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第四十幕 鬼哭の舞、枷と血潮

権太の亡骸を闇に残し、再び始まった二人きりの逃避行。

仲間を失った山道は、以前にも増して広く、恐ろしく感じられた。月明かりだけが頼りの険しい道は、どこまでも続くかのように終わりが見えない。


「……」


ひゅう、と夜風が木々を揺らす音や、遠くで響く獣の鳴き声に、琴の肩が、その度びくりと小さく震えた。

胡蝶はその華奢な手を固く握り、自らの体温を分け与えるように、力強く引き寄せる。


(権太……すまない)


胡蝶は友の死を悼む心を、使命感という硬い鎧の下に押し殺していた。

──母を守る。それだけが、権太たち三人の犠牲に報いる、唯一の道なのだと。

感覚の全てを研ぎ澄ませ、敵の気配を探りながら、道なき道を進む。その横顔は硬く、悲壮な決意が、痛々しいほどに滲んでいた。

そんな胡蝶の痛々しいまでの背中を見つめながら、琴は自分のために彼らが死んでいったという、重い事実を何度も心の中で反芻していた。


(みんな、死んでしまった)


権太の、最後の優しさ。吉兵衛の、耳に残る絶叫。弥助の、朴訥な笑顔……。

脳裏に浮かぶのは、もう二度と会うことのできない者たちの面影。それら全てが自分という存在のせいで、永遠に失われてしまったのだ。

その罪悪感は、鋭い刃のように琴の心を絶えず苛んでいた。


琴には分かっていた。

胡蝶がいくら取り繕うとも、あの岩陰で見た動かぬ権太の姿、そして胡蝶の隠しきれない悲しみが残酷な真実を物語っていたのだから。

だが、言えない。今、それを口にしてしまえば自分を気遣ってくれた、忠義の男の最後の願いを、無惨に踏みにじることになる。

琴は、唇を固く結び、込み上げる嗚咽を必死にこらえることしかできなかった。


「っ!?」


その時である。

息も詰まるような沈黙を破ったのは、敵意という、あまりにも分かりやすい音であった。

前方の茂みが、ガサリと大きく揺れ、三人の兵が、刀を抜き放ちながら姿を現したのだ。彼らもまた、山狩りの斥候であろう。逃亡者の気配を察知し、息を潜めて待ち伏せていたのだ。


「見つけたぞ! 海野の残党だ!」


発見の報せを叫ぶのと、胡蝶が動くのはほぼ同時であった。

胡蝶は怯える母の腕を引き、即座に自らの背後へと庇う。流れるような動作で腰の刀を抜き放ち、一切の隙なく構えた。


「小童一人と女だけか……!」


武士の一人が、獲物を見つけた獣のように獰猛な笑みを浮かべ、真っ直ぐに斬りかかってくる。

だが次の瞬間、彼は自らの目が信じられないというように、大きく見開くこととなる。


──胡蝶の姿が、陽炎のように揺らいだ。

斬りかかってきた刃は、虚しく空を切り、武士の身体は、勢い余って前のめりになる。そこへ、胡蝶の刃が舞を舞うかのように、しなやかに閃いた。


「がっ……!?」


短い呻き声と共に、一人目の武士が崩れ落ちる。


「なっ……!?」

「小癪な!」


残された二人が、驚愕と怒りに顔を歪め、左右から同時に挟み撃ちにする。しかし、胡蝶は、その二つの刃が自らに届くよりも速く、地を蹴っていた。

天へと舞い上がったその身体は、月を背に美しい影を描く。そして、落下しながら、蝶が飛ぶかのように、二人の武士の首筋を、立て続けに、正確に切り裂いていった。


「──!」


鮮血が、闇夜に美しくも恐ろしい花を咲かせる。

あっという間に、三人の武士たちは、命なき骸となって、その場に折り重なった。

胡蝶は、血に濡れた刀を握りしめ、静かに佇む。


「……!」


目の前で繰り広げられた、息子の手慣れた殺戮。琴は、その場に立ち尽くし、わなわなと震えていた。

返り血を浴び、静かに佇むその姿は、もはや自分の知っている優しい胡蝶ではない。

人の皮を被った「修羅」が、そこに立っているかのようで──


(この子は、いつからこんな……これも、私を守るため……?)


