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第四十六幕 夢幻の揺籃


「はぁっ……はぁっ……」


月下に佇む、満身創痍の胡蝶。

そして、彼を囲む規律の取れた武田の赤き壁。

村上兵たちが立てていた喧騒は完全に消え、今はただ、いつ刃が交わるとも知れぬ張り詰めた静寂だけが、その場を支配していた。


「……」


赤き壁がゆっくりと左右に開かれた。

軍勢の中から、一人の大男が巨躯を揺らしながら、静かに胡蝶へと歩みを進めてくる。飯富虎昌であった。

彼の眼差しに宿っているのは、打ち倒すべき敵に向けるものではい。優れた武人や、無二の価値を持つ芸術品を、じっくりと鑑定するかのような静かな好奇心と、かすかな敬意の色。

やがて、胡蝶の数歩手前で虎昌はその巨体を止め、背後に控える自軍の兵……そして、村上の兵たちに、有無を言わさぬ声で命じた。


「手出しは無用」


その言葉に赤備えの兵たちは、微動だにせず、次の言葉を待つ。


「この童の最期……見届けるのは、この俺の役目よ」


胡蝶は目の前に立つ、山のような大男を見据えていた。


一切の隙がない構え。

そして、肌をピリピリと刺すような圧倒的な強者の気配。


(本物だ)


今まで対峙してきた、どの武士とも違う。胡蝶は本能で、自らの死を確信した。

しかし不思議と、瞳に絶望の色はなかった。その光は、どこか安堵しているかのようで……。


(潮時なのか。そう、か……)


胡蝶の瞳に宿るのは、全ての戦いを終え、安らかな眠りにつくことを許されたかのような、安堵にも似た光。


「……」


広場は、再び静寂に満ちていた。

遠巻きにする村上兵も武田兵も、誰もが固唾を飲んで中央に立つ二人を見守っている。

胡蝶は、残された右腕一本で、ゆっくりと刀を構え直した。


──これで、終わり。


身体は、既に鉛のように重い。だが不思議と心は澄み渡っていた。

この命が尽きる、その瞬間まで。母の命を、仲間たちの命を奪った、敵を一人でも多く、道連れにしてくれる──!

そうして、最期まで戦い尽くしてこそ自分は、母の元へと行けるのだ。


「……」


胡蝶の悲壮な覚悟を、虎昌は肌で感じ取っていた。

彼は応えるように、自らの腰に差した太刀を抜き放ち、静かに構える。

相手が幼さの残る童であろうと。片腕しか使えぬ、満身創痍の身であろうと。

彼は一切手を抜くつもりはなかった。

それこそが、一人の武人に対する彼なりの最大限の敬意だからだ。


静寂の中、先に動いたのは胡蝶であった。

身体から、ふっと力が抜ける。だがそれは倒れるためのものではない。


より高く。そして、より鋭く舞うためのものだった。


「はぁっー!!」


胡蝶は最後の命を、その一太刀に燃やし尽くすかのように虎昌へと迫った。

それは今までで最も鋭く、美しい舞いであった。


「────」


その場にいた全ての者の時が止まる。

敵も味方も刹那の光景に心を、目を奪われていた。

月光を浴びて血に濡れた蝶が、最期の煌めきを放ちながら、鮮烈に舞い踊る。その剣技に虎昌でさえも、思わず舌を巻いた。

だが、虎昌もまた、常人にあらず。


「ぬうっ……!」


虎昌は感嘆の声を漏らしながらも、太刀筋は冷静に、胡蝶の刃をことごとく受け流していく。

その剣技は、胡蝶の舞のような華やかさはないが、全てを見通しているかのような、揺るぎない達人のそれであった。


「あの二人……なんという太刀捌きよ」


二人の刃が幾度となく、火花を散らしながら交錯する。


(もっと、速く。もっと、鋭く。この命が、燃え尽きてしまう、その前に──)


胡蝶の心は、既に自らの死を受け入れていた。

だからこそ、彼の剣技は常軌を逸した冴えを見せる。

左腕の激痛も、全身から血が流れ出ていく感覚も、今はもうない。

ただ母の元へ逝く──その瞬間まで、己の全てを、この舞に昇華させる。


片腕一本で振るわれる刃は、銀色の光の太刀筋と化していた。虎昌が放つ、岩をも砕くかのような重い一撃を、胡蝶は柳のように、風のようにしなやかに受け流す。

足捌きは氷上を滑るかのようになめらかに。常人には到底目で追えぬほどの速さで、虎昌の巨躯の周りを、縦横無尽に舞い踊った。


(母上……見ていてくださいますか。貴方の息子が、貴方のために舞う、最期の舞です)


