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第四十九幕 静謐の奥に、蝶は眠る

娘婿である今川義元を訪ねるため、武田家当主・武田信虎は不在──。

主がいない虎の居城、躑躅ヶ崎館は普段とは明らかに違う空気に包まれていた。


日中であるというのに、館の至る所にはいつもより多くの武士たちの姿が見える。

彼らは決して無駄口を叩くことなく、皆一様に厳しい表情で自らの持ち場へと足早に行き交う。

廊下を歩くその足音さえもが、どこか緊張を帯びて重々しく響いていた。

普段ならば家臣たちの談笑する声や、穏やかな日々の営みの音が聞こえるはずの館は水を打ったように静まり返り、武具の擦れる音と何かを待つかのような息の詰まる静寂だけが、満ちている。

それは嵐の前の静けさだと、誰もが理解していた。


そんな張り詰めた空気が支配する館の長い廊下を、二人の兄弟が静かに歩いていた。

先を歩く兄・武田晴信は普段と何ら変わることがない。背筋はまっすぐに伸び、足取りには一切の迷いも揺らぎもない。

彼はこれから自らが起こそうとしている、この国の運命を根底から覆す大事業を前にして、驚くほどに落ち着き払っていた。


「……」


一方、後ろを半歩下がって歩く弟・武田信繁の内心は、決して穏やかではなかった。

──兄に絶対の忠誠を誓った。その覚悟に嘘はない。

だがそれでも。実の父を裏切り、追放するという大逆に加担することへの罪悪感が鉛のように心を苛む。

そして、これから一体何が起ころうとしているのか。先の見えぬ未来への底知れぬ恐怖。

信繁は胸中で荒れ狂う嵐を全てを見透かすかのような兄に悟られまいと、必死に平静を装っていた。


そんな時であった。

二人は見事な枯山水の庭が見える縁側を通りかかった。

白砂で描かれた、寄せては返す波模様。苔むし、静かに佇む大小様々な岩々。そこは館の中の喧騒が嘘のような、静寂が支配する美しい空間。


それまで黙って前を見据えて歩いていた晴信が、ふと足を止めた。

彼は弟の方を振り向くことはない。ただじっと、静謐な庭を見つめたまま静かに、しかし真意を測りかねるような意味深な口調で問いかけた。


「次郎。お前はこの庭を、この光景をなんと見る?」


兄からの突然な問いかけ。信繁はその真意を測りかね、訝しげな表情を浮かべた。


(なぜ兄上は今、そのようなことを……?)


二人は躑躅ヶ崎館に生まれ、育ったのだ。それこそ、この庭を毎日見ていると言っても過言ではない。

それを、いきなりなぜ……?

しかし信繁は兄の問いに、真摯に向き合うことにした。純真な瞳で改めて庭の美しさを素直に受け止め、そして感じたままを口にする。


「……静かで、美しい庭かと存じます。石も砂もそれらを照らす陽光も全てがあるべき場所にあり、一つの穏やかな調和を保っている……」


信繁は一度言葉を切ると、瞳にかすかな願いの色を宿した。


「我らが甲斐の国も、いつかこのように安寧に満ちたものになればと……。そう、感じ入っておりました」


性善説に基づいたかのような、信繁の答え。

それを聞き、晴信は鉄面皮の下で、静かに笑った。

しかし、彼はすぐには答えない。弟の言葉を、純真な心を吟味するかのように、しばしの「間」が流れた。その重い沈黙が次に彼が語るであろう言葉の本当の重みを、信繁に予感させる。

やがて晴信は庭から視線を外さぬまま、弟に全く違う視点からの答えを語り始めた。


「俺にはそうは見えぬがな」


静かな否定の言葉に、信繁は思わず問い返す。


「と、仰いますと……?」


晴信は庭の一点……ひときわ大きく、そして存在感を放つ主石を鋭い瞳で指し示した。


「見よ、次郎。あの大きな岩。あれが他の全ての石を、そして砂の一粒一粒までもを支配しているのだ」


その声は静かだが、有無を言わせぬ響きを持っていた。


「岩があるからこそ他の小さな石は、安心して場に在ることができる。岩があるからこそ、白砂の波紋は美しさを保っていられる。美しさとは、力によって作られる『秩序』。そして、秩序とは絶対的なただ一つの力の前でのみ保たれるのだ」


