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第四十二幕 蛹の殻、散華の刻

再び、二人は山道を進み始めた。


先ほどまで胡蝶の腕にすがるようにして、おぼつかない足取りであった琴が、今は憑き物が落ちたかのように凛とした足取りで前を見据えている。




「……」




変わり果てた母の姿に胡蝶は得体の知れない胸騒ぎを覚えていた。




──先ほどの戦闘で、あれほど怯えていた母が。


──仲間を失い、絶望的な状況にあるというのに。




何故、これほどまでに落ち着き払っているのか。


その穏やかさがかえって胡蝶の心を、不穏な影で満たしていく。二人の間には、先ほどまでとは質の違う、張り詰めた空気が流れていた。




「母上」




胡蝶が母の真意を問いただそうと、何かを言おうとしたその時であった。




「!」




左右の森の奥から複数の追手の声が一度に湧き上がったのだ。その声は次第に近づき、明らかに数を増している。


それは闇雲な探索ではない。獲物を追い込むための、統率の取れた冷徹な動き。




(追い詰められている……!!)




胡蝶は敵の意図を悟り、戦慄した。


しかし後戻りはできない。背後からも、敵の気配が迫っている。道は前方にしか残されていなかった。




「母上、走りましょう!」




迫る敵の気配を肌で感じながら、二人は残された唯一の道、前へとただひたすらに駆けた。


そうして、木々が密集する険しい山道をどれほど駆け抜けたであろうか。


不意に、目の前の視界が大きく開けた。


二人が辿り着いたのは、皮肉なほどに月明かりが美しく降り注ぐ、開けた中腹の広場であった。そこは身を隠す大木も、岩陰一つない満月が照らす場所。




「ここは……」




胡蝶は、息を呑んだ。


美しい夜空の下、この広場だけが、なぜか白く光を放っているかのような錯覚さえ覚える。


だが今の胡蝶には、幽玄な美しさを感じている余裕など微塵もなかった。胡蝶には、分かっていた。




──ここは、死地だ。




彼は即座に踵を返し、再び森の闇へと逃げ込もうとするが……。




「こっちだ! 塞げ!」


「逃がすな! 囲い込め!」




次々と四方八方の茂みから、松明を持った武士が一斉に姿を現した。


その数は数十人ではきかない。幾重にも重なった人垣が、じりじりと二人の逃げ道を塞いでいく。




「……!」




完全に、退路を断たれた。




(囲まれた……!)




胡蝶は己の刀の柄を、強く強く握りしめながら、冷徹な現実を静かに受け入れた。


手負いの腕の激痛を、奥歯を噛み締めることで無理やりこらえながら、母の前に立ちはだかった。


絶望的な状況。だが不思議と、心は静かであった。




(ここまで、か)




ならばせめて、最期まで。


母を守る盾として、一人の武士として、この命を華々しく散らせてくれよう。


瞳には悲しみの色はなく、烈火の如き強い意志の炎だけが赤々と宿っていた。




「母上!決して、私から離れてはなりませぬ!」




胡蝶がそう言い放った、その刹那。


不意に、背後から肩を掴まれた。




「胡蝶」




その声色は、この場に不自然な程に普段通り。


琴は胡蝶の前に回り込むと血に濡れた頬を優しく両手で包み込んだ。


穏やかで自然なその動作に、殺気立っていた胡蝶も、そして包囲網を狭めていた武士たちも、訝しみ、動きを止める。




「貴方は、蝶。本当は、もっと、ずっとずっと高く、どこまでも飛んでいける……美しい、私の蝶」




胡蝶には母が何を言っているのか分からなかった。


死を目前にした状況で、一体何を?


だが、琴はそんな息子の困惑など意にも介さず言葉を紡ぎ続ける。




「そして、私はあなたの羽化を、ずっと妨げていた、ただの蛹の殻……」




琴は胡蝶の頬から手を離すと、彼に背を向けた。そして、舞を舞うかのように、優雅な足取りで、一人、広場の中央へと歩みを進めていく。


月光を浴びたその姿は幻想的で、胡蝶はその背中を見つめることしかできなかった。


しかしやがて我に返り、絶叫する。




「は、母上! 何をなさるおつもりです!」




まさか、投降するつもりなのか──?


その考えは、敵方の武士たちも同じであったらしい。武将たちは下卑た笑みを浮かべ、嘲るように言った。




「ふん……ようやく観念して、大人しく捕まる気になったか」


「だが、こちらも仲間を随分と殺されたんでな。ただで済むと思うなよ」


「そうだとも。その美しい顔が、苦痛と絶望に歪む様を、じっくりと楽しませてもらうぞ。その後は、そこの小僧もな!」




武士たちの欲望と嘲りに満ちた声が、広場に響き渡った。


しかし、そんな武士たちの下卑た嘲笑は凛とした一声によって、ぴたりと途切れた。




「おだまりなさい、下郎どもが!」




鈴を転がすように澄んでいながら、鋼のような強さを秘めた一喝。


声が放たれた瞬間、広場を支配していた喧騒、嘘のように静まり返った。


あまりの気迫に、周りを固めていた武士たちも、そして母を助けようと動き出そうとしていた胡蝶さえも思わず息を呑み、凍り付く。


月光の下、広場の中央に立つ琴は怯えるか弱い女ではなかった。その瞳には、自らの血筋と、武門に生きてきた誇りが、烈火の如く燃え盛っている。




「私は、海野に連なる者!そして、真田に嫁ぎし武家の妻!その私が、易々と敵にその身をくれてやり、尊厳まで売り渡すとでも思うたか!」




それは、琴の魂の叫びであった。


堂々とした、そして気高い振る舞いと言葉に、周囲の者たちはただ圧倒され、誰一人として動くことができなかった。




琴は流れるような動作で、その白い手を、懐へと差し入れる。




「え……?」




次の瞬間そこから抜き放たれたのは──月光を浴びて、光を放つ、一振りの白鞘の短刀であった。




「──」




それを見た瞬間、胡蝶の全身を、今まで感じたことのないほどの凄まじい戦慄が駆け抜けた。




──まさか。




──まさか!




母が何をしようとしているのか、胡蝶は理解してしまった。


そしてようやく、煌めく刃の意味を武士たちも、分かったらしい。




「いかん!!」


「止めろ、止めさせろ!生かして捕らえよとの御命令だぞ!」




先ほどまでの嘲笑は焦りへと変わり、武士たちが我先にと琴へと殺到する。




「母上っ!」




胡蝶もまた、絶叫しながら、その命を繋ぎ止めんと必死に手を伸ばし、母の元へと疾走した。


だが──誰の手も、もはや彼女には届かない。


琴は自らの白い首筋へと、その切っ先をぴたりとくっつけた。




「やめ──」




胡蝶の悲痛な叫び。


琴はゆっくりと、息子の方を振り返った。




「……」




二人の視線が、刹那、交錯する。


琴の瞳には深い、深い愛情だけが浮かんでいた。そして、彼女の唇は最後に、愛しい息子のために、言葉を紡いだ。




「──これで貴方は、自由に飛べる──」




その言葉と共に、琴は自らの身体を支えていた力を、ふっと抜いた。


糸が切れたかのように、彼女の身体はそのまま静かに、前のめりで地面へと倒れこんでいく。




「──!」




そして──地面に倒れこむと同時に、首筋に当てられた短刀の刃は抵抗なく、深々と命を貫いた。


夜の静寂を破り、鮮血が赤い花びらのように、月明かりの下で鮮烈に舞い散った。

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