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第五十幕 嵐の前に、蝶は静けし

三人が見守る中、布団に横たわる青年──胡蝶は静かな寝息を立てていた。

長い睫毛は白い頬に、影を落としている。戦の最中に負ったはずの無数の傷は既に手当てされているが、肌、血の気というものが感じられないほどに、透き通るように白い。

しかし穏やかな寝顔には、確かに命の気配が満ちている。

晴信は腕を組み、面白そうに口の端を吊り上げた。


「ほう……信濃から連れ帰り数日が経つというのに、まだ目覚めぬか」


晴信は皮肉気に言う。


「水も食も一切受け付けぬと聞いておるが、寝顔は死人のようには見えぬな。さては霞でも食して生きる、仙人の類か?」


若き主君の冗談とも本気ともつかぬ言葉に、虎昌は困惑したように太い眉をひそめる。


「某にも皆目分かりませぬ。ただ、あれほどの死闘を演じた後とは思えぬほど、傷の治りは早く……」


虎昌の言葉は歯切れが悪かった。彼のこれまでの常識では、目の前の少年の存在は到底測りかねるものであったのだ。


「……」


兄と武田家随一の猛将が交わす、不可思議な会話。

しかしその時、信繁の意識は彼らの言葉にはなかった。ただひたすらに、目の前で眠る美しい青年の姿に、心を奪われていたのだ。


(──美しい)


柄にもなく、そう思った。

それは決して女子に向けるような、艶のある感情ではない。もっと清らかで、神聖な何か。

例えば澄み切った冬の朝の空気や、誰も足を踏み入れたことのない深い森の奥にある泉のような……この血と裏切りに満ちた乱世にあるべきではない、絶対的な美──。

信繁はその存在に、暫し我を忘れて見入っていた。


しかし不意に、自分が今のような状況に置かれているかを思い出し正気に返る。信繁は慌てて兄と虎昌に問いかけた。


「あ、兄上。兵部之介どの。この御方は一体……?」


晴信と虎昌は一瞬だけ、互いに目くばせをした。

その視線にどのような感情が交わされたのか、信繁には分からない。ただ、そこには自分だけが理解できぬ、深い共通認識があることだけは確かであった。

やがて、晴信が思案するように、口を開く。


「そうさな……なんと言ったものか。こやつは……」

「殿」


晴信が何かを言いかけたその時。虎昌が遮るように、静かに言葉を被せた。

諫めるかのような響きに、晴信は喉の奥で笑う。


「そう言うな兵部。そなたの懸念も分かる。……なれど次郎も、もうただの童ではない。いずれ知ることであれば、早いも遅いもなかろうよ」


その声は皮肉気でありながらも、弟への奇妙な信頼を滲ませていた。

そんな兄の言葉に、虎昌は何かを言おうとしてわずかに口を開きかけた。しかし結局は何も言わずに、巨躯を一歩後ろへと引いた。

主君の決定に異を唱えることはしない。それが彼の流儀であった。


晴信は再び信繁へと向き直り、そして言った。


「こやつはな……海野の、生き残りよ」


その瞬間。

信繁の全身を今までとは比べ物にならないほどの、凄まじい戦慄が駆け抜けた。


(──海野の、生き残り?)


海野といえば、先の戦で武田が諏訪、村上と手を組み信濃から追い払った一族ではないか。

つまり、この青年は武田によって故郷を、そして恐らくは家族をも滅ぼされた一族の者。


「な、なにを……」


信繁は思わず、一歩後ずさった。目の前の美しい青年が、突如として恐ろしい存在に思えたからだ。

──海野の者にとって、武田は未来を奪った紛れもない「仇」に他ならない。

たとえ戦の後に兵を引いたという事実があったとしても、海野を攻め滅亡へと追いやったのは紛れもない事実なのだから。


「何をそれほど怯えておる」


も落ち着き払った兄の態度に、信繁はかえって恐怖を煽られる。


「兄上、この者にとっては、我ら武田は仇敵……!目を覚ませば、この館で刃傷沙汰にでも及ぶ可能性もございます!それにもし、逃げられて海野の残党と合流でもされたら……」

