粗末な産着に包まれた、小さな小さな命。
初めてその腕に抱いた時、この世にこれほどまでに愛おしいものが存在したのかと胸が震えた。
すやすやと眠る、玉のように透き通る白い肌。小さな唇から漏れるか細い寝息。
その温もりが心を、どうしようもないほどの愛おしさで満たしていく。
この子を守りたい。この子を、この腕の中でいつまでもいつまでも、慈しんでいたい。
そう強く願った。
だが。
腕の中に感じていた赤子の柔らかな温もりは、いつしか自らの首筋から溢れ出る生暖かい血の感触へと変わっていく。
「──母上、母上!」
耳元で、愛しい存在の悲痛な叫び声が聞こえる。意識がゆっくりと現在へと引き戻された。
──ああ、そうか。
自分は大きく、逞しく成長した息子の腕の中にいるのだ。
彼の血と涙に濡れた美しい顔が、見たこともないほどの苦痛に歪んで自分を見下ろしている。
周りで誰かが何かを叫んでいる。怒号や喧騒が、水の中にいるかのようにくぐもって遠くに聞こえた。
「かっ……はっ……」
喉からは、ただ血の泡が漏れる音しか出てこない。
琴は薄れゆく意識の中、ふと一つの重大なことを思い出した。
(あぁ、そうだ……この子に、伝えなければ……。死ぬ前に、これだけは、伝えてやらねば……)
死を目前にして、不思議と心は凪いでいた。
だからこそ、今まで胸の内に秘め、いつか来る佳き日に渡そうと大切に温めていた、あの言葉。
そう──彼の、本当の『名前』を。
既に、琴は胡蝶が元服した際に授ける名を決めていた。
あれほど悩み、考え抜いてようやく見つけ出した、我が子に贈る、たった一つの宝物。
だが、敗戦と過酷な逃亡のいざこざで、それを伝えるどころではなかったのだ。
最早、自分に残された命は、風前の灯火。
だから、その前に──
琴は最後の力を振り絞り胡蝶へと、か細い手を伸ばす。必死に声を出そうとするが喉から漏れるのは、ひゅう、ひゅう、と空気が漏れる音ばかり。
「なん……で……」
愛しい息子の瞳から、大粒の涙が自らの頬へと落ちてくる。その温もりが、琴の視界に焼き付く。
──その時であった。
琴の意識が、視界が肉体という枷から解き放たれ、遥か彼方へと飛翔するように目まぐるしく移り変わっていく。
(──)
それは過去の光景か。それともまだ見ぬ未来か。あるいは……別の有り得たかもしれぬ、幸福な世界の断片か。
数えきれないほどの情景が光の奔流となって、琴の意識を通り過ぎていく。
やがてその光は、一つの優しい輝きへと収束し彼女の全てを、温かく包み込んでいった。
♢ ♢ ♢
そこに広がっていたのは暖かな陽光と、風に舞う無数の花びら。
満開の桜が咲き誇る場所──真田の屋敷の、美しい庭。
(私は……?)
琴は自らの手を見下ろした。血も泥も付いていない、綺麗な手。
纏っているのも破れた衣服ではなく、優美な絹の衣。
「?」
琴が不思議そうに首を傾げたその時だった。
横から聞き慣れた、愛しい声が掛かった。
「琴、何を呆けておる」
はっとして顔を向けると、そこには──いるはずのない夫、頼昌が困ったような、それでいて嬉しそうな複雑な笑みを浮かべて立っていた。
「えっ……!?な、何故……何故、貴方が生きて……」
「何を言っておるのだ、琴。わしが死んだ夢でも見ておったか?」
頼昌は、そう言って豪快に笑う。
(夢……? そう、なのでしょうか……?)
琴は混乱したまま、必死に今までの記憶を思い出そうとする。
暗い山道、血の匂い、誰かの悲痛な叫び……。
何か恐ろしくて、悲しい出来事があったはず。
だけど──具体的な光景が深い霧に覆われたかのように思い出せない。
(私は一体、何をしていたのでしたっけ……?)
