馬蹄の音が、陽光が降り注ぐ街道に心地よく響く。
馬上にて悠然と手綱を引くのは、一人の威風堂々たる武士であった。その身に纏うのは一目で高価なものと分かる、見事な細工が施された衣服。
その出で立ちは、彼がただの武士ではない、高い地位にある人物であることを雄弁に物語っている。
周囲には主君を敬うように数人の供の武士が固め、その後方からは十数名の兵士たちが武田菱の旗を掲げながら、静かに付き従っている。
一行が進むのは、駿河の街道。道沿いには青々とした稲が風にそよぐ田園風景が広がっている。
全てが平和で、長閑な光景。
「駿河も、中々に風流なものであったな。甲斐とは、また違う趣があるわ」
馬上から満足げな声が響いた。この男こそ、甲斐国主・武田信虎。
かつては一族内で分裂し、抗争を繰り返していた甲斐源氏・武田宗家を、圧倒的な武力と非情なまでの策略で統一し、ついには甲斐一国を完全に平定した稀代の猛将である。
その主君の言葉に、傍らを歩く傍仕えの武士が深く頷きながら、恭しく応えた。
「はっ、まことに。殊に、今川館の壮麗さと駿府の町の華やかさは、さながら都と見紛うばかりでございましたな」
「都と見紛う、か。言い得て妙よな」
供の者の言葉に、信虎は満足げに馬上で豪快に笑った。
その声には、戦場での猛々しさとは違う、心からの上機嫌な響きが満ちている。
「婿殿めも、随分と儂をもてなしてくれたわ。公家かぶれの、風流人気取りな男かと思うておったが、中々に人の使い方が分かっておる」
駿河を治める大名・今川義元は信虎の娘、晴信の姉でもある定恵院を正室に迎えている。
この婚姻によって結ばれた武田と今川の同盟は、信虎にとって他の国を攻める上での、まさに生命線であった。
「我が娘の顔も見れたのが、何よりであったな」
信虎は、ふと父親としての顔を覗かせる。
「息災であったか、と問えば、『父上こそ、戦続きでお疲れではありませぬか』と儂の身を案じおってな。今川の大奥を見事に差配しておったわ。やはり、この信虎の娘よ」
その言葉は娘を誇る親の響きでありながら、同時に娘を育てた自分自身への揺るぎない自負の表れでもあった。
「まことに定恵院様もお美しく、そしてご立派になられておりましたな。それに、今川館での盛大な宴も、見事なものでございました」
別の側近が思い出して、感嘆の声を上げる。
「うむ。馳走も酒も、申し分なかったわ。義元め、海野平で大勝利を収めたことを、ことの外喜んでおったわ」
信虎は駿河で受けた手厚い歓待の数々を思い出し、再び満足げに頷いた。先の戦勝と、安泰な同盟関係。そして、娘の健やかな姿。
今の信虎の心は、一片の曇りもない完全な達成感と幸福感に満たされていた。
やがて、駿河の穏やかな街道は険しい山道へと姿を変えていく。
甲斐と駿河を隔てる、深き山々。ここを越えれば故郷・甲斐の国である。一行の足取りは、自然と軽やかになっていた。
「殿、間もなく、国境の砦が見えてまいります」
「うむ。長旅もようやく終わりか」
信虎は満足げに頷くと、遠くに見える甲斐の山々を見据えた。
やがて、一行の目の前に見慣れた砦の姿が見えてきた。武田菱の旗が風に力強く、はためいている。
だが、一行が砦へと近づくにつれて、供回りの武士たちの顔にわずかな困惑の色が浮かび始めた。
「……おかしいですな」
一人の側近が、訝しげに呟く。
「御屋形様のご帰還というに、砦から誰一人として出迎えの姿が見えませぬ」
その言葉に他の者たちも、はっとする。
本来であれば、主君の帰還を歓迎するため、砦の門は大きく開かれ、出迎えの者たちがずらりと並んでいるはず。
しかし目の前の砦は敵の来襲を警戒するかのように、堅牢な門を固く閉ざしている。
そして、一行が砦の門前に到着した時、異様さは決定的なものとなった。
「なんだ……?」
門の前には物々しくも数十人の兵士たちが、槍の穂先をずらりと並べ一行の道を、完全に塞いでいた。
彼らは主君である信虎の姿を認めても、一切陣形を崩そうとしない。
そこには、主君の帰還を歓迎する空気など微塵もない。
あるのは、敵を前にしたかのような冷徹な、不気味なほどの緊張感だけであった。
