時が止まっていた。
先ほどまで仲間を殺された怒りと、獲物を追い詰めた興奮で猛り狂っていたはずの兵たちは今、目の前で起きた信じがたい光景に凍り付いていた。
「……」
血の匂いが立ち込める月下の広場。中心に血に濡れて佇む美しい少年。
その様はこの世の者ではない、何か別の存在……人の姿を借りた恐ろしい物の怪か。
攻撃を仕掛けることも、背を向けて逃げ出すこともできず。彼らは、金縛りにあったかのようにその場に立ち尽くす。
カタカタと震えるのは、己の歯の根が合わぬ音。
「馬鹿な……」
「なんじゃ、今のは。化け物か、あれは」
兵士たちの唇から掠れた、信じられないといった響きの声が漏れた。
張り詰めた均衡を破ったのは、一人の若い武士であった。
「各々方!何を怖気づいておる!相手は、小童!」
恐怖を振り払うかのように獣のような雄叫びを上げ、胡蝶へとがむしゃらに斬りかかってきたのだ。
それを合図に胡蝶が静かに目を細めた。そして、刀を構える。それは単なる反撃の構えではない。
舞の始まりである。
胡蝶へと向かってきた敵兵の刃が胡蝶に届くことはなかった。
胡蝶の身体が風に舞う木の葉のように、その一撃をいなしたからだ。そして、すれ違い様に胡蝶の刀が一閃。
「がはぁっ!?」
敵兵は何が起こったのかも分からぬまま、一瞬で切り刻まれ、血の海に倒れ伏した。
その動きの一つ一つが、もはや武術のそれではない。
「何故、母上が、死なねばならなかった……」
胡蝶は自分自身に問いかけるかのように、静かに呟いた。
「怯むな!一斉にかかれぃ!殺せ、殺すんだ!」
一人の武将が自らを鼓舞するように、恐怖に駆られたように絶叫した。
その言葉を合図に、残っていた全ての兵士が、鬨の声を上げ、胡蝶へと一斉に襲い掛かった。
死の奔流を前にして、胡蝶の瞳から堪えきれなかった涙が、一筋、また一筋と静かに流れ落ちた。
しかし、身体は悲しみに止まることなく、むしろより一層滑らかに鋭く、舞い始める。
(どうして)
涙を流しながら、彼は舞う。
優雅に、しかし、鮮烈に。
(なぜ)
その刃が煌めく度に兵士が赤い血飛沫を上げて、地に伏していく。
怒号と悲鳴が入り乱れる中、胡蝶は無心で舞い続けた。
片腕が使えぬという事実を感じさせぬほどの、神がかり的な動き。
右腕一本で振るわれる刃は、正確に、無慈悲に、敵兵たちの命を次々と刈り取っていく。
舞の途中、くるりと身を翻した刹那。
胡蝶の視界の端に月明かりの下、静かに横たわる母の亡骸が映った。
(母上はこのように無残に、こんな血と泥に汚れた場所で、死ぬべき人ではなかった)
脳裏に優しい笑顔が、琴を弾く優雅な姿が、蘇る。
これから、親孝行をするはずだった。この手で、必ずや母上を守り抜き幸せにすると、誓ったはずだった。
だがその願いは、永遠に敵わぬものとなった。
敵の刃をひらりとかわす様は、風に舞う花びらのように。
返す刀で敵を斬り伏せる様は、散り際を惜しむかのような、美しい一閃として。
終わりなき舞いの最中、胡蝶はひたすらに自問自答を続けていた。
(何故、母上は、死なねばならなかった……?いや、違う。そんなこと、分かっている……)
全ては──己が、あまりにも、弱かったからこそ。
母を守ることができなかったのだ。
残酷な結論が、胡蝶の心を完全に支配した。
もはや彼は生き残ることを考えていない。左腕の激痛も、死への恐怖も今はもう感じていなかった。
──もう、いい。母上の元へ……逝こう。
それだけを願う。
だが、同時に母の気高い最期を、存在そのものを穢した者たちを、一人残らずこの世から消し去るために無心で舞い続ける。
「ひっ……な、なんなんだこいつは……!」
そうして。
舞が続くうち、胡蝶の心に空虚な悲しみとは別の新たな感情が、湧き上がってくる。
それは──怒り。
(なぜ、俺は、これほどの力を持ちながら……母一人、守れなかった!)