彼女は必死に思い出そうとするが、庭に満ちるどこまでも穏やかで、晴れやかな祝祭の雰囲気が琴の混乱を優しく溶かしていく。
「……」
琴は、考えるのをやめた。
目の前に広がる幸福な光景に、ただ心を委ねることにしたのだ。
「さぁ、いつまでも呆けてないで。今日のような良き日に、そんな顔をしていては皆に笑われるぞ」
──あぁ、そうだった。今日はこの信濃を救った英雄の、喜ばしい門出の日ではないか。
庭には、信濃に名だたる武将たちが数多く集っていた。
諏訪大社の威光を背負う諏訪家の当主・諏訪頼重の姿も、そして、北信濃の雄・村上義清の姿も。
二人は、穏やかな表情で杯を酌み交わしている。本来、敵対し互いの腹を探り合うはずの彼らが、ここでは皆、一人の若者の門出を祝うために席を共にしているのだ。
「いやはや、貴殿のような無骨な御仁が、こうも神妙な顔で桜を眺めておられるとは。これは明日にでも、天から槍が降ってくるやもしれませぬな」
諏訪頼重が、高貴な顔立ちにどこかひょうきんな笑みを浮かべ、冗談めかして言った。
対する村上義清は厳粛に座している。荒々しい武勇で知られる彼も、今日ばかりは、その猛々しさを鞘に納めているようだ。
「貴殿こそ、そのよく回る口ではなく杯を動かされたらどうだ。今日の主役は、我らではない」
義清は、ぶっきらぼうに、しかし声には確かな敬意を込めてそう返した。
そして琴の視線は、自然と武将たちの輪の中心へと向けられた。
「──」
満開の桜の木の下、そこに、一人の青年が静かに座している。
──信濃の諸将をまとめ上げ、永きに渡る戦乱に終止符を打ち、この地に平和をもたらした英雄として、皆からの尊敬と信頼を一身に受ける、凛々しくも、どこか神々しい青年。
その姿が、そこにはあった。
その眩しい青年の姿を見て、琴はようやく自分が今日、ここにいるべき理由を思い出した。
「──ええ、そうでしたわ。今日、この佳き日……私たちはあの方に名を与えるのでしたね」
琴は隣に立つ頼昌の顔を、眩しいものを見るかのように見上げた。
夫の横顔は誇りに満ち、その瞳にはこれから行われる儀式の重みが宿っている。琴は、その夫と全く同じ想いを分かち合っていることに胸が温かくなるのを感じながら、慈しむように微笑んだ。
やがて頼昌に促されるように、琴は一歩を踏み出す。居並ぶ信濃の諸将たちが敬意のこもった眼差しで見守る中、夫婦は一つの影であるかのように、揃いの歩みで青年の前へと進み出た。
「これまでの貴殿の功、まこと見事であった。皆がその働きに感謝している。今日この日より、貴殿も一人前の武士。この烏帽子を、新たな門出の証とせよ」
言葉一つ一つが、庭の澄んだ空気に染み渡っていく。頼昌はゆっくりと、新たな門出を象徴する烏帽子を青年の頭に、そっと授けた。
──なんと晴れやかで、満ち足りた光景だろう。
誰もがその門出を祝福している。これ以上ないほどの幸福。魂が焦がれるほどに望んだ、完璧な一場面。
その光景を目の当たりにした、その時だった。
琴の瞳から、ふいに堰を切ったように大粒の涙がぽろぽろと溢れ落ちたのだ。
「え……?」
琴自身、その涙の理由が分からない。
「も、申し訳ございません……!このような、喜ばしいお席で……どうして、私……涙が……」
拭っても拭っても、後から後から熱い雫が頬を伝う。
自らの意に反して流れ落ちる涙に、琴はひどく狼狽した。こんなにも喜ばしい日に、泣くなどという失態。
琴は慌てて袖で目元を隠す。その様子に、祝いの言葉を交わしていた諸将たちの間に、穏やかなどよめきが広がった。
だが、その喧騒を透き通るような穏やかな声が制した。
「構いませぬ。貴女もこの時を、永く、待ちわびておられたということ、痛いほどに伝わっております故に」
青年は、そう言うと静かに顔を上げた。
その声に周囲は再び静寂に包まれる。
何故なら──青年もまた、美しい瞳から一筋の涙を、静かに流していたからだ。彼は涙を隠そうともせず、ただ真っ直ぐに琴と頼昌の姿を見据えていた。
(何故……何故、わたくしは、泣いているのでしょう……?)