「あれは、なんぞ」
馬上の信虎は眉間に、険しい皺を刻んだ。
主君の帰還であるというのに、門を開けぬばかりか出迎えの一人も寄越さぬ。それどころか槍を並べて、道を塞ぐとは。
それは怠慢などという言葉で片付けられるものではない。
信虎の身体から、戦場で敵を震え上がらせる猛々しい威圧感が、じわりと放たれ始めた。
「控えよ! 無礼者どもが!」
信虎が口を開くより先に、供回りの筆頭である武士が馬を前に進め、怒声を発した。
その声は、夕暮れの山間に鋭く響き渡った。
「開門せよ!この御方を、どなたと心得るか!甲斐国主、左京大夫様であらせられるぞ!」
主君の立場をこれほどまでに、はっきりと告げたのだ。
並の兵卒であれば恐れ慄き、慌てて道を開けるはず。
しかし──。
「……」
道を塞ぐ兵士たちは、怒声を聞いても一切表情を変えなかった。
石像の一群のように、そこに立ち尽くしている。彼らは目の前にいるのが、自分たちの主君ではないかのように冷徹に、その場に立ち続けていた。
不気味なほどの静寂と、統率の取れた規律。
痺れを切らした信虎の側近の一人が、ついに腰の刀に手をかけ、一歩前に出ようとした。
その瞬間であった。
「これは、これは」
熟した果実が落ちるのを待ち構えていたかのような、完璧な間合い。
どこか愉しんでいるかのような、若々しい声が一行の頭上から、静かに降り注いだ。
「駿河からのお客人でございますかな。して、そのように物々しい兵を連れて、我が甲斐に一体何の御用向きでございましょう」
はっと、信虎たちが顔を上げる。
夕暮れの茜色の空を背にして、一人の若武者が、砦の上から静かに信虎たちを見下ろしていた。
その姿を見て、信虎は驚愕に目を見開く。
「太郎……?」
そこに立っていたのは、甲斐に残してきたはずの自らの嫡男・武田晴信であった。
彼は、父とその供回りの者たちを、初めて見る物珍しい旅の一行でも眺めるかのように、値踏みするような視線で見下ろしながら、口元に薄い笑みを浮かべていた。
「若殿……?これは一体、どういうおつもりか!」
信虎の傍仕えが拭いきれぬ困惑を込めて、晴信に向かって叫んだ。
必死の問いかけに、晴信は喉の奥で笑う。
「おお、父上の供回りを務める、剛次郎ではないか。息災であったか。して、どうしたのだ?そんなに血相を変えて。何か、この国の入り口に不都合でもあったかな?」
その口調はあくまでも穏やかで、久方ぶりに会う旧知の仲に時候の挨拶でもするかのように、のんびりとしたもの。
「不都合どころではございませぬ!」
とぼけた物言いに、傍仕えの男は激昂する。
「なぜ、門を開かれぬのです!御屋形様が駿河よりお戻りであると、若殿の目には見えぬのですか!」
「無論、見えておるとも」
晴信はそこで、すっと瞳から笑みを消した。
「父上が長旅を終え無事に戻られたこと、同慶の至りよ。……だがな」
その声は氷のように、冷たい。
「父上はあくまでも、『旅のお方』。この甲斐の『国主』は、俺だ。国を、民を……そして家臣を守るのは、国主として当然の務め。不法に侵入しようとしている旅人を締め出すのもまた、俺の役目……」
「な……何を、訳の分からぬことを!若殿、正気におなりくだされ!何を仰っておられるのかお分かりか!?」
傍仕えの男が狼狽するばかりなのを見て、晴信は大袈裟に首を振った。
もはや視線は、傍仕えの男にはない。上からただ一点。馬上にて己を睨みつける、父・信虎の姿に真っ直ぐに注がれていた。
「物分かりの悪い家臣を持つと、骨が折れるであろうな。それに引き換え、我が父上は流石に聡明でいらっしゃる」
「……?」
言葉の意味を測りかね、傍仕えの男が恐る恐る、主君である信虎の顔を見やる。
そして、息を呑んだ。
そこにあったのは──。
「……」
凄まじいまでの、怒気。
眼は煮えたぎる溶岩のように、砦の上の息子を睨みつけている。
だが、額には隠しようもなく、脂汗がじわりと滲んでいた。
全てを悟っている男の表情であった。
自分が、息子に完全に裏切られたのだということを。
やがて、信虎の乾いた唇から、地を這うような低い声が漏れた。
「──謀りおったな、太郎」