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第四十八幕 覇道の星に、謀は巡る

信繁の驚きに見開かれた瞳に、二人の武将の姿が映る。


「──な、何故。お歴々が、揃って……?」


信繁は思わず、上ずった声で問いかけた。


「……若様もおられましたか」


一人は岩のようにがっしりとした体躯の老将。

顔には多くの戦場と、長い年月を生き抜いてきた者だけが持つ、深い皺が刻まれている。

しかしその眼光は老いてなお鋭く、全てを見通すかのような思慮深い光を宿していた。


「むう……?殿、若様は何故ここに?」


そして、もう一人は無駄な肉が一切ない、鋼のように引き締まった身体の武将。

佇まいは、鞘に収められた鋭利な刀そのもの。鷹のように鋭い瞳は、常に獲物を探しているかのように、油断なく光っている。


──板垣信方。そして、甘利虎泰。


二人は、武田家において宿老と呼ばれる、最も高い地位にある重臣たちであった。

板垣は晴信の傅役を務めた、家老。甘利は武田随一の猛将として、その武勇を敵味方に轟かせる将。

この二人が揃うということは、武田家にとって、よほど重大な事が起ころうとしている証。


「わ、私は……その、兄上に呼ばれて……」


家中の重鎮中の重鎮が、なぜ二人そろって晴信の部屋を訪れているのか。

信繁には、その理由が皆目見当もつかなかった。

だが、彼はこれからただならぬことが起ころうとしているという強い直感を、肌で感じ取っていた。


「案ずるな」


晴信が弟の心中を見透かしたかのように、静かに言った。


「次郎を呼んだのは、この俺だ。何か、不都合でもあるかな?」


その口調は穏やかだが、有無を言わせぬ響きを持っている。

晴信の言葉に、板垣と甘利は一瞬だけ、鋭い視線を信繁へと向けた。


「……っ」


いくら才気に溢れる若武者である信繁といえど、武田家を支える二人の猛将が放つ、凄まじいまでの覇気の前では、思わず竦みあがる気持ちが湧いてくるのを、なんとか隠すことしかできない。


「しかし、殿」


甘利が、信繁の同席を暗に諫めようと口を開きかけたのを、隣にいた板垣がすっと手で制した。


「九衛門よ、殿が良いと仰せだ。それに、いずれは、若殿様にもお伝えせねばならぬこと……」


板垣はそう言って、弟子の成長を確かめるかのように静かに晴信を見つめる。


「信形殿が、そう仰るならば」


甘利は短くそう応えると、それ以上は何も言わなかった。


そして二人は、晴信とその後ろに座る信繁に向かって、深々と平伏した。

信繁が息を呑む中、二人はゆっくりと顔を上げ、座した。


部屋の空気は、張り詰めた糸のように静まり返っていた。重苦しい静寂を破ったのは、晴信の穏やかな声であった。


「まずは先の海野攻め、両名とも大儀であった。そなたたちの働きなくして、此度の勝利はなかったであろう」

「もったいのうございます。全ては、殿の御采配の賜物」


板垣が深々と頭を下げながら、そつなく答える。


「しかし、此度の戦は諏訪や村上が、随分と甘い汁を吸ったようでございますな」


甘利が鋭い瞳を細め、ぽつりと呟いた。その言葉には、明らかに棘がある。


「ほう。何か、思うところでもあるか?九衛門……」


晴信が、面白そうに問い返す。


「それは、勿論。我らは此度、少なくない兵と物資を消費し、信濃攻めを致した。しかし、山内上杉が睨みを効かせている以上、信濃の支配は一旦は諏訪と村上に譲る他なし……それが、この老骨には耐えられませぬ」

「ふむ……」


信繁以外の三人は淡々と、しかし際どい会話を繰り広げていく。


「……」


──一言一句に、隠された意図と策略が渦巻いている。

信繁は重く、そして危険な会話を、背中に冷たい汗を垂らしながら聞いていることしかできなかった。

自分が足を踏み入れてはならない領域の話。そんな恐ろしい場所に、今自分はいるのだと、肌で感じていたのだ。


「そうだな……まこと、愚かしい限りよ」


晴信は、くつくつと喉の奥で嘲るかのように笑った。


「此度の海野攻め、確かに我らは勝った。だが、父上は何を血迷われたか、すぐさま信濃から兵を引いてしまわれた。……これでは、多大な血と銭を費やした意味が、まるで分からぬではないか」