「なんだ。そんなことを心配しておったのか」


晴信は、心底愉快そうであった。

そして彼は面白いことを思いついた、と言わんばかりの悪戯っぽい笑みを浮かべると、傍らに控える虎昌に言った。


「では……其方のもっと怯える様を見てみるとするか」


そして、晴信は命じる。


「兵部之介。この海野の生き残りが、信濃でどのような『活躍』を見せたか。我が臆病な弟にとくと聞かせてやれ」


その声には愉悦の色が、はっきりと滲んでいた。


「御意」


虎昌は深く一礼した。

そして、その巨躯を未だ事態を飲み込めていない信繁へと、ゆっくりと向ける。

普段は厳しい猛将の瞳に今、かすかな熱が宿っていた。それは一人の武人に向ける畏敬と興奮の色であった。


「若様。……そこに眠る童が、か弱く美しいだけの存在にお見えでございましょう」


虎昌は静かに語り始めた。


「某があの日、あの場所で見たのも最初は月に照らされた、一枚の絵姿のように美しい青年でございました」


虎昌はそこで一度、言葉を切る。あの月下の死闘を脳裏に、鮮明に思い浮かべるかのように。


「ですが一度、手に刀を握れば──この童は鬼神と化します」


その声には、武田家随一の猛将さえもが戦慄を覚えたほどの、確かな実感が込められていた。


「親しき者の亡骸を守るため、ただ一人で数十人の村上兵を相手したのです。そう……あれは、まさしく『舞』でございました。片腕を潰され全身から血を流しながらも、その舞は少しも乱れることがない。敵の刃を風に舞う蝶のようにかわし、返す刃で桜の花びらが散るように、鮮やかに敵の命を刈り取っていく……」


虎昌は続ける。

その瞳には自身ですら気付かない熱がこもっていた。


「あれは復讐の舞。そして魂を弔う鎮魂の舞。某は、あれほどまでに雄々しく、そして美しい戦いぶりを、一度たりとも見たことはございません」


その言葉には一切の誇張はなかった。ただ、一人の武人として魂を揺さぶられた偽りのない賞賛だけであった。


「……」


信繁は息を呑むことしかできなかった。

目の前で穏やかに眠る美しい少年が、鬼神の如き戦いをしたなどとは、到底信じられない。

弟とは対照的に、晴信は愉快そうに顔を崩し、言った。


「この大男が、これを宝物のように抱いて現れた時は流石の俺も目を疑ったわ」


晴信はわざとらしく、肩をすくめてみせる。


「てっきりそなたが、どこぞの美しい姫君でも俺の夜伽にと攫ってきたのかとそう思うたぞ」


晴信の冗談とも本気ともつかぬ言葉にも、虎昌は一切表情を変えなかった。

眠る胡蝶の顔を、じっと見つめているだけだ。やがて彼は、確信に満ちた重い声で言った。


「この童が秘める力、必ずや武田の……いえ……御屋形様の覇道の礎となりましょう。某はそう確信しております」


その真摯な言葉に、晴信は目を細め言った。


「と、いう訳だ。理解したか?次郎。武田随一の猛将が、直々に推挙するというのであれば、この俺とて無下には扱えぬよ。故に、目が覚めたら声を掛けてやろうと思っているのだが……どういう訳か、中々目を覚まさぬ」


晴信はそこで言葉を切ると、眠る胡蝶に冷たい視線を注ぐ。


「それに、その凄まじい武威がまことであるならば。俺がこれから成す大業には、うってつけの『駒』やもしれぬ……」


その時であった。


「……お待ちください、兄上!」


黙って話を聞いていた信繁が、強い制止の声を上げた。

その声には先ほどまでのおどおどとした弟の響きはない。それは、武田家の未来を案じる一人の将としての覚悟を決めた声であった。


「お言葉ですが、あまりにも危険すぎます!海野の生き残りを、直として側に置くなど……いつ寝首を掻かれるか、分かったものではございません!」


信繁の声は焦りと、心からの憂いに震えていた。


「この者にとって、兄上は……我ら武田は怨敵のはず!そのような者を、なぜ……!?いや、仮に何らかのお考えがあって生かしておくのだとしても、何故牢へ入れるでもなく躑躅ヶ崎館という、我らの喉元に寝かせておられるのです!」


