目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第五十二幕 帰路の果て、故郷に背を向け

「──謀りおったな、太郎」


絞り出すような怨嗟の声。

それを受けてもなお、晴信の表情は変わらない。彼は薄い唇に、冷たい笑みを浮かべたまま静かに言い返した。


「人聞きの悪い。これは『謀』などではございませぬ、父上」


晴信は氷のような笑みを浮かべたまま、静かに続けた。


「歪んでしまったものをあるべき元の姿へと、戻すだけのこと。いわば……そう『摂理』」


そして、続けた。


「──なぁ、お前たちもそう思うだろう?」


不遜で、残酷な言葉が言い終わると同時であった。

晴信の背後。ぬっと複数の人影が一度に姿を現した。


「っ……!?」


信虎の傍仕えが、声なき悲鳴をあげた。

先頭に立つのは、晴信の傅役にして武田家筆頭宿老、板垣信方。

その隣には、同じく武田の宿老にして、譜代の重臣である、甘利虎泰。

そして、圧倒的な巨躯で晴信を背後から守るかのように、赤備えを率いる飯富虎昌。


「……」


いずれも、武田家が誇る重臣中の重臣たち。

信虎が自らの手足として誰よりも信頼し、そして誰よりも頼りにしてきたはずの将たちであった。

そんな歴戦の猛者たちが今静かに、息子・晴信の背後を、不動の壁のように固めている。

その光景は何よりも雄弁に、信虎に一つの事実を突きつけていた。


──自分に味方する者は、武田家には誰一人として残ってはいないのだ、と。


信虎の傍仕えが、信じられないといった様子で、上に立つ三人の重臣たちを指差すように叫んだ。


「板垣殿!甘利殿!飯富殿までも!お歴々は、自らが今、何を為しておられるのか理解しておられるのか!?」


そんな叫びに、しかし三人の重臣たちの表情は変わらない。

最初に口を開いたのは老練な宿老、板垣信方であった。


「理解……か。我らほど、今の武田家の現状を、そして未来を正しく理解している者はおらぬよ」


その声は静かだが、揺るぎない覚悟に満ちていた。

続いて、甘利虎泰が吐き捨てるように言う。


「我らが忠誠を誓うは、武田家の安寧と未来永劫の繁栄のみ」


そして最後に、飯富虎昌が重い口を開いた。


「我々はただ、我らが主君と定めた御方にお仕えするまでのこと」


冷たく、そして固い結束。

傍仕えの男は、震える声で言葉を口にした。


「こ、これでは、まるで……謀反では、ござらぬか……!?」


「謀反」という言葉を聞いた瞬間。

晴信は今日一番の、心底楽しげな笑みを、その美しい顔に浮かべた。


「謀反。──謀反か」


晴信はその言葉を、芳醇な酒でも味わうかのようにゆっくりと、口の中で転がした。


「うむ、確かにこれは……謀反やもしれぬな」


そして彼は、地上にいる父と家臣たちを見下ろし、言い放つ。


「──この甲斐国主たる俺に何の断りもなく、手勢を率いて国境を侵さんとする、武田の『前』当主殿による、な」


しん、と。

その場は水を打ったような静寂に支配された。

風が草木を揺らす、かさかさという乾いた音。誰かがごくりと、息を呑む音。

普段ならば気にも留めぬはずの、それらの音がやけに大きく、耳に響いた。


永遠にも思えるほどの静寂の後──。


「──そうか」


ぽつり、と。

馬上から乾いた声が、こぼれ落ちた。

武田信虎は、それまで身体に漲っていた全ての力を抜くようにして、ただ一言、そう言った。


諦観に満ちた主君の声に、傍仕えの武士たちが驚愕の表情で、信虎の顔を見上げた。


「殿……?」

「何も、言うな」


何かを言おうとした側近の言葉を、信虎は有無を言わさぬ響きで遮った。

そしてゆっくりと、その瞼を閉じる。


「……」


何かを考えている。いや、違う。考えているのではない。

思い出しているのだ。

一族が互いに血で血を洗う、骨肉の争いを繰り広げていたあの若き日から、今日この日に至るまで自らが、がむしゃらに非情に歩んできた、長きに渡る道筋を──。


誰も信虎の瞑想を、邪魔することはできない。

砦の上の晴信も、その背後を固める重臣たちも。そして、地上でどうすることもできずに立ち尽くす供回りの者たちも。

ただ静かに、目を閉じたままの老いたる虎の、次の一挙手一投足を見守っていた。


彼の脳裏に、今どのような光景が浮かんでいるのか。

甲斐統一のために、血に塗れて駆け抜けた若き日々か。それとも、自らの手で容赦なく切り捨ててきた、一族郎党の顔か。


──そうして、永遠にも思えるほどの静寂の後。


信虎はゆっくりと、瞼を開いた。

瞳には先ほどまでの煮えたぎるような怒りの炎はない。

全てを失い、全てを諦めた者の、空虚な光だけが静かに宿っていた。

彼は誰に言うでもなく、ただぽつりと乾いた声で、呟いた。


「さて。この老いぼれは、これからどうするか」


あまりにも弱々しい、ただの独り言。

その声は静まり返った国境の砦に、はっきりと響き渡った。


すると、その独り言に応えるかのように、晴信の静かな声がこぼれ落ちてきた。

彼もまた、父の方を見ることなく、遠い駿河の空を眺めながら独り言を呟いている。


「そういえば」


その声は、懐かしいことを思い出したかのような響きを持っていた。


「我が父上は、若い頃より海を眺めるのがお好きでいらっしゃったな」


晴信は続ける。


「駿河の海は、真に見事。それに、かの地には我が姉上も、婿殿である義元公もおられる。父上が、その余生を『穏やかに』過ごされるには……これ以上、うってつけの場所もあるまい」


