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第二章 紅蓮の破繭

第四十七幕 躑躅ヶ崎に、風は騒めく

天文十年、夏。

甲斐の大名・武田氏は、諏訪、村上といった信濃勢と手を結ぶことで、信濃の豪族・海野一族を打ち破った 。

世に言う「海野平の戦い」である。これにより、武田家は信濃への勢力拡大の、大きな足掛かりを得た。


戦の勝利に武田家の本拠地である甲府は、活気に満ち溢れていた。

中心にどっしりと構える、武田氏の居館、躑躅ヶ崎館。


館の周囲に広がる城下町には、多くの人々が行き交い、その顔には、戦の勝利を喜ぶ明るさが浮かんでいる。


「聞いたかい、今度の戦、またもや御屋形様の大勝利だったそうだ」


商人たちの威勢の良い声、武具の手入れをする職人たちの槌の音、屈強な武士たちが武田菱の紋が入った指物を誇らしげに揺らしながら、闊歩している。

一見、その光景は繁栄の極みにあるかのように見えた。


「しかし、こうも戦続きじゃねぇ……いつ戦が終わるのやら」

「おい、そんなこと言うもんじゃねぇよ。誰かに聞かれたら首が飛ぶぞ……」


一人が慌てて、もう一人の口を塞ぐ。

戦の勝利に沸き立つ喧騒の裏で、度重なる外征と、そして近年の天災による不作続きで、武田の領民たちは確実に疲弊していたのである。


そんな戦勝の喧騒と、裏に潜む領民たちの疲弊が渦巻く甲斐国にて、物語は静かに幕を開ける──。




♢   ♢   ♢




躑躅ヶ崎館の、奥まった一室。

灯台の揺れる炎だけが、部屋の主をぼんやりと照らし出していた。

文机に向かい、一心に筆を走らせる一人の若武者。

年の頃は二十歳を過ぎたばかりであろうか。顔立ちは精悍でありながら、どこか近寄りがたい冷たい印象を与える 。

彫りの深い目元、すっと通った高い鼻梁、そして固く結ばれた唇は、彼の強い意志を物語っていた。


「ふむ……」


武田晴信。

源氏の名門、甲斐源氏嫡流たる武田家の、若き嫡男である 。

紙にしたためているのが、盟友への書状か、敵を欺くための密書か。表情からは、何一つ読み取ることはできない。

ただ、年若い瞳に宿る周囲を圧倒するような鋭い光だけが、彼の底知れぬ器量と、冷徹なまでの野心を秘めていることを表していた。

やがて最後の一文字を書き終えた晴信は、小さく息をつき、筆を置いた。

その直後だった。


「兄上。お呼びでございますか」


凛とした声と共に、すっと襖が開かれた。

そこに立っていたのは、一人の青年。

年の頃は、兄である晴信よりもいくつか下であろうか。まだ少年のような、あどけない面差しを残しながらも、顔立ちは驚くほどに端正に整っている。

澄んだ大きな瞳は純真な輝きを宿し、肌は武家の者とは思えぬほどに白い。

引き結ばれれば意志の強さを、そして綻べば春の陽光のような明るさを感じさせるであろう唇。


彼こそは、武田信繁。

武田家当主・信虎の子にして、栄えある武田家に連なる者。

甲斐の若き虎・武田晴信の実の弟である。


「おお、次郎か」


弟の姿を認めると、それまで氷のように冷たかった晴信の表情が和らぎ、柔らかな笑みが浮かんだ。


「呼び立てて、すまなんだな。もう少しかかる故、そこで待っておれ」


晴信は再び文机に視線を落とし、筆を走らせる。

信繁は、兄の言葉に「はっ」と短く応えると、その場に流れるように美しい所作で、静かに座した。

しばらく部屋には、晴信が筆を走らせる音だけが響いていた。やがて、晴信が背後の弟に問いかけるでもなく、ぽつりと言った。


「次郎。先の海野攻めでの其方の活躍、俺の耳にも入っておるぞ。……味方の兵を殆ど損なうことなく、海野の砦を三つも陥落させたそうではないか」


武田信繁はその若さ、そして純真無垢な見た目とは裏腹に、既に一人の武士として、一軍を率いる指揮官としての類まれな才能を、開花させ始めていた。

先の海野平の戦いにおいても、彼は一軍を率いて参陣し、兄である晴信も、父である信虎さえもが舌を巻くほどの見事な戦いぶりを見せていたのだ。


「いえ……」


兄からの、賞賛の言葉。

