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第五十一幕 虎の牙、虎を喰らう

馬蹄の音が、陽光が降り注ぐ街道に心地よく響く。

馬上にて悠然と手綱を引くのは、一人の威風堂々たる武士であった。その身に纏うのは一目で高価なものと分かる、見事な細工が施された衣服。

その出で立ちは、彼がただの武士ではない、高い地位にある人物であることを雄弁に物語っている。


周囲には主君を敬うように数人の供の武士が固め、その後方からは十数名の兵士たちが武田菱の旗を掲げながら、静かに付き従っている。

一行が進むのは、駿河の街道。道沿いには青々とした稲が風にそよぐ田園風景が広がっている。


全てが平和で、長閑な光景。


「駿河も、中々に風流なものであったな。甲斐とは、また違う趣があるわ」


馬上から満足げな声が響いた。この男こそ、甲斐国主・武田信虎。

かつては一族内で分裂し、抗争を繰り返していた甲斐源氏・武田宗家を、圧倒的な武力と非情なまでの策略で統一し、ついには甲斐一国を完全に平定した稀代の猛将である。

その主君の言葉に、傍らを歩く傍仕えの武士が深く頷きながら、恭しく応えた。


「はっ、まことに。殊に、今川館の壮麗さと駿府の町の華やかさは、さながら都と見紛うばかりでございましたな」

「都と見紛う、か。言い得て妙よな」


供の者の言葉に、信虎は満足げに馬上で豪快に笑った。

その声には、戦場での猛々しさとは違う、心からの上機嫌な響きが満ちている。


「婿殿めも、随分と儂をもてなしてくれたわ。公家かぶれの、風流人気取りな男かと思うておったが、中々に人の使い方が分かっておる」


駿河を治める大名・今川義元は信虎の娘、晴信の姉でもある定恵院を正室に迎えている。

この婚姻によって結ばれた武田と今川の同盟は、信虎にとって他の国を攻める上での、まさに生命線であった。


「我が娘の顔も見れたのが、何よりであったな」


信虎は、ふと父親としての顔を覗かせる。


「息災であったか、と問えば、『父上こそ、戦続きでお疲れではありませぬか』と儂の身を案じおってな。今川の大奥を見事に差配しておったわ。やはり、この信虎の娘よ」


その言葉は娘を誇る親の響きでありながら、同時に娘を育てた自分自身への揺るぎない自負の表れでもあった。


「まことに定恵院様もお美しく、そしてご立派になられておりましたな。それに、今川館での盛大な宴も、見事なものでございました」


別の側近が思い出して、感嘆の声を上げる。


「うむ。馳走も酒も、申し分なかったわ。義元め、海野平で大勝利を収めたことを、ことの外喜んでおったわ」


信虎は駿河で受けた手厚い歓待の数々を思い出し、再び満足げに頷いた。先の戦勝と、安泰な同盟関係。そして、娘の健やかな姿。

今の信虎の心は、一片の曇りもない完全な達成感と幸福感に満たされていた。


やがて、駿河の穏やかな街道は険しい山道へと姿を変えていく。

甲斐と駿河を隔てる、深き山々。ここを越えれば故郷・甲斐の国である。一行の足取りは、自然と軽やかになっていた。


「殿、間もなく、国境の砦が見えてまいります」

「うむ。長旅もようやく終わりか」


信虎は満足げに頷くと、遠くに見える甲斐の山々を見据えた。

やがて、一行の目の前に見慣れた砦の姿が見えてきた。武田菱の旗が風に力強く、はためいている。

だが、一行が砦へと近づくにつれて、供回りの武士たちの顔にわずかな困惑の色が浮かび始めた。


「……おかしいですな」


一人の側近が、訝しげに呟く。


「御屋形様のご帰還というに、砦から誰一人として出迎えの姿が見えませぬ」


その言葉に他の者たちも、はっとする。

本来であれば、主君の帰還を歓迎するため、砦の門は大きく開かれ、出迎えの者たちがずらりと並んでいるはず。

しかし目の前の砦は敵の来襲を警戒するかのように、堅牢な門を固く閉ざしている。


そして、一行が砦の門前に到着した時、異様さは決定的なものとなった。


「なんだ……?」


門の前には物々しくも数十人の兵士たちが、槍の穂先をずらりと並べ一行の道を、完全に塞いでいた。

彼らは主君である信虎の姿を認めても、一切陣形を崩そうとしない。


そこには、主君の帰還を歓迎する空気など微塵もない。

あるのは、敵を前にしたかのような冷徹な、不気味なほどの緊張感だけであった。