信繁は、必死に訴える。


「先ほどの、兵部之介殿のお話が真実であるならば!彼がひとたび暴れ出せば、兄上のお命さえもどうなるか……!」


そこまで言いかけた、その時であった。


「っ!?」


信繁の言葉が、ぴたりと止まった。


「……」


──兄が、自分を見据えていたからだ。

その瞳は怒っているわけでも、呆れているわけでもない。


ただ深い底なしの沼のように、静かに自分を見つめている。

深淵な瞳に見つめられていると、信繁は己の魂の奥底の、最も隠しておきたい部分まで全てを見透かされているかのような、恐ろしい錯覚に陥るのだ。


自分の浅はかな忠告も必死の諫言も、兄の前では全てが無意味なのではないか──。

信繁は兄の瞳の奥に言い知れぬ戦慄を覚え、それ以上何も言うことができなかった。


やがて、静寂の中。

晴信が言った。


「次郎」


その声は弟を呼ぶ兄としてのものではない。

武田家の嫡男……いや、いずれ甲斐源氏の棟梁として、この国に君臨するであろう当主としての言葉。


「人、というのはな……実に面白い生き物よ。単純なようで、複雑。複雑なようで、驚くほど単純」


恐ろしかった。

兄の一挙手一投足が、信繁にはひどく得体の知れないものに感じられた。


「もし、他人を意のままに操りたい場合……何が必要だと思う?血筋か?武勇か?あるいは、金か?」


晴信はそこで、自嘲するように笑った。


「──否。次郎……そんなもので、人は心の底から本当の忠誠を誓ったりはせぬ」


晴信は弟の、そして傍らに控える虎昌の顔を見渡した。


「重要なのは……『覚悟』。自らがいかなる非情な道をも選び、いかなる罪をも一身に背負うという、絶対的な覚悟。それこそが支配者を、支配者たらしめる唯一の性質」


そして晴信は氷のような視線を、再び弟へと戻した。


「その『覚悟』というものはな。己の口で、己の言葉で示してやらねば、決して誰にも伝わりはせぬのだ。そう、決して──」


信繁は兄の言葉の本当の意味を、ようやく理解した。そして、今までの行動の意味も。

なぜ兄が、自分に謀反という、危険な計画を自らの口で語ったのか。


──それは、自らの「覚悟」を絶対的な形で示すため。

そして、その覚悟をもって家臣たちの絶対的な忠誠や信頼を勝ち取るため。


巨大で冷徹な兄という器に、信繁は戦慄するしかなかった。


「寝首を掻かれる?実に結構。その覚悟があるのならば、いつでも来れば良い」


晴信は布団で眠る胡蝶を一瞥し、続ける。


「俺を恨むか?憎むか?それもまた、どうでも良い。」


その声には、一切の感情が乗っていない。


「重要なのは、ただ一つ。その者が、俺の覇道にとって、役に立つか立たぬか。ただ、それだけよ」


この瞬間、信繁は完全に理解した。

兄は海野の生き残りが自分を殺そうとすることすらも、全て織り込み済み。その上で、彼を手元に置くことを決めたのだ。

危険を冒してでも自らの覚悟を示し、そして有為な「駒」を手に入れる。そのためには自らの命すら惜しまないと。


「……」


信繁はもう何も言えなかった。

目の前にいるのは、自分の知る優しい兄ではない。

天下という、遥か高みを見据える一人の恐ろしい覇王であった。


「だが、それもこの童が目を醒まさねばどうにもならぬこと」


晴信は眠る胡蝶から、ふいと視線を外した。

今までの恐ろしい言葉の応酬が、ただの戯れ言であったかのように彼はあっさりと、そう言った。


「──それに」


そして、未だ戦慄から解放されずにいる弟の肩に親しげに手を置く。

兄の温かいはずの掌が、今の信繁には逃れることのできぬ重い枷のように感じられた。


「まずは、『我ら』には為さねばならぬ、大事なことがあるのだからな。──なぁ、次郎?」


「我ら」という言葉。

信繁はもはや自分に否という選択肢が残されていないことを、悟った。

彼は震えながらも、ゆっくりと無言で頷くことしかできなかった。


弟の無言の肯定を見届け、晴信は満足げに口の端を吊り上げた。

彼は信繁の肩からそっと手を離すと、部屋の埃でも確かめるかのように、ゆっくりと周囲を見渡した。

そしてぽつりと。誰に言うでもなく、呟く。


「さて……。そろそろ、この館の大掃除を始めるとしよう──。古き埃を払い、新たな風を入れねば、家はすぐに傾いてしまう故な」


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