信繁は白い頬を、桜色に染めた。そして照れくさそうに、しかしきっぱりとした口調で謙遜する。


「滅相もございません。兄上の、これまでの武功に比べれば……私の立てた功績など、取るに足らぬ些細なことにございます」


その言葉は、決して謙遜ではない。

事実、兄である晴信は、信繁よりも遥かに多くの戦場を経験し、その度に周囲が驚くほどの武功を上げてきている。

そんな偉大なる兄に面と向かって褒められると、信繁は誇らしいと同時に、どこかこそばゆいような気持ちになってしまうのだ。


信繁は、兄・武田晴信のことを心から尊敬していた。

幼い頃より誰よりも近くで彼を見てきた弟として、兄が持つ常人離れした知略、戦場での圧倒的な武勇、そして時には冷酷とさえ思えるほどの底知れない器の大きさを、痛いほどに実感している。


──いつか自分も、この偉大な兄のようになりたい。そして、この兄の力になりたい。


それが信繁の偽らざる願いであった。

そんな畏敬の念を抱きながら、信繁はふと、兄の手元で進められている書状に改めて目をやった。


「ところで、兄上。その書状は……一体、どなたへ?」


兄がこの数日間、戦勝祝いの返礼や周囲の国人たちへの恩賞下賜などで、昼夜を問わず文をしたためていたのは知っている。

だが、それも、昨日で一段落したはずではなかったか。

その問いかけに、晴信は筆を進める手を止めずに、こともなげに言った。


「これはな……駿河の今川殿への書状よ」

「今川……」


信繁はその名を聞いて、すぐに納得したように頷いた。


「あぁ、なるほど。姉上の嫁ぎ先への、時候の挨拶ですね」


その声には何の疑いも含まれていない。

彼にとって、晴信が義理の兄である今川義元へ書状を送ることは、ごく自然なことに思えたのだ。


武田家と、駿河を治める大名・今川家は、固い同盟関係にあった。

晴信と信繁の姉である定恵院が、今川家当主・今川義元に嫁いでおり 、両家は姻戚関係を結ぶ、いわば「身内」とも言える間柄なのだ。

この南の同盟があるからこそ、武田家は後顧の憂いなく、北の信濃へと牙を剥くことができた。


そして、今現在。

武田家当主である父・信虎は、先の海野平での戦勝報告も兼ねて、娘婿である今川義元を訪ねるため駿河へと赴いていた 。


──つまるところ。この甲斐の府中・躑躅ヶ崎館には不在なのである。


弟の純粋な言葉に、晴信は筆を止め、口元に意味深な笑みを浮かべた。


「ほう……其方はそう思うか……ふふ」

「……?」


兄の楽しげでもある、奇妙な笑い。信繁はその真意が分からず、怪訝に眉を寄せる。

だがすぐに、色々と浮かんでくる思考を打ち消した。兄の先を読む力、そして物事の裏側まで見通す慧眼は、昔から常軌を逸している。

父ですら、時には兄の言葉に絶句することがあったほどだ。凡人である自分ごときが、偉大なる兄の考えを、完全に理解できるはずもない。

信繁は自らを戒めるように、すっと背筋を伸ばし姿勢を正した。


そんな弟の様子を、晴信は背中で感じながら最後の一文字を書き終える。

そうして、筆を置き、書状をゆっくりと巻き取った。


「よし。……これで義兄上への『説明』は、あらかた記せた。あとは……行動に移すのみ」


またしても、意味の分からない言葉。義兄・今川義元への、時候の挨拶ではなかったのか。


信繁が今度こそ困惑している、その時であった。


「──殿。支度、全て整いましてございます」


静かだが、確かな覚悟の滲む声が、襖の向こうから響いた。

信繁が、はっと息を呑むと同時に、襖が音もなく開かれる。


そこに立っていたのは、二つの人影。


「え……?」


その二人が誰であるのかを悟った瞬間、信繁は驚きに、瞳を大きく見開いた。


──何故、このお歴々が、今ここに……?


そんな弟の様子を晴信は愉快そうに一瞥し、そして現れた二人の人影に向かって、その笑みをさらに深くした。

そして、言った。


「待ちかねたぞ、両名。あまりに遅い故、てっきり父上が怖くなり、寝込んだかと思うたわ」


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