己の、あまりの不甲斐なさへの、猛烈な怒り。
(そして、貴様らだ。貴様らさえいなければ、母上は死ぬことなどなかった)
母を死へと追い込んだ、目の前の敵への骨の髄まで焼き尽くすかのような激しい怒り。
その二つの怒りが胡蝶の舞を、凄絶なものへと変えていく。
「う、うわあああ!」
「来るな! こっちへ来るな!」
月光の下、胡蝶の舞は人の域を超えていた。
片腕が使えぬというのに、刃は意志を持っているかのように敵兵たちの鎧の隙間を寸分の狂いもなく正確に抉り、貫いていく。
「な、何なのだ、こいつは……!?片腕しか使えぬはずだぞ!」
「物の怪だ、こいつは、この土地の物の怪に取り憑かれておるのだ!」
兵士たちは恐怖に顔を引きつらせ、じりじりと後ずさる。
彼らの目に映る胡蝶は、ただの少年ではない。母の亡骸の傍らで舞い狂う、一体の恐ろしい鬼神。
「殺してやる」
復讐の舞手の口から、呪いのように言葉が漏れた。
胡蝶の舞いは、さらに、さらに激しさを増していく。傷ついた左腕が千切れんばかりに悲鳴を上げ、全身に敵の、己の血を浴びながら、それでも彼は舞うことをやめない。
「──殺してやる!」
怒りが、ついに頂点に達した。
鮮血が、桜の花びらのように月下の舞台に舞い散る中、胡蝶はひたすらに、舞い続けた。
──どれほど、そうして舞い続けたであろうか。
胡蝶の身体は、おびただしい流血と常人ならば疾うに意識を失っているほどの疲労で既に限界に達していた。
その証拠にあれほどまでに神速であった舞の速度が、わずかに落ちてきている。
それでも彼は舞うことをやめなかった。
「ば、化け物め……だが、流石に動きが鈍ってきたぞ!」
生き残っていた武士の一人が、恐怖を込めて叫んだ。
「弓を構えろ!近づくのは危険だ、遠くから射殺せ!」
号令と共に、残った兵士が胡蝶へと雨のような矢を降らせた。
胡蝶は背後にも目があるかのように、人ならざる反応速度で、飛来する矢を刀で叩き落とす。
だが、数本の矢は、捉えきれず、その身体に傷を付けることを許してしまう。
「くっ……そっ!」
彼は自らに突き刺さった矢をものともせず、地を蹴り、弓を射かけた射手たちへと最後の力を振り絞って殺到する。
一瞬の煌めき。そして、数条の血飛沫。
射手たちは、悲鳴を上げる間もなく、その場に崩れ落ちた。
「う……」
だが、胡蝶の身体が限界に近づいていることは、誰の目にも明らかであった。
彼はその場に膝から崩れ落ちそうになるのを、刀を杖代わりにしてかろうじて支える。
「はぁっ……はぁっ……」
荒い、血の混じった呼吸だけが、死体だらけの広場に、虚しく響いていた。
最初から。
母が命を絶った、あの瞬間に。
己一人のことだけを考えて逃げていれば、助かったであろう。
一人ならば、このような険しい山道を、それこそ蝶が舞うように、鳥が飛ぶように駆け抜けることなど造作もなかったのだから。
だが、胡蝶はそうしなかった。
母の亡骸をこの血腥い戦場に置き去りにして、一人で生き永らえることだけはどうしても……どうしてもできなかった。
「はぁっ……はぁっ……」
胡蝶は荒い息を整えると、おぼつかない足取りで母の亡骸の傍らへと戻る。そして、その亡骸を背にして、仁王のように立ちはだかった。
その瞳に怒りの炎はない。静かな覚悟の光だけが宿っている。
(この命尽きるまで。母上が安らかに眠れるよう、この場所を誰にも、穢させはしない)
胡蝶の悲壮な覚悟を前に、兵たちは後ずさるばかりであった。
しかし、その中の一人が胡蝶の荒い息遣いとおぼつかない足取りに気づく。
「あの小僧、もう動けぬのではないか」
その言葉に他の兵士たちも、恐怖の中にわずかな希望を見出す。
そうだ、あれほどの化け物じみた動きを続けたのだ。限界が来ないはずがない。
「よし……このまま、矢で射殺せ……!下手に近づけば、また何をされるか分からん!」
「いや、殺してはならぬ。こいつは、海野の縁者。ならば、生かして捕らえねば……。このまま矢でなぶり、急所を裂けて半殺しにしろ!」
武士たちがそんな会話を交わしていた、その時であった。
「──なるほどな。貴殿らは、あの舞を見て尚、『矢』でなぶるなどと、平然と言えるのか」
凜とした、地の底から響くような重い声が、突如として彼らの背後から響いた。
「!?」
生き残っていた武士たちが驚愕と共に一斉に振り返る。
そこに広がっていたのは、信じられない光景であった。
「なっ……なに……!?」
広場を、そして自分たち村上の軍を。
さらにその外側から幾重にも、赤い鎧を纏った武士たちが、音もなく完全に包囲していたのだ。
真紅の甲冑が、月光を浴びてぬらりと光る──。