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第五十三幕 夢の残滓、現実に覚める

──あぁ。また、この夢か。


意識がひどく、朧げだ。

温かい陽だまりの水の中に、ゆっくりと沈んでいくような、そんな奇妙な浮遊感。

揺蕩う己の輪郭が、次第に穏やかな世界へと溶けていくような感覚。


「──おい。■■」


誰かが俺を呼んでいる。


懐かしい声。


(……母上、だろうか)


いや、違う。


母は、もう……。


「おい! 聞こえてんのか! 何、気持ちよさそうに寝てんだよ!」


肩をがくがくと、強く揺さぶられる。


「ん──」


重い鉛のようになった瞼を、こじ開ける。

最初に目に飛び込んできたのは、窓から差し込む穏やかなオレンジ色の光。

午後の陽光が教室の床に、くっきりとした四角形を描いている。

空気中を舞う、小さな埃の粒。鼻腔をくすぐるチョークの粉と、少し埃っぽい独特の匂い。


そして耳に届くのは──


「でさぁ、あいつその後なんて言ったと思う?」

「えー。やだぁー!あははは」


クラスメイトたちの、屈託のない、どこまでも、平和な笑い声──。


「ここは……」


掠れた声が、自分の口から漏れた。


(ここは、どこだ……? 確か……血に濡れた月夜の下で……母上を……)


母上を守ろうとして、赤鬼のような大男と……。


「おい、なに寝ぼけてんだよ~」

「え……?」


呆れ返ったような友人の顔が、こちらを覗き込んでいた。

見慣れた顔を見て、俺はようやく自分が何をしていたのかを、思い出す。


──そうだ。ここは、戦場ではない。


毎日通っている、学校の教室だ。


「あ……すまん。俺、寝てたか」

「寝てた、どころの話じゃないだろ。完全に意識飛んでたぞ」


友人はやれやれと肩をすくめてみせた。その声には、からかうような響きが混じっている。


「また夜通し、新作のゲームでもやってたんだろ?来週の小テストの勉強より、よっぽど大事なことだもんなぁ?」


あぁ、思い出した。

今は高校の放課後じゃないか。みな、帰り支度をしている……。


「それより……お前から聞いてきたくせに、途中で爆睡するなんて、酷いと思わないか?」

「聞いた……?俺が、何を?」


その瞬間、ごつんと鈍い音。

彼が手にしていた分厚い教科書が、俺の頭に抗議の意を込めて叩きつけられたのだ。


「いたっ」

「お前なぁ……」


友人は大袈裟な溜息をつく。


「来週の歴史の小テスト。そのために戦国時代のこと教えてほしいって言ったのは、どこのどいつだよ」


その言葉に、ようやく授業が始まる前のやり取りを、朧げに思い出した。

確かに彼に、歴史のことを教えてほしいと、頼んだのだったっけ。

こいつは自他ともに認める歴史オタク。その知識はそこらの教師を遥かに凌駕する……。


だが、一度語り出したら最後。こいつの話は延々と止まらないのだ。

きっと、彼の熱心な講義の途中で、意識を失ってしまったのだろう……。


「あぁ……そうだった、そうだった。すまん」

「『すまん』じゃないだろ。こっちは、せっかく、海野平の戦いから、武田信虎の追放劇っていう、一番ドラマチックな流れに、突入しようとしてたってのに。最高のクライマックスで、寝るやつがあるかよ、普通」

「あー……悪かった、悪かった。俺が悪かったです。だからもう一回、そんな誰も知らないところからじゃなくて、最初からクライマックスをお願いします。なるべく端的に……」


俺がそう言って改めて頭を下げると、友人は、分かりやすく機嫌を直した。


「おう!そうこなくっちゃな!」


彼は嬉々として、再び分厚い歴史の資料集を開いた。


「いいか?武田信虎は海野平の戦いで、大勝利を収めた。まさに絶好調。怖いものなし、だ。そこで信虎は、娘婿である今川義元に会うために、駿河へと向かうんだ 。まあ戦勝報告と、あとは生まれた孫の顔でも見に行ったんだろうな。あ、その時の孫ってのが、かの有名な今川氏真でぇ……」

(……誰だよ)