琴は自らの涙の理由が分からず、困惑した。
(そして、何故……この若者もまた涙を流して……?)
目の前の青年は、ただ静かに涙を流している。それは、悲しみの涙ではない。かといって、単なる喜びの涙でもない。
もっと、ずっと深く、永い、永い旅路の果てに……ようやく辿り着いた安息の地で、大切な何かを確かめるかのような……そんな、不思議な涙であった。
(分からない……何も、思い出せない……)
なのに、どうしてだろう。
青年の言う通り、この時を……この光景を、自分は遥か遠い昔から、夢に見続けてきたような気がするのだ。
桜が舞う庭で皆が笑い合い、そして目の前の青年の門出を祝う。
この幸福な一場面を、魂が焦がれるほどに待ち望んでいた──そんな、確信にも似た想いが、琴の胸を満たしていった。
(でも、今は……。言わなくては。伝えなくてはならない。この言葉を。この名を──)
込み上げる感情と、止まらぬ涙。その中で琴は、これが自らに与えられた最も大切な役目なのだと魂で理解していた。
彼女は目の前の青年を真っ直ぐに見つめ、震える唇をゆっくりと開いた。
そして──
「貴方の名前は──」
♢ ♢ ♢
「く──」
血に濡れた琴の唇が、震えながら最期の音を紡いだ。
しかし言葉が、一つの名として完成することは永遠になかった。
胡蝶の頬に添えられていた母の手から、ふっと力が抜け、だらりと垂れ下がる。
瞳から急速に光が失われ、虚ろな硝子玉のように、空を映すばかりとなった。
「……」
静かな死の様を胡蝶は、涙を流しながら見つめていた。
母の身体を抱きしめ、頬に次から次へと熱い雫を落とす。
「はは……うえ……」
喉から漏れ出たのは言葉にならない、獣のような嗚咽。
理外の光景に、その場にいた武士たちは動けずに唖然と見つめていた。
だが、やがて一人の武将が、はっと我に返り忌々しげに吐き捨てる。
「おのれ……!この期に及んで、自害するとは、なんと気丈な女!」
「どうする。御屋形様は、生かして捕らえよと……。恐らくあの女は、海野の縁者に相違あるまい。このままでは、大手柄を逃すことになるぞ」
「いや、待て」
別の武士が、胡蝶を顎でしゃくりながら、目を光らせた。
「まだ、あの小僧が残っておるではないか。あれも恐らく、海野の血を引く者であろう」
その言葉に、武士たちの間に、再び欲望の光が灯る。
そうだ、まだ終わりではない。小僧を捕らえれば、御屋形様への土産にはなる。
武士たちが未だ母の亡骸を抱きしめ、泣きじゃくる胡蝶へと近づいた。
その瞬間。
「──殺してやる」
地を這うような冷たい声が、静まり返った広場に響いた。
それは、先ほどまで泣きじゃくっていた少年から発せられたとは、到底思えぬ声。
武士たちが、はっとして、その声の主へと視線を向けた、その刹那、胡蝶の姿が掻き消えた。
「……っ!?」
次の瞬間、何が起こったのかを正確に認識できた者はいなかったであろう。
ただ、一番近くにいた数人の武士の首が胴体から音もなく離れ、宙を舞った。
鮮血が噴水のように、闇夜へと高く撒き散らされた。