唐突な、父への直接的な批判。

板垣と甘利は何も言わず、ただ床を見つめていた。


そして不意に。

晴信は、氷のように冷たい視線を、弟へと向けた。


「──なぁ、信繁。其方も愚かだとは思わぬか?」

「!」


その言葉に、信繁の背筋をぞくりと悪寒が駆け抜けた。

聡明な信繁は、兄の言葉の本当の意味に、気づいてしまったのだ。


父・武田信虎は、関東管領である山内上杉家と同盟を結んでいる。

先の戦で、かろうじて生き延びた海野家の棟梁・棟綱は、上野国の上杉憲政を頼って落ち延びた。

そして上杉憲政は海野に呼応し、信濃国の佐久郡へと兵を差し向けたのだ。


父・信虎は、同盟国である山内上杉との衝突を避けるために……そして、これ以上の戦線の拡大を恐れて、信濃から兵を引いた。

それは外交を重んじる為政者としては、当然の判断であった。そもそも、武田信虎という人物は上杉と縁の深い人物。それも致し方ないのだ。

だが、兄は──その父の決断を弱腰と断じ、愚かと、そう批判しているのだ。


「……っ」


父を。武田家当主を、愚か者と。

信繁は、兄がとてつもなく危険なことを言っているという事実に、ようやく気づいた。


信繁は、返答に窮した。

兄の言うことは、理屈としては分かる。父の決断が、多くの将兵の努力を水泡に帰す、あまりにも惜しい一手であったことも。


だが、それでも。

父は武田家の当主。その父を愚か者と断じることは、家臣の前で決してあってはならぬことだ。


(兄上は、一体、何を……)


純真な信繁の心は、兄への敬愛と父への忠誠との間で、激しく引き裂かれていた。

そして、信繁は恐る恐る、部屋にいる他の二人の重臣へと視線を移した。

もし兄が許されざる不敬を口にしているのであれば、両名が血相を変えて諫めるはずだ。


だが──。


板垣信方も、甘利虎泰も、静かに床を見つめるばかり。その表情からは、何の感情も読み取れないが、兄の言葉を咎める気配は、微塵もなかった。

むしろ、その静寂は肯定……同意しているかのようですらあった。


「──」


その瞬間、信繁の全身を、氷のような戦慄が駆け抜けた。


(兄上だけではない……!板垣殿も、甘利殿も……!皆、父上に不満を……? いや、違う──これは、ただの不満などという、生易しいものでは、ない)


ようやく、気づいた。

今、この部屋で行われようとしていることの本当の恐ろしさに。

そして自分は、謀議の場に足を踏み入れてしまったのだ、と。


──ここは、死地だ。

一度知ってしまえば、決して引き返すことのできない、死地なのだ──。


信繁の額から、玉のような冷たい汗が、一筋、流れ落ちた。


「……」


信繁は、必死に思考を巡らせた。

今この場で、自分は何を言うべきか。何を言えば、この危険な状況を乗り切れるのか。

兄への心からの敬愛と、自らの命を守りたいという自己保身。その二つが混沌と混じり合う内心で、信繁は──ついに、一つの答えに辿り着いた。


「──兄上」


張り詰めた静寂が、信繁の震える声で切り開かれる。


「……父上が私に、格別目をかけてくださっていることの意味、私は理解しております。そして、その御寵愛が、家中にどのような波紋を広げているのかも……」


信繁の言葉は、震えていた。だが、瞳には確かな覚悟の色が宿っていた。


そう、父・武田信虎が嫡男である晴信よりも、次男である信繁を溺愛していることは家中の誰もが知る事実であった。

そして、その過剰なまでの寵愛は、やがて「晴信を廃嫡し、信繁を次期当主に据えるのではないか」という不穏な噂となって、家臣たちの間に静かに広がっていたのである 。


だが信繁自身には、その気など微塵もなかった。

彼にあるのはただ、兄への揺るぎない畏敬の念のみ──。


「……」


板垣信方、甘利虎泰の二人は身じろぎ一つせず、信繁の言葉に聞き入っていた。

その視線は床に向けられたままであるが、彼らの意識の全てが、信繁が次に紡ぐであろう一言一句に、全神経を集中させているのが、部屋の張り詰めた空気から痛いほどに伝わってくる。