友人は、まるで見てきたかのように、生き生きと語る。

俺は今度こそ寝てしまわぬように、必死に言葉に耳を傾けた。


「ところが、だ。いざ甲斐へ帰ろうとすると、国境が封鎖されてて、入れない 。その間に甲斐国では嫡男の晴信、つまり後の武田信玄が、家臣たちをまとめて親父の信虎を追放する準備を整えてたってわけだ」


友人はそこで一度言葉を切ると、芝居がかったように声を潜めた。


「このクーデターを主導したのは、晴信と板垣信方、それに甘利虎泰といった武田家の超エリートの重臣たちだ 。表向きの理由は信虎の政治があまりにも、ひどかったから。度重なる戦争と重税で、領民も家臣も、みんな疲れ果てたって。だけど……」


友人は、にやりと笑う。


「だけど、こんな説もある。信虎が兄の晴信よりも、弟の信繁の方を可愛がってたから、晴信が親父に捨てられる前に先手を打った、なんてな」

「先手を打つって……戦国時代ってのも大変なんだな。実の親子で裏切ったの裏切られたのと、殺し合いの心配までしなきゃなんないとか。……俺には、ちょっと無理だ」


俺は心底どうでもよさそうに、相槌を打った。


「当たり前だろ!それが『下克上』なんだって。昨日の味方は今日の敵、親兄弟だって信用できない。毎日が、生きるか死ぬかのサバイバルなんだよ。……ロマンだろ?」


友人は目を輝かせながら力説する。

その熱量に、俺はわざとらしく茶化すように言った。


「最高だな。じゃあ、俺らもやるか?下克上。手始めに、生徒会長でも引きずり下ろしてみるか」

「馬鹿言え。内申に響くだろ」


友人は一瞬で現実的な顔に戻って、俺の冗談を一蹴した。


「お前、そういう突拍子もないことだけは、戦国武将並みの思考回路だよな。俺は、ご遠慮します」


そんな他愛もないやり取りをしながら、俺は心の底で静かに考えていた。


(……戦国時代のやつらも大変だな、本当に)


友人のように歴史を物語として、ロマンとして語る者がいる。

だが、俺には到底理解できない。


──殺し合うのが、好きなのだろうか。

──人のものを奪い、自分の力を誇示することが、そんなに楽しいのだろうか。


馬鹿馬鹿しい。


死ぬのが、嫌なら……殺されるのが、怖いなら……。

ただ、逃げればいいだけの話ではないか。


故郷を捨てるのは嫌だ?家名を捨てたくない?そんなもの、命と比べて何の価値があるというのか。

プライドだか、武士の意地だか知らないが、わざわざ死ぬと分かっている場所に赴き戦って、そして死んでいく。

非合理で、無駄な行為が俺には心底、理解できないのだ。


そんなことを考えていた時。


「おっと」


授業の終わりを告げる、無機質なチャイムの音が教室に響き渡った。

我に返った友人が慌てて、分厚い教科書を鞄に詰め込み始める。


「やべ、もうこんな時間じゃん。じゃあな、■■! 続きは、また明日!」

「おう」


俺は軽く手を上げて、教室を出ていく彼の見慣れた背中を見送った。


(また、明日……)


当たり前の何の変哲もない言葉が、なぜかひどく胸に沁みた。


友人が去り、他のクラスメイトたちも、がやがやと騒がしく、楽しげに教室から出ていく。

そんな平和な喧騒を、俺はぼんやりと眺めていた。


「──?」


だが、次第にその光景が、水の中に絵の具を落としたかのように、ゆっくりと滲んでいくのに気づいた。


「──なん……だ?」


クラスメイトたちの顔が、のっぺらぼうのようにぼやけていく。彼らの笑い声が遠い世界の音のように、くぐもって聞こえる。

窓から差し込んでいたはずの温かいオレンジ色の陽光は、肌を刺すような冷たい銀色の光へと変わっていた。

鼻腔をくすぐっていたチョークの匂いが消え、代わりに鉄錆びたような生臭い匂いが、鼻の奥にこびり付く。


(……なんだ、これは……!?)


世界が。

俺の知っている、当たり前の世界が崩れていく。


消えていく。

失われていく。


(嫌だ、待ってくれ……!)


叫ぼうとしても、声が出ない。

手を伸ばそうとしても、指一本動かせない。

温かく、平和で、そして息苦しかったかけがえのない世界が、俺を置いていこうとしている。


抗うことのできない、絶対的な喪失感の中。

俺の意識はゆっくりと、冷たい闇の中へと沈んでいった。

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