「あれは、なんぞ」


馬上の信虎は眉間に、険しい皺を刻んだ。

主君の帰還であるというのに、門を開けぬばかりか出迎えの一人も寄越さぬ。それどころか槍を並べて、道を塞ぐとは。

それは怠慢などという言葉で片付けられるものではない。

信虎の身体から、戦場で敵を震え上がらせる猛々しい威圧感が、じわりと放たれ始めた。


「控えよ! 無礼者どもが!」


信虎が口を開くより先に、供回りの筆頭である武士が馬を前に進め、怒声を発した。

その声は、夕暮れの山間に鋭く響き渡った。


「開門せよ!この御方を、どなたと心得るか!甲斐国主、左京大夫様であらせられるぞ!」


主君の立場をこれほどまでに、はっきりと告げたのだ。

並の兵卒であれば恐れ慄き、慌てて道を開けるはず。


しかし──。


「……」


道を塞ぐ兵士たちは、怒声を聞いても一切表情を変えなかった。

石像の一群のように、そこに立ち尽くしている。彼らは目の前にいるのが、自分たちの主君ではないかのように冷徹に、その場に立ち続けていた。


不気味なほどの静寂と、統率の取れた規律。

痺れを切らした信虎の側近の一人が、ついに腰の刀に手をかけ、一歩前に出ようとした。


その瞬間であった。


「これは、これは」


熟した果実が落ちるのを待ち構えていたかのような、完璧な間合い。

どこか愉しんでいるかのような、若々しい声が一行の頭上から、静かに降り注いだ。


「駿河からのお客人でございますかな。して、そのように物々しい兵を連れて、我が甲斐に一体何の御用向きでございましょう」


はっと、信虎たちが顔を上げる。

夕暮れの茜色の空を背にして、一人の若武者が、砦の上から静かに信虎たちを見下ろしていた。

その姿を見て、信虎は驚愕に目を見開く。


「太郎……?」


そこに立っていたのは、甲斐に残してきたはずの自らの嫡男・武田晴信であった。

彼は、父とその供回りの者たちを、初めて見る物珍しい旅の一行でも眺めるかのように、値踏みするような視線で見下ろしながら、口元に薄い笑みを浮かべていた。


「若殿……?これは一体、どういうおつもりか!」


信虎の傍仕えが拭いきれぬ困惑を込めて、晴信に向かって叫んだ。

必死の問いかけに、晴信は喉の奥で笑う。


「おお、父上の供回りを務める、剛次郎ではないか。息災であったか。して、どうしたのだ?そんなに血相を変えて。何か、この国の入り口に不都合でもあったかな?」


その口調はあくまでも穏やかで、久方ぶりに会う旧知の仲に時候の挨拶でもするかのように、のんびりとしたもの。


「不都合どころではございませぬ!」


とぼけた物言いに、傍仕えの男は激昂する。


「なぜ、門を開かれぬのです!御屋形様が駿河よりお戻りであると、若殿の目には見えぬのですか!」

「無論、見えておるとも」


晴信はそこで、すっと瞳から笑みを消した。


「父上が長旅を終え無事に戻られたこと、同慶の至りよ。……だがな」


その声は氷のように、冷たい。


「父上はあくまでも、『旅のお方』。この甲斐の『国主』は、俺だ。国を、民を……そして家臣を守るのは、国主として当然の務め。不法に侵入しようとしている旅人を締め出すのもまた、俺の役目……」

「な……何を、訳の分からぬことを!若殿、正気におなりくだされ!何を仰っておられるのかお分かりか!?」


傍仕えの男が狼狽するばかりなのを見て、晴信は大袈裟に首を振った。

もはや視線は、傍仕えの男にはない。上からただ一点。馬上にて己を睨みつける、父・信虎の姿に真っ直ぐに注がれていた。


「物分かりの悪い家臣を持つと、骨が折れるであろうな。それに引き換え、我が父上は流石に聡明でいらっしゃる」

「……?」


言葉の意味を測りかね、傍仕えの男が恐る恐る、主君である信虎の顔を見やる。

そして、息を呑んだ。


そこにあったのは──。


「……」


凄まじいまでの、怒気。

眼は煮えたぎる溶岩のように、砦の上の息子を睨みつけている。

だが、額には隠しようもなく、脂汗がじわりと滲んでいた。


全てを悟っている男の表情であった。


自分が、息子に完全に裏切られたのだということを。

やがて、信虎の乾いた唇から、地を這うような低い声が漏れた。


「──謀りおったな、太郎」

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