それは、決して会話ではない。

ただ、二人の男が同じ空間で、別々の独り言を呟いているだけ。

その言葉が、互いの運命を決定づけているという、ただそれだけのことだ。


「駿河……駿河か」


信虎はその言葉を、初めて聞く異国の地名であるかのように何度も呟き、そして力なく、数度頷いた。


「少し前に、駿府を出たばかりだというのに、こんなにも早く戻っては婿殿も、さぞ驚かれるであろうな」


その声には、自嘲の色だけが浮かんでいた。

そして、父の独り言に、晴信が応えた。


「ふぅむ。今頃、我が書状が義元公の手元に届いているやもしれぬ」


その声は相変わらず、穏やかであった。

晴信はその書状を今読み上げているかのように、淀みなく内容を口にする。


「──『家中の事情により、父・信虎は暫し貴殿の元にて隠居の身と相成った。同盟の誼にかけて、よしなにお取り計らい願いたい。無論、滞在に掛かる費用はこちらで全て不足なく、お支払い致そう』……という、書状がな」


晴信の緻密に、そして用意周到に準備された言葉。それは既に、晴信の手によって、武田という勢力を完全に掌握されたということを示している。

しかし同時に、その言葉はこうも言っていた。


──命までは奪わぬ。同盟国である駿河にて、不自由のない穏やかで裕福な隠居暮らしをさせてやろう、と。


それは息子として父へ残した、最後の情けか。

それとも──下手に殺して家中に禍根を残すよりも、生かさず殺さず、遠国にて飼い殺しにする方が、合理的であるという冷徹な計算か。


「……」


信虎は、黙って天を見上げた。

そこには、血を流したかのように赤い夕焼けの空が広がっていた。


やがて、信虎は自嘲するかのように鼻で笑った。

誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。


「甲斐を纏め……伊勢や今川と渡り合い……思えば、生まれてこの方、馬の上でしか生きてこなかったようなものよ。……一度も、休むことなど、なかったわ」


その言葉を最後に、信虎はゆっくりと馬首を翻した。

故郷である甲斐の国に、背を向けて。


「暫し……駿河の海でも眺めながら、休むとしようか……」


その声には、もう何の力もなかった。

全てを失った一人の老人の、乾いた響きだけが、そこに残されていた。


「疲れた。あぁ……疲れた」



信虎はそう呟くと、一度も故郷の方を振り返ることはなかった。

来た道である、駿河への道へとゆっくりと馬を進ませる。。


「と、殿! お待ちくだされ!」

「殿!」


主君の寂しい後ろ姿に、供回りの武士たちが慌てて、その後を追っていく。

その一連の光景を、晴信は砦の上から目を細め、黙って見つめていた。


「……」


ゆっくりと馬で遠ざかっていく、父の後ろ姿。

それは、遥か昔。まだ、自分が何も知らぬ幼子であった頃。

恐ろしくて、そしてどこまでも大きく偉大に見えた、あの父の背中よりも。


なぜか今は、ひどく小さく見えた。


そうして、武田信虎の一行の姿が夕暮れの山の稜線へと、完全に消え去った時。

最後まで、無言で父の背中を見送っていた晴信がゆっくりと振り返った。


「さて」


その声は、もう信虎の息子としてのものではない。

新たなる甲斐の国主としての声。

晴信は背後に控える板垣、甘利、虎昌の三人の重臣たちと、その場にいる全ての兵士たちを鋭い瞳でゆっくりと見渡した。


「感傷に浸る暇はないぞ、皆の者」


その声は静かであったが、この場にいる全ての者の心を震わせた。


「これから、我らは……いや、武田は忙しくなる故」


その言葉が終わると、同時であった。

晴信の背後に控えていた板垣信方、甘利虎泰、飯富虎昌の三人が示し合わせたかのように、その場に片膝をついた。

そして、その三人の動きに呼応するように、全ての武田兵が一斉に地に膝をつき、深々と頭を垂れる。

武具が擦れ合う重々しい音だけが、静寂の中に響き渡った。


やがて、筆頭宿老である板垣信方が顔を上げ、朗々と叫んだ。


「はっ! 我ら一同、この命、御屋形様にお預けいたしまする!」


その言葉に、全ての兵士が声を揃えて応える。


「「「ははーっ!!」」」


地を揺るがすかのような、忠誠の誓い。晴信は、その光景を静かに見下ろしていた。


西の山の端に沈みかけていた夕日が最後の光を放ち、その赤い光が晴信と、彼に傅く家臣たちの全身を照らし出した。


「よろしい。この俺が、血で血を洗うこの浮世を静謐なる一幅の絵へと変えるその様を……皆に見せてやろう」


夕日の光を浴びて、武田の甲冑はまるで燃え盛る炎のように、真紅に輝く。

それは一つの時代の終わりと、後に戦国の世を、血で……そして炎で染め上げることになる、新たなる虎の誕生の瞬間であった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?