「権太!」
胡蝶は叫びを上げ、血だまりの中に座り込む権太へと駆け寄った。傷口を押さえようと、血に濡れた己の手を伸ばす。
しかし、その手は権太の力ない、だが確かな意志のこもった手によって、静かに制された。
「胡蝶様……大きな声は、出さねぇでくだせぇ……」
権太は、すぐ傍で眠る琴に視線をやり、吐息のような声で囁いた。
「琴様が、起きちまう……」
「そんなことを……言っている場合ではないだろう!傷が……血が……」
胡蝶は焦燥に駆られ、声を荒らげそうになる。
権太は胡蝶の言葉をさえぎるように、ゆっくりと首を横に振った。その顔は、苦痛で歪みながらも、穏やかだった。
「もういいんだ……あっしは、もう長くねぇ……」
権太は、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「だから……だから胡蝶様」
その瞳が、真っ直ぐに胡蝶を見据える。
そこには、死の恐怖よりも、遥かに深い優しさと、切なる願いが滲んでいる。
「琴様は、あっしが死んでも悲しんじまう優しい御人……。だからどうか、あっしを眠ってるってことにして……琴様を……連れて、先へ、進んでくだせぇ……。それが、あっしの……最後の、お願いだ……」
この男は、死の間際にありながら、己の痛みや恐怖よりも、他人の心を慮っているのだ。
その事実に、胡蝶は強い衝撃を受け、言葉を失った。
何かを言わなければ。
この男の最後の願いに、何か応えなければ。
そう思うのに、喉の奥に熱い塊がこみ上げ、言葉にならない。
胡蝶が何も言えずにただ唇を噛み締めていると、権太は、ふっと、遠い目をした。
その瞳には、懐かしい記憶が映し出されているかのようで──。
「思い出しますぜ……。あっしらが、まだ野盗なんぞやってた頃……胡蝶様に捕まって、三日三晩、説教された時のことを……」
その声は、ひどく掠れていたが、どこか楽しげだった。
「あの時は、正直、たまったもんじゃねぇって思ってやしたが……でも、本当は……嬉しかったんでさ。こんな、どうしようもねぇあっしらを、本気で叱ってくれる御方がいるんだなって……。年下の、こんなに綺麗な、しかも年下の兄ちゃんなのに……なんだか、死んだ親父に叱られてるみてぇな気分で……。へへ、おかしな話ですぜ、本当に……」
胡蝶は、何も言えなかった。しかしその胸中は、悲しみと怒りと、どうしようもない無力感が嵐のように激しく渦巻いていた。
権太の言葉が、一つ、また一つと、胡蝶の心に深く、そして重く突き刺さる。
「だから、本当に感謝してるんでさ……こうなったのは、しょうがねぇけど……これも、運命って……やつ……だから」
やがて、その権太の声も、次第に力がなくなり、意識がだんだんと薄れていくのが分かった。
彼の身体から、急速に命の温もりが失われていく。動きも、先ほどより、明らかに鈍くなっていた。
「……胡蝶、様……どうか、琴様を……」
権太の声が、途切れ途切れになる。その手から、だらり、と力が抜けた。
険しかったその表情は、もうどこにもない。全ての苦しみから解放されたかのように、ただ、安らかに眠っているかのように、彼は静かに横たわっている。
「……」
──死んだ。
弥助も。吉兵衛も。そして、権太も。
皆、死んでしまった。
目の前が暗くなるような、眩暈がするほどの衝撃。しかし、胡蝶は、震える手で、優しく権太の瞼を閉じる。
権太の覚悟を、その最後の願いを、無駄にはできない。
「……」
本来であれば、せめてもの弔いに、土に埋めてやりたかった。弥助も、吉兵衛も。だが、今の状況では、それすらも叶わない。
胡蝶は、声にならない謝罪を胸の中で繰り返し、眠る琴の元へと向かった。
そして、その華奢な肩を、優しく揺する。
「母上」
胡蝶は、溢れそうになる感情を必死に押し殺し、努めて穏やかな声で、琴に語り掛けた。
「権太は、ひどく疲れてしまったようです。少しでも長く、彼をここで休ませてあげましょう。……我々は、先を急がねばなりませぬ」
琴はゆっくりと目を開け、胡蝶の声に促されるように、権太の方を一瞥した。
「彼は眠っている……の?」
その声は、ひどく掠れて弱々しい。琴は、岩陰でぐったりと横たわる権太の姿を、じっと見つめていた。その表情からは、何の感情も読み取れない。
やがて、彼女は、全てを受け入れたかのように、こくりと静かに頷いた。
「そう、ですか。では、私たちだけで……行きましょう……。起こしたら、悪い、ですものね……」
その言葉に、胡蝶は、琴が権太の死に気づいていないのだと信じ込み、安堵と、そして、どうしようもない罪悪感を覚えながら、彼女の手を引いた。
「……はい、母上」
岩陰を離れる去り際に、胡蝶は一度だけ振り返った。
そこに横たわる、動かなくなった権太の姿に無言で、別れを告げる。
(すまぬ……すまぬ……)
胡蝶は、心の中で何度も謝罪を繰り返した。
脳裏に蘇るのは、他愛もない日々の記憶。
里の若者たちと、どちらが大きな魚を釣るか競い合った時のこと。源太左衛門にからかわれ、むきになって追いかけ回した自分を、腹を抱えて笑っていた、あの豪快な顔。
そして、自分が仕留めた大イノシシを見て、「さすがは胡蝶様だ!」と、手放しで喜んでくれた、あの朴訥な笑顔。その全てが、今はもう、手の届かない思い出となってしまった。
胡蝶は、唇を強く噛み締め、権太の亡骸から、ようやくその目を離した。
「……」
琴は、そんな息子の痛々しいまでの背中と、そして、岩陰に独り残された男の亡骸を、じっと見つめていた。