖と悲しみに、その心は麻痺しかけていた。やがて、重くなった瞼に抗うこともできず、琴は、胡蝶の肩に頭をもたせかけたまま、浅く、そして苦しげな寝息を立て始めた。
「……」
胡蝶は、眠る母の顔を、静かに見下ろした。その顔は蒼白で、眉間には深い苦悩の皺が刻まれている。
穏やかだったはずの母の寝顔が、今はこんなにも痛々しく歪んでしまっている。その事実が、胡蝶の胸を鋭く刺した。
(俺の、せいだ……)
胡蝶は、己の無力さを呪った。
(俺にもっと力があれば……。いや、違う。ただ敵を斬り伏せるだけの、こんな力ではない。この事態そのものを覆すほどの、絶対的な力が、俺にあれば……!母上を、こんな目に遭わせることも、弥助や吉兵衛を死なせることも、なかったのかもしれない……)
そう、後悔の念に駆られて、唇を噛み締めていた、その時であった。
「胡蝶、様」
不意に、背後から、権太のかすれた声が、胡蝶の名を呼んだ。
それは、眠る琴を起こさぬようにと、細心の注意が払われた、囁くような声であった。
「どうした?権……」
胡蝶が、振り返りながら、その名を呼びかけた時だった。彼の言葉は、最後まで紡がれることはなかった。
月明かりが、岩陰に差し込み、権太が座り込むその足元を、ぼんやりと照らし出していた。
そこに、じわり、じわりと、黒く、そして粘ついた液体の染みが、広がっているのが見えてしまったからだ。
血だまりだった。
「へへ……」
権太は、痛みに顔を歪ませながらも、無理やり、力ない笑みを浮かべた。
「胡蝶様……どうやら、あっしは……ここまで、みてぇです……」
その言葉と共に、権太の身体が、ずるりと傾ぐ。胡蝶の目に、今まで彼の背中が隠していた、真実が映し出された。
彼の背に穿たれた穴からから、どくどくと、おびただしい量の血が、とめどなく溢れ続けていた。