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第四十五幕 虎蝶の邂逅、月下の死華

月下に音もなく立ち並ぶ、真紅の甲冑。

威圧的な光景を前に、先ほどまで手負いの少年一人を嬲り殺そうと息巻いていた兵たちは、完全に気勢を削がれていた。


あれは、紛れもない。甲斐の武田が誇る、精鋭中の精鋭部隊。

その存在を知らぬ者は、信濃にはいない。

そんな統率の取れた軍勢が今、自分たちを完全に包囲している。その事実に、武士たちは恐怖と混乱に陥った。


やがて、一人の武将が震える声で静寂を破った。


「何故、武田がこの地にいる!」


その声に呼応するように、別の兵士もまた必死に自らの正当性を叫んだ。


「ここは、我ら村上家が海野を討ち、支配下に置いた土地のはずだ」


村上兵の必死の抗議に赤備えの武士たちは、鉄面頬の奥で笑うかのように冷ややかに言い放った。


「ほう、貴殿らの領地か。だが御屋形様より、そのような話は一切聞いておらぬな」


隣にいた別の武田兵もまた、侮蔑の色を隠そうともせず、言葉を続ける。


「然り。海野がいなくなったとて、この地が誰のものなぞ、まだ定まっておるまい。我らは命に従い、この地を散策しに来たまでのことよ」


それは、あからさまな牽制であった。

海野平の戦いは、確かに村上・諏訪・武田の三家による連合軍の勝利であった。しかし、戦後の領地配分など、まだ何一つとして決まってはいない。

村上家がこの小県郡に勢力を伸ばすことを、武田家が面白く思うはずもなかったのだ。


「……おのれ」


その、あまりにも不遜な態度に、村上兵たちは激怒し、刀の柄に手をかける。

だが、目の前の血のように赤い軍勢が放つ、歴戦の強者のみが持つ異様な気迫と、圧倒的な数の前に、一歩も動くことができない。

ここで刃を交えれば、自分たちがどうなるか。火を見るよりも、明らかであった。


「くそっ……」


村上兵たちが、怒りと屈辱に唇を噛む中、赤備えの武士たちは、彼らから興味を失ったかのように、ふいと視線を広場の中央へと移した。

おびただしい数の亡骸と、その傍らに横たわる女人の亡骸。そして、血に濡れて佇む美しい少年。


「して、あれは何だ」


武田の兵は顎で胡蝶をしゃくりながら、静かに問うた。


「童一人が、随分と派手に立ち回ったようだが」


その問いに、村上兵の一人が恐怖と自分たちの不甲斐なさを誤魔化すように、上ずった声で答えた。


「あ、あれは……化け物だ。今まさに、矢で射殺そうとしていたところで……」


その言葉が終わるか終わらないかのうちに、武田兵たちの間からあからさまな軽蔑のため息が漏れた。


「矢、だと」

「武士としての覚悟の姿を、遠巻きにして矢で射ると申すか」


その声に呼応するように、周りの武田兵たちからも、侮蔑の言葉が続く。


「なんたる卑劣。なんたる無様な戦いぶりよ。武士ならば、あの童の覚悟、正面から受け止めてやるのが筋ではないのか」


武田兵からの武士としての矜持を問う、正論な叱責。

痛いところを突かれた村上兵たちは、顔を赤くさせながらも、苦しい言い訳を並べ立てるしかなかった。


「い、いや、しかし。あれはあまりにも危険で……」

「そうだ、我らとて、被害を最小限に抑えるのが……これも、戦の常道というもの」


あまりにも見苦しい醜態に、武田兵たちは言葉もなく心底呆れ果てた、という表情を浮かべるだけであった。


そして、そんな彼らを。

胡蝶は朦朧とする意識の中、目の前に現れた新たな敵の気配だけを、かろうじて認識していた。


(また、敵か)


身体は、指一本動かすことすら億劫だ。

だが、それでも。


(母上の最期を穢す者ども。ならば、見せてやる。この命、尽きる前に最後の花を……)


胡蝶は残された最後の力を振り絞り、刀を構え直す。


そんな広場での一連の騒ぎを、赤備えの後方で一人の大男が、静かに見つめていた。

武田最強部隊を率いる将──飯富虎昌である。彼は、隣に控える副官に、ぽつりと呟いた。


「あの舞、誠に見事。鬼気迫る中に散り際の桜のような、儚さがあった」

「はっ」


副官は、緊張した面持ちで応える。


「あの童、ただ者ではありますまい。そして、あの亡くなっている女人……ただの村娘とも思えませぬ。恐らくは海野に連なる者……」


副官の言葉に、飯富虎昌はわずかに口角を上げた。


「海野の一族、か」


虎昌の脳裏で、冷徹な将としての打算が高速で回転を始める。


(童と、あの女人の亡骸を手中に収めれば、上野の上杉、そして村上をも牽制する絶好の手駒となり得る……)


しかし、その冷徹な計算とは別に、虎昌の心には純粋な武人としての熱い欲求がふつふつと湧き上がっていた。


(だが、それだけではない。あの美しくも哀しい、最期の舞……)


脳裏に月下で舞い踊る少年の姿が、鮮明に蘇る。


(もっとこの目で。間近で……あの舞を、じっくりと味わってみたいものだ──)


打算と、武人としての純粋な欲求。

その二つが、虎昌の中で一つの結論を導き出していた。

彼はその場にいる全ての者に響き渡るような、威圧的な声で言い放った。


「小僧一人が、それほどまでに怖いか。ならば、貴様らはそこで、指でも咥えて見ておるがいい」


その言葉には侮蔑と、絶対的な強者のみが持つ揺るぎない自信が満ち満ちていた。

虎昌はゆっくりと胡蝶の方へと視線を移す。


「あの舞の相手……某が直々に務めてやろう」


その言葉が、合図であった。

虎昌の背後に控えていた武田の赤備えが、一つの生き物のように前進を開始する。

彼らは、呆然と立ち尽くす村上兵たちを押し退けるようにして、胡蝶を、そして、その母の亡骸を完全に包囲していった。

村上兵たちは、もはや抗議の声を上げることすらできず、呆然と見守るしかできない。


「……!」


傷つき疲れ果て、満身創痍の胡蝶。

その前に、今度は先ほどまでの烏合の衆とは比べ物にならぬほどの、精強にして冷徹な赤き壁が絶望的に、立ちはだかった。


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