美しい庭を信繁は「平和の象徴」として見ていた。

だが、晴信はそれを「覇権と支配の縮図」として見ていたのだ。


「……!」


信繁は、兄の言葉を完全には測りかねていた。しかし、兄の言葉一つ一つが途方もない重みを持って、彼の若い心にのしかかってくる。

ただ美しいと思っていた庭が今、兄の言葉によって血と欲望が渦巻く戦国の世そのもののように見えてきて、信繁は知らず息を呑んだ。

そして、ただただ圧倒され、何も言い返すことができなかった。

晴信はそんな弟の様子を満足げに一瞥すると、何事もなかったかのように再び歩き始める。


「行くぞ、次郎」


信繁は慌てて兄の後を追った。

先ほどまで美しいとしか思えなかった庭が、今は力を持つ者と持たざる者との冷たい縮図のように見えて、信繁は振り返ることができなかった。

館の中はやはり物々しい空気に満ちている。すれ違う武士たちの顔は皆、一様に硬い。


(やはり皆、兄上が言っていた『秩序』を作るために……)


信繁は得体の知れない不安と、兄が起こそうとしているであろう、その「何か」への微かな期待で複雑に揺れ動いていた。

そんな混沌とした思いを抱えながら角を曲がった、その時であった。


「──殿」


目の前に突如として巨大な壁のような人影が立ちはだかった。

信繁は思わず息を呑む。

そこに立っていたのは、筋骨隆々たる大男であった。威圧的な体躯と戦場でのみ培われる凄まじいまでの覇気に、信繁は一瞬身動きが取れなくなる。

大男──飯富虎昌は、二人の若殿の姿を認めると、巨躯を折り曲げ深々と頭を垂れた。


「若様もおられましたか」


その声は見た目に違わず、腹の底から響くような太いものだった。

虎昌は晴信にだけ分かるように、だがすぐ傍にいる信繁にもはっきりと聞こえる声で言った。


「部屋までお越しいただきたい儀がございます」


その声は静かであったが、決して断ることのできぬ有無を言わさぬ響きを持っている。

虎昌のただならぬ気配に、信繁は思わず喉を鳴らし身を強張らせる。

弟の緊張を察したのだろう。晴信が耳元に顔を寄せた。そして小さく囁く。


「案ずるな、次郎。兵部之介もまた、『我ら』の味方よ」


──我らの味方。

その、兄が耳元で囁いた言葉。


(兵部之介どのまでもが……?)


信繁の背筋を、氷のような悪寒が駆け抜けた。

板垣信方。甘利虎泰。そして、武田家随一の猛将と謳われる飯富虎昌までもが、兄の味方。

武田家を支える宿老たち、そして家中の誰もが武勇を認める将たちが皆、兄の下に集っている。

その事実が何を意味するのか。


「──」


もはや、この躑躅ヶ崎館に父・信虎に心から味方する有力な家臣は誰一人として残ってはいない。

父は……知らぬ間に牙も爪も、全て抜かれてしまっていたのだ。


信繁はようやく、完全に理解した。

これはもはや兄が描く未来の計画などではない。

今、この瞬間に目の前で進行している、決して覆すことのできぬ冷徹な現実なのだと。

晴信はふと、虎昌の武骨な手元に視線を落とし皮肉気に口の端を吊り上げた。


「兵部之介、そう殺気を立てずとも良い。此度の戦働きは、無用。まぁ、お前の槍が血を吸いたくて仕方がないようならば、俺も目を瞑るが」

「……御戯れを」


短いやり取りの後、虎昌は重々しく口を開いた。


「例の件、ご相談いたしたく」

「おお」


晴信はその言葉にすぐに合点がいったというように、頷いた。


「目が覚めたのか?」

「それが……まだ」

「なんと。まだ寝ておるとはな」


晴信は心底面白そうに言う。


「はてさて、よほど心地の良い夢の世界にでも囚われたか」


(例の件……? 夢の世界……?)


二人が交わす謎めいた言葉の意味を、信繁は全く理解することができなかった。

だが兄も、そして虎昌までもが何か特別な関心を寄せている「誰か」がいることだけは、嫌でも伝わってくる。


「まぁ良い。大事の前の小事というのもある。その顔、直接見ておいた方が良いだろう」


虎昌は「こちらへ」と二人を促し、館の奥へと静かに歩き始めた。

信繁は拭い去れぬ困惑を胸に抱きながら兄と、巨大な背中の後をついていくしかなかった。


やがて、三人が辿り着いたのは館の奥まった場所にある静かな一室であった。

虎昌が音もなく襖を開ける。

部屋に入ると、そこには余計な調度品は何一つなく、部屋の中央に布団が敷かれていた。


「……」


そしてそこには……一人の青年が静かな寝息を立てて、眠っていた。

その肌は血の気がなく、痛々しいほどに白い。しかしその顔立ちは、この世のものとは思えぬほどに美しかった。

長く艶やかな黒髪。閉じられた瞼を縁取る長い睫毛。そして、全ての苦しみから解放されたかのような穏やかな寝顔。


「──これ、は……」


信繁の声は、部屋の静寂と共に消えていった。


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