見る者を魅了する、美しい鎮魂の舞。そして、己の命の全てを燃やし尽くさんとする、舞。

鬼気迫る、そして悲壮な剣技を前に、周囲に立ち並ぶ歴戦の猛者たちでさえ、驚愕に目を見開いていた。


──そして。


ついに、胡蝶の身体が高く宙へと舞い上がった。

月を背に、跳躍したその姿は、月夜に舞う一頭の美しい蝶。

そして、蝶が放つ流星のような最後の突き──。


「我が太刀、受けてみよ──!」


虎昌は、流星のような一撃を前にして、微動だにしなかった。

両足に力を込め、大地に深く根を張る。そして、迎え撃つように自らの太刀を、体の真ん中で静止させた。


次の瞬間。鼓膜を裂くかのような、甲高い金属音。

胡蝶の命を燃やし尽くした渾身の突きは、虎昌の太刀の腹の部分に、寸分の狂いもなく、吸い込まれるようにして止められていた。


「……!?」


胡蝶の瞳が驚愕に大きく見開かれた。


自らの全てを賭した一撃が。

まるで、赤子の戯れのようにいとも容易く。

そして完璧に防がれてしまったのだ。


だが胡蝶が、絶望に完全に心を呑み込まれるその前に。

虎昌の巨木のように太い腕が動いた。

翻された太刀の峰の部分が、胡蝶のがら空きになった腹部へ容赦なく打ち込まれる。


「が……はっ……!」


内臓を直接揺さぶるかのような重い衝撃。

胡蝶の口から悲鳴と共に、肺の空気が全て絞り出された。


「あっ……」


視界が急速に白んでいく。

立っていることもままならず、身体がゆっくりと前のめりに崩れ落ちていった。

薄れゆく意識の中、最後に映ったのは、自分を見下ろす巨大な赤鬼のような武士の鉄面頬。


(母上……)


そして、その傍らには……月明かりを浴びて、穏やかに眠っているかのような、母の美しい顔。

虎昌は気を失った胡蝶を静かに見下ろすと、背後に控える自らの部下たちに、よく通る声で命じた。


「そこに横たわる女人の亡骸を、丁重にお連れ申せ。この童は、俺が運ぼう……」


その言葉に、武田兵が「はっ」と応え、胡蝶たちの元へと歩みを進める。

それと同時に、金縛りにあったかのように立ち尽くしていた村上兵たちが、はっと我に返った。


「な、なにを言うておる!その童は、我らが追い詰めたものだぞ!」

「そうだ!そして、その女の死体も、我ら村上の……!」


獲物を横から掠め取られんとする屈辱に、村上兵たちが口々に抗議の声を上げる。

だが、その声は虎昌がぎろりと彼らを睨みつけただけで、止んだ。

蛇に睨まれた蛙のように、村上兵たちは一様に怯え竦む。虎昌のあまりの迫力に、誰もが次の言葉を失ってしまったのだ。

静まり返った広場に、虎昌の嘲るかのような声が静かに響いた。


「文句があるというのなら」


虎昌は、ゆっくりと村上兵たちを見渡す。


「力づくで、奪ってみるがいい。俺はいつでも、受けてたとう」


絶対的な強者の挑発に村上兵たちは誰一人として、何も言い返すことはできなかった。

ただ悔しさに唇を噛み締め、俯きながらその場に立ち尽くすばかりであった。


周囲の静寂を肯定と受け取ったのか、虎昌は村上兵たちに一瞥もくれることなく、気を失った少年の傍らへと巨躯をかがめた。

そして幾多の敵を屠ってきたであろう太い腕で、壊れやすい硝子細工でも扱うかのように、胡蝶の身体を抱きかかえる。


「……」


虎昌は腕の中の、美しい寝顔を見下ろし、誰に言うでもなくぽつりと呟いた。


「月下の蝶よ。その翅、このまま朽ちさせるには、あまりにも惜しい」


その声には一人の武人としての、純粋な感嘆が込められていた。


「その舞、我が武田で今一度、存分に舞わせてみせようぞ」


月明かりが胡蝶の顔を、静かに照らし出す。

血と、泥と。乾いた涙の跡に汚れながらも、神々しいまでの美しさは損なわれていない。

苦痛から解放された寝顔は、戦乱の世に舞い降りた傷ついた天女のようでもある。


鬼と呼ばれ、敵に恐れられる猛将の腕の中で、一人の美しい少年が静かに眠る。


──こうして、暖かくも優しい、殻は砕け散った。


やがて、蝶は再び空を舞うだろう。


血に濡れた翅が、憎しみに染まるのか、恨みに沈むのか、哀しみの涙に濡れるだけなのか。


今はまだ、誰も知らない。


夢幻の揺籃は、遥か彼方に──。


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