そして、晴信は……。


「……」


冷徹な瞳で、じっと信繁を見つめていた。

それは、信繁が幼い頃から幾度となく見てきた、兄のおよそ人とは思えぬほどに、全てを見透かすかのような、静かで冷たい瞳──。

射抜くような視線の中で、信繁は一度固く唇を結び、そして言い切った。


「弟が兄を支えるのは、当然のこと。私の心は、決して揺らぐことはございません」


信繁は一度言葉を切ると、覚悟を瞳に宿し、兄を真っ直ぐに見据えた。


「万が一……兄上が、この武田家と、領民たちの未来のために、何かを成そうと『お立ち』になるのであれば……。この信繁、兄上の剣となり、盾となり、この命、喜んで捧げる覚悟にございます」


それは明確な言葉を避けながらも、何よりも雄弁な、兄への絶対的な忠誠の誓いであった。


しん、と。


部屋は、息も詰まるほどの静寂に包み込まれた。

永遠にも思えるほどの、重い沈黙。信繁の額から、ぽつりと玉のような冷や汗が流れ落ち、床に小さな染みを作った。


そして──。


「ははっ」


不意に、晴信が堪えきれないといった様子で、肩を揺らして微笑んだ。


「まったく……其方は、何をそう思い詰めておるのだ」


普段通りの兄の声色に、部屋の張り詰めていた空気が和らいだのが分かった。


「俺はただ、父上の此度の采配について、其方の意見も聞いてみたかっただけのこと。それを、命を懸けるだの、剣や盾になるだの……。やれやれ、大袈裟なやつよ」


晴信は首を振りながら、呆れたように、しかしどこか楽しげに言う。


「えっ……?」


その言葉に、信繁は一瞬、呆然とする。

そして次の瞬間、顔から火が出るほどに、かっと熱くなるのを感じた。


(か、勘違い、だったのか……!? 兄上は、ただ、私の考えを聞きたかっただけ……?)


自分が、先走り過ぎた。大袈裟な覚悟を、口にしてしまった。

信繁は恥ずかしさのあまり、顔を上げることができず、俯くことしかできなかった。

ふと見ると、板垣、甘利の二人もまた、厳つい顔に柔らかな笑みを浮かべていた。無骨な老将と、壮年の猛将が揃って見せる、珍しく穏やかな眼差し。


「若殿は昔から聡明でいらっしゃいますからな」

「うむ、まことに」


ぽつり、と漏らされたその言葉の本当の意味を、信繁は理解できなかった。

だが、どうやら本当に自分の勘違いだったようだ。

そう思うと、ますます先ほどの自らの言動が恥ずかしく思えてくる。


「も、申し訳ございません、兄上! 私の、早とちりでございました……。あまりにも、突拍子もないことを申し上げ、お恥ずかしい限りです……」


信繁は顔を真っ赤にしながら、深々と頭を下げた。


晴信はそんな弟の様子を、心底愉し気に見つめている。

その視線に、信繁はなんだか居た堪れなくなり、ついつい話を逸らそうと慌てて口を開いた。


「あ……そ、その……あぁ、そうだ!」


信繁は、先ほど晴信が書き終えたばかりの書状を指さし、問う。


「あ、兄上!よろしければ、その書状が、どのような内容なのか、教えてはくれませぬか!その、ずっと、気になって気になって……!変なことを口走ってしまったのは、多分その書状を気にしていたからなのです……!」


そんな可愛らしい言い訳と、必死の誤魔化し。

だが、晴信は一瞬目を細めた。しかし次の瞬間には、兄としての顔に戻っている。


──そして、口を開く。


「ほう、これが気になるか」


晴信は、手にした書状を指先で弄びながら、弟をじっと見据えた。


「──実はな。俺はこれから愚かな父を追放し、この武田の当主になろうと思っておるのだ」

「……え?」

「そしてこの書状は、『事後報告』を今川の義兄上へお伝えするための、挨拶状というわけだ」


あまりにも、さらりと。

あまりにも、平然と。


兄の口から紡がれた恐ろしい言葉の意味を、信繁の頭が理解するまでには、数瞬の時を要した。

そしてようやく、その言葉が現実のものであると理解して──全身から、さっと血の気が引いていくのを感じた。


「次郎」


晴信は石のように固まった弟の肩に、そっと親しげに手を置いた。

しかし、その声は兄のものではなく、冷徹な主君のそれであった。


「そなたの覚悟、しかと、この耳で聞いた。……ならば、もう、迷うことはあるまい」


晴信は口元に、美しい、しかし獣のような、獰猛な笑みを浮かべる。


「これより、俺が歩むは天下へと続く覇道。其方も、この兄と共に血の道を行こうではないか」


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