恐怖と新たな罪悪感が、嵐のように琴の心に生まれ、激しく渦巻いた。


「さぁ、母上。参りましょう」


胡蝶は、血に濡れた刀を鞘に納め、母へと向き直る。


「最早、我らの位置は、敵に筒抜けも同然……ですが、安心してください。私が、私が最後まで、母上をお守りいたします」


その声は力強かったが、琴には、それが必死の虚勢であるように聞こえてならなかった。

胡蝶に手を引かれ、再び二人は闇の中を駆け出した。

だが、ひと息つく間もなく、前方の木々の間から、またしても新たな追手の松明の光が揺らめいた。

慌てて別の方向へと進路を変えれば、そちらからも鬨の声が上がる。


──右も、左も、そして背後からも。山は既に、敵兵によって完全に包囲されていたのだ。


(……駄目だ。どこへ逃げても、敵がいる)


胡蝶は、じりじりと狭まってくる包囲網を肌で感じながら、ついに、逃げ場が完全に失われたことを悟った。

闇雲に、光のない方へと駆け続けた胡蝶と琴。しかし、その先で彼らを待っていたのは、さらなる絶望であった。

木々の切れ間から、開けた場所へと飛び出した瞬間、二人は息を呑む。そこには、篝火を囲み、休息を取っていたのであろう、十人近くの敵兵たちがいたのだ。


「!」

「いたぞ!」


兵士たちが、一斉に武器を手に取り、殺気立つ。

その姿を見た胡蝶は、もはや思考するよりも早く、その身体が動いていた。ここで躊躇すれば、母が殺される。その一心だけで、彼は地を蹴り、敵兵の群れへと単身、突撃した。


「なんだ──!?」

「油断するな!」


再び、死の舞が始まる。先ほどまでのどこか余裕すら感じさせたそれとは、明らかに違っていた。

敵の数が多く、そして何より胡蝶の心には焦りと、追い詰められた獣のような激情が渦巻いていた。


「囲め!囲んで叩き潰せ!」


兵士たちが、胡蝶の動きに対応し、陣形を組んで襲い掛かる。

胡蝶は、その包囲網を、驚異的な速さと技で切り崩していくが、その表情は疲労に歪んでいた。

その時だった。

胡蝶が、前方の敵兵を切り伏せることに集中した、ほんの一瞬の隙。兵士の一人が、その包囲網を抜け、背後にいた琴へと、槍を突き出した。


「──!?」

「母上!」


胡蝶は、絶叫と共に身を翻した。琴の身体を突き飛ばし、その身代わりとなるように、敵の刃の前に立ちはだかる。

鋭い槍の穂先が胡蝶の左腕を、深々と抉った。


「ぐ……っ、ぁあああああ!」


今まで感じたことのない激痛に、胡蝶の口から、獣のような咆哮が漏れた。しかし彼は、激痛に耐えながら、右腕に握った刀で、目の前の敵兵の心臓を、正確に貫いていた。

夥しい鮮血が、胡蝶の顔と、そして、使い物にならなくなった左腕へと降り注ぐ。


「小僧……!腕一本で、何が出来る!」


残った兵士たちが、好機と見て一斉に斬りかかってくる。

しかし彼らが見たのは、手負いの少年ではなく一体の鬼であった。

その動きに、かつてのような舞の優雅さはない。あるのは、ただ、痛みに耐え、母を守らんとする、鬼気迫る気迫と、凄まじいまでの殺意。

戦闘の音、怒号、そして、肉が裂け、骨が砕ける生々しい音。

それらが混じり合う地獄絵図の中で、琴は、ただ呆然と、己が息子が繰り広げる死闘を見つめていた。


「胡蝶……」


掠れた声で、その名を呼ぶ。

琴は、血に濡れ、だらりと垂れ下がった胡蝶の左腕と、彼が身を挺して守った、己の無傷の身体を、震えながら見比べた。


(あの傷は、私のせい。私がここにいなければ、この子があのような傷を負うことは決してなかった)


胡蝶の、苦痛に歪む横顔。片腕で刀を振り回し、敵を斬り伏せていく、痛々しいその姿。


(──いや、そもそも。胡蝶一人ならば。容易く、逃げられる)


その瞬間、全てが、琴の中で一本の線として繋がった。



あぁ、そうか。そうだったのか。

自分は、息子の成長を見守る、母などではない。

息子の命と未来を、その輝かしい才能を、根こそぎ奪い去る、重い、重い『枷』なのだ──。



残酷な自覚が、雷となって琴の全身を貫いた。

彼女の目の前で、胡蝶の、血と涙に濡れた荒々しい舞が、延々と続いていた。


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