どれほどの時間が経ったのか。
狂ったような激情が過ぎ去った後には、不気味なほどの静寂だけが残された。
辺りには、物言わぬ武士たちの亡骸が、折り重なるようにして転がっている。生々しい血の匂いが、むせ返るように立ち込めていた。
「はぁっ……はぁっ……」
胡蝶は、使い物にならなくなった左腕を右手で押さえ、大木に背を預けながら、荒い息をついていた。
全身を襲う激痛と、体力を根こそぎ奪われた疲労感で、立っているのがやっとなのだ。
「胡蝶……」
琴は、震える足で息子の元へ駆け寄ると、自らが纏う衣の裾をためらいなく引き裂いた。
そして、布で胡蝶の深くえぐられた傷口を震える手つきで力強く縛っていく。
「大丈夫です、母上。これしきの傷……すぐに、治ります」
胡蝶は、痛みに歪む顔に、無理やり笑みを浮かべてみせた。
母を安心させたい、その一心で、気丈に振る舞う。だが、その言葉が、もはや琴の心には届いていないことを、彼はまだ知らなかった。
琴は、息子の傷口を固く縛り終えると、静かに顔を上げた。
その表情からは、今までの怯えや悲しみは、嘘のように消え失せている。代わりに浮かんでいるのは、何かをとうに覚悟した者の持つ、氷のように冷たく、澄み切った決意の色であった。
「母上……?」
異質な母の様子に、胡蝶は言い知れぬものを感じ、思わず問いかける。
しかし琴は、慈愛に満ちた微笑みを浮かべるばかりであった。
(何故だ……?何故、母上の表情から、恐怖が消えている…… 何故、安堵したかのような顔を……?)
胡蝶は、拭い去れぬ疑問を胸に抱きながらも、今はそれを問いただす時ではないと判断し、無事な右手で、再び母の手を引いた。
「行きましょう、母上」
「えぇ」
琴は短くそう答えた。
その声には、もう何の迷いもなかった。
ひたすらに、二人は山道を進んだ。
先ほどまでの喧騒が嘘のように、今は静寂が辺りを包み、ただ、枯れ葉を踏みしめる二人の足音だけが、寂しく響いている。
むろんこれが仮初の静寂であり、そこかしこに敵兵が潜んでいることは胡蝶も琴も、痛いほど分かっていた。
だが、今は……今、この一瞬だけは、世界に、母と子、二人きりであるかのような、不思議な錯覚があった。
不意に、前を歩いていた琴がぽつり、と呟いた。
「胡蝶……貴方が、まだ、本当に小さかった頃のことを、思い出しますね」
「……?」
胡蝶は、戸惑いながら母を見る。なぜ、このような時に、昔話……?
疑問に思うも、胡蝶は何も言わず、ただ、母の次の言葉を待った。
「あの頃の貴方は、本当に、手のかからない、賢い子で……それでいて、いつも私の後を、ひよこのようについて回って……。ふふ、懐かしいわ」
琴は、慈しむように目を細める。その表情は穏やかだった。
「源太左衛門や、虎千代と、よく泥んこになって遊んで……。あの頃が、一番、幸せだったのかもしれません」
「……はい」
胡蝶は、ただ、短く相槌を打つことしかできなかった。
「そういえば……あの、竹とんぼは、どうなったのでしょうね」
琴は、まるで今思い出したかのように、そう言った。胡蝶が、大切な宝物だと言ってくれた、あの、不格好な竹とんぼ。
「っ」
胡蝶の胸が、ちくりと痛んだ。
「母上との、大切な思い出の品を……屋敷に、置いてきてしまいました。……無事だと、よいのですが」
あの混乱の中、持ち出すことなど、できるはずもなかった。
今はもう、敵兵たちの手で踏みつけられているか、あるいは、屋敷ごと燃やされてしまったか。そう思うと、悔しさと悲しさが込み上げてくる。
しかし、そんな胡蝶の言葉に、琴は優しく微笑んで、言った。
「いいえ、胡蝶。あんなもの、もう良いのです」
その声は穏やかだった。
「あれは、ほんの少ししか空を舞うことができなかったけれど……貴方は、あの竹とんぼよりも、もっと、もっと高く……どこまでも、自由に飛んでいけるのですから」
「……?」
どこか寂しげな母の言葉に、胡蝶は何も言い返すことができなかった。彼女は、一体何を言いたいのだろうか。
胡蝶が、母の真意を問い質そうと口を開きかけた、その時。
「さぁ、参りましょう、胡蝶」
琴はそう言うと胡蝶の手を強く握り、自ら先へと歩みを進めた。
その横顔にはもう迷いの色はない。胡蝶もまた、母の言葉に無言で従うしかなかった。
追手から逃れるため、ただひたすらに闇の中を駆け続けていた二人は、不意に、目の前が開けるのを感じた。
そこは、木々がわずかに途切れ、岩間から清水がこんこんと湧き出る、小さな沢であった。
月明かりが、天からの光のように、その一点だけを優しく照らし出し、水面は、銀の砂を撒いたかのように、静かに、そして清らかに輝いている。
殺し合いの喧騒も血の匂いも、ここだけは届かぬかのような、どこか神聖な空気が、その場を支配していた。
「胡蝶、少しだけ」
不意に、琴が立ち止まり、静かにそう言った。
胡蝶が戸惑いながら振り返るのを待たず、琴は、その力ないはずの手で、息子の腕をぐっと引き、沢のほとりへと導く。
その口調と眼差しには、有無を言わさぬ、静かな力強さが宿っていた。
琴は戸惑う胡蝶を、有無を言わさず沢のほとりに座らせると、自らの袖をその澄んだ水でそっと濡らした。
「母上。今は早く先を急がねばなりませぬ」
胡蝶が、焦りを滲ませながら促す。
琴は顔を上げず、ただ濡れた袖を固く絞りながら静かに答えた。
「少しだけ。……貴方の綺麗な顔が、血と泥で汚れてしまっては、可哀想ですから」
そう言うと、琴は濡らした袖で、胡蝶の頬や額にこびり付いた血糊と泥を一つ一つ、祈るように丁寧に拭い始めた。
それは幼い頃、転んで怪我をした息子の顔を優しく拭いてやった時と、何ら変わりのない手つき。
胡蝶の顔を清めながら、琴は世間話でもするかのように穏やかに語りかける。
「胡蝶、貴方は、どこまで飛んでいけるのでしょうね。でも、私は、貴方と違って、翅がついていないから……。悲しいけれど、そこまでは、とてもついてはいけないかもしれませんね」
その言葉に、胡蝶は、不吉なものを感じて、はっと顔を上げた。
「母上……?私が、母上のお側を離れ、一人でどこかへ行ってしまうなどと……そのようなこと、決してありません」
胡蝶の真っ直ぐな言葉に、琴は胸が張り裂けるような思いを必死に押し殺し、心の中で、そっと呟いた。
(えぇ、知っているわ。貴方が、決して私を見捨てない、優しい子だということは。──だから……)
琴は胡蝶の顔を清め終えると、その顔を両手で優しく包み込み、満足したように微笑んだ。
「さぁ、参りましょう」
琴は、そう言うと、胡蝶の手を借りることなく、自らの力で、すっと立ち上がる。
その立ち姿には、もう、一片の迷いも、怯えも見られない。
胡蝶は月明りに照らされた母の、そのあまりにも凛とした姿を見て、一枚の画のように幻想的だと思うと同時に、その静けさの奥底に、得体の知れない何かを感じ、言いようのない胸騒ぎを覚えていた。
そう、それはまるで。
弥助や、権太のような、覚悟を決めた者の表情のようで──